広島市 東区 矢賀新町 焼肉 三甲
竹原慎二物語 2
「まさかの王座転落・・・苦悩の決断」
文・平林浩一
前人未到の快挙を成し遂げた慎二の人生は、一夜明けると180度かわっていた。今まで、ソッポを向いていたマスコミの取材が連日、連夜、自宅にまでも殺到し、テレビの出演依頼も数多く、改めて世界王者の地位の高さを痛感したのだった。しかし、慎二が世界チャンピオンを倒したあの試合は深夜1時15分からの録画放送とあって、まだまだ認識されていないのが現実であり、一部のボクシング関係者の中には「ホルへ・カストロは竹原を油断していた為、まぐれで竹原は勝った、今の世界ミドル級はレベルが低いと陰口をたたく者もいた。この事を知った慎二は、新たに闘志を燃やす。「防衛して見返してやる!!」と。 慎二の気持ちとは裏腹に母親まり子は(親の立場から)慎二の身体の事を常に心配していた。
ちょうどその頃、二人のこんなやりとりが電話でされた。
「あんた、いつまでボクシングやるん?もうチャンピオンになったんじゃけぇーやめんさい」
「一回負けたら辞めるよ、何回も防衛して家を建てて楽な生活させてあげるよ」
「家も金もいらん早くボクシング辞めんさい」
母親まり子が、ボクシングをやめろと云うのには理由があった。カストロ戦を終えてから、慎二には、たびたび頭痛が起こり、時には、左目が霞んで見えるという症状が起きていたのだ。慎二は広島の父と兄だけに、この事を打ち上げたが、このことを知った母はこれ以上ボクシングを続けて欲しくないと強く願っていたのだ。
年が明け1996年2月、故郷広島で盛大の祝勝会が行われた。500人を越す大勢の人達がお祝いに駆けつけ、地元テレビ局4社も取材に来ていた。元広島の不良少年は多くの人達の祝福されると同時に次の防衛戦に向け激励された。だが、母親まり子だけは結局この日、祝勝会に顔を出す事はなかった。
そして、数日後、1996年6月24日横浜アリーナで挑戦者1位ウイリアム・ジョッピー(アメリカ)との防衛戦が決定する。しかも、慎二にとって初めてのゴールデンタイム生中継、会場も1万8000人収容する大会場。今まで3000人収容の後楽園ホールでしか戦ったことのない慎二にとって一気にスターにのし上がる絶好の舞台が整ったのである。前回のカストロ戦の時とは打って変わり、ジョッピー戦は、マスコミ、ボクシング関係者の間では楽勝ムード一色で覆われていた。あのカストロに比べ挑戦者ジョッピーは、パンチ力もない、慎二の相手にはならないと言われていたからだ。試合間近の公開スパーリングでも、慎二はパートナーを次々となぎ倒し、好調ぶりを披露。KO勝ち間違い無しと太鼓判を押される。
試合を三日後に控えたある日、広島の兄はふと一つの異変に気づいた。今まで試合前でも平気で電話してきていた慎二なのに今回は一度も連絡をよこして来ない。かすかな不安を感じた兄は、慎二の元に電話をいれてみた。
「慎二、調子いいかぁ、カストロに比べたらジョッピーは楽勝よう」
と試合前の緊張をほぐす為、軽いノリで言葉をかける、兄の思いやりは解かっていながら慎二は
「うん」
と小声で答えるのが精一杯であった。今までは追う立場で、いつも上を見て走ってきた慎二だが、世界チャンピオンになった瞬間から、今度は追われる立場になり、「勝って当たり前!」と世間からいわれる度に、強いプレッシャーに襲われていたのだった。
そして試合当日、開始3時間前に広島から応援に駆けつけた友人、兄が会場近くで慎二とすれちがう。兄は、「慎二っ」と大きな声で呼んでみたが、彼は気づくことなく通りすぎていった。強度のプレッシャーで、慎二には何も聞こえていなかった。
ついに1万3千人の観衆で埋め尽くされた横浜アリーナに、初防衛戦のゴングが鳴り響いた。
1ラウンド、まるで別人の慎二がそこにいた、カストロ戦の時のような威勢がまったく無く、体は硬直し、フットワークもぎこちなく、繰り出すパンチはすべて大振り、ジョッピーはそれを楽々とかわしていた。1ラウンド後半ジョッピーの右ストレートをタイミング良くもらい、慎二は体のバランスを崩す。右足膝をついてしまいダウンとしてカウンとを取られ、1ラウンド終了のゴングがなった。
リングサイドで見守っていた父は、大声で慎二に向かって叫んでいた、「あせるなよ、冷静になれ」と、しかし慎二の耳には、届くはずも無かった。
2ラウンド開始のゴングがなる。ダウンを取られ、ますます焦りが出てくる慎二。倒してやると闘志を燃やすほど力みが出て、いつものキレのある動きから遠ざかってゆく。振り回すと見事にかわされ、ジョッピーは舌を出し、慎二を挑発。ムキになる慎二。ますますジョッピーペースの試合展開となっていった。
