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中3の奥の細道の旅立ちについて 旅立ちの中に対句表現が4つありますが、その中...

質問者

m_a_s_m_happyさん

2014/10/2721:45:14

中3の奥の細道の旅立ちについて
旅立ちの中に対句表現が4つありますが、その中の
「舟の上に生涯を浮かべ」と「馬の口とらへて老いを迎ふる」は
なぜ対句になるんですか?

他の3つについては
・「月日は百代の過客にして」と「行きかふ年もまた旅人なり」は
旅人のことで対句

・「そぞろ神のものにつきて心をくるはせ」と「道祖神の招きにあひて
取るも手につかず」は、芭蕉の様子や心の状態で対句

・「ももひきの破れをつづり」と「笠の緒をつけかへて」は、芭蕉の
動作で対句

この3が対句となる理由はあっていますか?

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2014/10/2802:41:16

「対句」というのは、
「語格・表現形式が同一または類似している二つの句を相対して並べ、
対照・強調の効果を与える修辞法」
のことなのね。

「鶴は千年、亀は万年」とか、
「雄弁は銀、沈黙は金」とかのこと。

三好達治の詩で、対句のみでつくられたものがあるね。

「雪」
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ

こういう表現が「対句」で、
「対句である理由」ということを説明するには、
「どの語とどの語が「対応」しているか」とか、
「どの表現とどの表現が「類似」しているか」といったことを、
指摘しなければならないのよ。

上の例だと、

「鶴」と「亀」が「対応」している、
「千年」と「万年」が「類似」している。

「雄弁」と「沈黙」が「対応」している、
「銀」と「金」が「類似」している。

「太郎」と「次郎」が「対応」している、
「~を眠らせ、~の屋根に雪ふりつむ」が「類似」(ここは「反復」)している。

というように説明するのです。


さて、「おくのほそ道」の冒頭文だと、


>「月日は百代の過客にして」と「行きかふ年もまた旅人なり」は旅人のことで対句

これはちょっと違う。
「旅人のこと」ではない、「時間(月日、年月)のこと」です。
「過ぎ行く時間」を、「旅人」に喩えているのよ。

「月日」と「(行かふ)年」が「対応」し、
「(百代の)過客」と「旅人」が「類似」しているから対句、
なのです。
「過客」と「旅人」は、同義語だからね。



>「そぞろ神のものにつきて心をくるはせ」と「道祖神の招きにあひて
取るも手につかず」は、芭蕉の様子や心の状態で対句

「取るもの」だね。

「芭蕉の様子や心の状態」というのは合っているよ。
両句とも「芭蕉の様子や心の状態」を表わしていて、
「そぞろ神」と「道祖神」が、いずれも「神の名」で「対応」している。
(尤も、「そぞろ神」は芭蕉の造語だけど)
「ものにつきて」と「招きにあひて」が、表現上の「類似」。
「心をくるはせ」と「取るもの手につかず」が、意味上の「類似」。
を表わしているから対句、
なのです。



>「ももひきの破れをつづり」と「笠の緒をつけかへて」は、芭蕉の動作で対句

「芭蕉の動作」というのは合っているよ。
両句とも、「芭蕉の動作」を表わしていて、
「ももひきの破れ」と「笠の緒」が「対応」している、
「つづり」と「つけかへて」が「類似」しているから対句、
なのです。


さて、問題の、
>「舟の上に生涯を浮かべ」と「馬の口とらへて老いを迎ふる」は
>なぜ対句になるんですか?
なのだけど、
これは、もちろん、
「舟の上に」と「馬の口とらへて」が「対応」、
「生涯を浮かべ」と「老いを迎ふる」が「類似」しているから対句、
というわけなのだけど・・・

舟の上に生涯を浮かべる人、
つまり、波のまにまに漂う、不安定な舟の上で一生を送る人、とは、
渡し船などの「船頭」のこと。
「板子一枚下は地獄(船底の板一枚を隔てた下は地獄ともいえる深い水底)」
といわれる、危険で過酷な仕事だよ。

馬の口輪をつかんで老いを迎える人、
つまり、どっちを向いて歩きだすかわからないような、
気まぐれな馬の口輪をつかんで、
馬を操りながら、老人になるまで年をとっていく人、とは、
馬を引いて人や荷物を運ぶことを職業とした、
「馬方」「馬追い」「馬子」のこと。
「馬子にも衣裳」という言葉でもわかるとおり、
ふつうは粗末な着物しか着られないような、低賃金の重労働だよ。


この2種の職業は、芭蕉の想定する「最も不安定な生業(なりわい)」の例なのね。

それから、この回答、以下4行は、
第2回答者のkukumasa1119さんのご回答に気付いてから加筆し、
再投稿したものなのだけど、
こちらの方のおっしゃるとおり、
「船頭」と「馬子」といえば、「旅」につきもの、「旅人」のパートナーよね。


とんでもないこと言ってる人がいるけど、
もちろん、 「今までの人生の回想」などではありません。
松尾芭蕉は、寛永21年に伊賀上野で生まれてから、元禄7年に大坂で死ぬまで、
生涯一度も「船頭」や「馬子」をして生活の糧を得たことはありません。

kukumasa1119さん

2014/10/2801:16:13

舟の上に生涯を浮かべは、船頭(センドウ 櫓と櫂(ロとカイ)を使って舟をあやつる人)のこと、馬の口とらへて老いを迎ふるは馬子(マゴ 馬に客を乗せて運賃をもらう人)のこと。当時の旅は自分の足で歩く・駕籠(カゴ)か蓮台(連台・輦台 レンダイ 日本史に出て来る大井川などの川を越すためにかついでもらう乗物)に乗る・馬か舟に乗るしかなかった。即ち現代風に言うと交通機関の担い手(ニナイテ 担当している人)で船長と運転手ということ、当時の人が旅と言われてすぐに連想する職業の人である。「この人達は旅をすみかとする職業について人生を送っている。さて、この私も〜」と旅に憧れる自分の話に続けていくわけ。また駕籠かきは二人一組の仕事だからこの私とは並べられないので、この二つの職業を選んだのだろう。

liesei_1981さん

2014/10/2800:16:18

どちらも今までの人生を回想しているから

下の三つはそれでいいと思います

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