しかし、8ラウンド、打っては離れ、打っては離れる、アウトボクシングに徹していたジョッピーがスタミナ切れを起こし始めたのである。初めて慎二はジョッピーをロープに追いこみ、左右フックが挑戦者の顔面を捕らえた。一瞬、ジョッピーの足は硬直、会場からは、われんばかりの大声援が起こった。あと一歩でジョッピーは倒れると誰もが思った瞬間、無情にも8ラウンド終了のゴングが鳴った。
運命の9ラウンドのゴングが鳴った、KO以外に勝ち目が無いと思った慎二は、ガードを下げジョッピーを打ち合いに誘った。ジョッピーはここぞとばかりにパンチを繰り出し、慎二もこれに応戦した。激しい打撃戦のさなか、慎二の繰り出した左フックが相手のみぞおちに決まる。苦痛の表情を浮かべるジョッピー。「慎二、今だ行けー!!」と観衆が大声で叫び、運命の女神は慎二に微笑んだかにみえた、その時、ジョッピーの捨て身の右ストレートが慎二のアゴをとらえた。最後の力を振絞り激しく攻撃してくる挑戦者。慎二はロープに追い込まれジョッピーの左右の容赦ないパンチを雨あられのように浴びながらもかろうじて立ち続けていた。倒れるわけにはいかなかった、いや負けるわけにはいかなかった。だが慎二の気力は限界であった。ついにレフリーが両者の間にわって入り、横浜アリーナに試合終了のゴングが鳴り響いた。
レフリーに抱きかかえられコーナーに戻る慎二、リング上で飛び跳ね回り、喜ぶジョッピー、静まりかえる会場を後にする人々・・・・。慎二も父と兄に抱きかかえられ、無言で会場を後にした。こうして、ミドル級のベルトが再び故郷アメリカに帰っていった。
戦いが終わり慎二は広島の母の元に電話を入れた、
「かあちゃん、負けたけぇ」
母は落ち込む慎二とは対照的に、明るくこう答えた
「今までごくろうさん、かあちゃんはこの日を待っていました。」
母は慎二との約束を守ってもらうつもりだった。一度負けたら辞めるという、あの約束を。
しかし、母の思いに反して、ジョッピーに屈辱を味あわされた慎二は、もう一度あいつと戦い、ベルトを奪い返してやると、独り心に誓う。
試合3日後、慎二の目に異変が起こり始めた。左目の視力が急激に下がり、視点が定まらなくなってきたのであった。病院で検査をうけ、網膜はく離と診断され3度の手術。落ち込まないはずは無かった。ジョッピーからベルトを奪い返してやると決意した矢先だったからである。
そんな中、今だボクシングに熱い情熱を燃やす慎二へ、母はこう云った。
「一回負けたら辞めるって約束しとったじゃろう?ヤクザの世界じゃないんじゃけぇ ベルト取った取られたはどうでもいい、一度世界王者になったんじゃけぇこれからは長い次の人生を考えんさい」
母としては絶対に認めたくなかった。まして、左目の視力がなくなっている慎二のカムバックを許さなった。
実は慎二には世界チャンピオン奪還とともに、もう一つやり残した事があったのだ。以前母に云った「家を建ててあげる」という約束であった。それを打ち明けると、母は「家も金も要らんまた一からコツコツと働いてがんばりんさい」とやさしく慎二をなだめた。
母の説得があったものの、しばらく慎二は悩み苦しんだ。一度は手に入れた世界チャンピオンの地位。称賛の数々。栄光の座から谷底に突き落とされた苦痛は、そう簡単に癒されるものではなかった。
それから4ヶ月がたったある日、母の元に慎二から一本の電話が入った、
「かあちゃん、今日からタバコ吸うけぇ」
16歳でボクサーになるために断ったタバコ。またタバコを吸い始めるということは、ボクサーを引退のふんぎりをつけるという意味を表していた。今まで苦労をかけた母に、これ以上心配させたくないという苦悩の末の決断であった。
こうして、ボクサー慎二の幕は閉じる。
1996年10月24日引退表明
(文中敬称略)
母、竹原まり子のことば
現役時代、竹原慎二を応援してくださった皆様、長い間どうもありがとうございました。いろんな方に、「なぜ引退するんだ、早過ぎるぞ」と言われましたが、目を3度も手術し視力もかなり低下し、母としてはもうこれ以上、ボクシングを続けさせるわけにはいきませんでした。世界チャンピオンとしては短命に終わりましたが、慎二の夢だったミドル級チャンピオンに一度でもなったことで慎二の苦労と努力が報われたと思います。私はそれだけで十分です。
これからも、竹原慎二を、よろしくお願いします。
竹原慎二 プロフィール
1972年1月25日生まれ
広島市 府中町 出身
身長 186cm
体重 78kg
血液型 A
好きな食べ物 焼肉 パスタ
【焼肉 三甲】
広島市東区矢賀新町5-2-9 TEL(082)281-2994
■営業時間:ランチ 11:30〜14:00 17:00〜23:00
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