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句作初心者です。 助詞の「が」と「の」の使い分けについて教えてください。 天井...
質問者
2014/10/2609:46:06
句作初心者です。 助詞の「が」と「の」の使い分けについて教えてください。
天井が高くて古きビアホール(桃邑) を例句にします。
(私の質問)「が」を「の」に替えたら どうちがうイメージになるでしょうか?
(私のイメージ)「が」は読み上げた時に「音」が強くなりすぎるので「の」に替えたい。
どなたかご教示ください
補足よく考えてみたら
天井「が」高くて古きビアホール・・・これで完結しているように感じます
天井「の」が高くて古きビアホール・・・未完結の感じがします 「ビヤホール」のあとに述文が続きそうです
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質問者
2014/10/2710:05:09
ありがとう
天井が高くて古きビアホール(桃邑) これが原句ですが
天井[も]高くて古きビアホール
天井は 高くて旧き ビアホール
天井の 高くて旧き ビアホール
などなど、それぞれに微妙な味わいの違いがありそうです。
じゃ、「他に何が「高く」て「古い」んだろうか」と言われてしまえば身も蓋もありません。
子規についてさえ議論が絶えない世界です。それがまたおもしろい。
「糸瓜三句を絶唱するため、数千句の練習ノートを公開した」説は、小生もそれなりにうなづけます。それにしても絶唱三句はすさまじい。
入門したての初心者がいうのもおこがましい限りですが「自分なりの発見を言葉でたたかう遊び」が句、と理解しています。
それがどうした!といわれれば返すことばもありません。
i_pay_sanさん ご一緒にあそびませんか。
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2014/10/2621:59:03
回答は言うまでもなく、aomostafoooooolさま「の」おっしゃる通りです。なぜ余計なおせっかいをしに出て来たかと申しますと、aomostafoooooolさまのストーカーをしているliesei_1981が登場して またまたお得意のでたらめを並べておりますので、nur_wer_die_sehnsuchtさま同様、見るに見かねてのことでございます。liesei_1981は自分「の」書いていることを理解しておりません。
芥川龍之介はその「の」を偏愛しておりまして、「が」のほうがよかろうと思われる時でも 強引に「の」を用いております。それについては質問者さまが感覚的にとらえられたことも当たっておりますし、aomostafoooooolさまが論理的に説明してくださったこととも一致します。もちろんnur_wer_die_sehnsuchtさまが諧謔をまじえつつ おっしゃったことも。
余談ですが 私は中学時代の作文に 芥川をまねて「の」を多用したところ、ことごとく赤ペンで「が」に訂正されてしまいました。まあ「シルレル」も「屈原」も知らない国語教師でしたから しかたありませんね。(笑)
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質問者
2014/10/2708:51:24
ありがとう
本当のはなし、aomostafoooooolさんのご教示は都合10回は読み通しました。それでもなお、前半の「文法論」は小生にとってむずかしい。各論の「ビアホール」はすっきりと胸におちました。
同様に、liesei_1981さんのご回答も10回は読ませていただきました。正直よくわかりません。
結局のところ、俳句と文法は親しくないようです。大きなことを言わせていただければ、日本語を文法で解釈するのはなにやらしっくりしません。論理を述べるために文法が必要であって、その点、日本語は論理には適さないように感じます。関係代名詞という武器をもった英語のほうがはるかにわかりやすい。
(私なりの結論)
句作にあたっては、読み込んで読み込んで、言葉のながれを見極めていきたい。
ありがとうございました。
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2014/10/2620:27:48
秋風の吹けども青し栗の毬(芭蕉)
文法的なことは、文法の権威であられるamostafoooooolさんのおっしゃる通りで、質問者さんもご納得されたでしょう。
一方、あとから出てきたliesei_1981というのは、毎回デタラメを書き散らす知恵袋の鼻つまみ者ですから、ご注意を。
カテマスであられるamostafoooooolさんを付回し、デタラメでもって否定して回るという悪質なストーカーです。以前にデタラメを指摘されて、逆恨みしてのことなんですね。
それで俳句のことですが、文法に則ることは前提ですけど、俳句の場合、字数の制限が非常に厳しい。
ただ、芸術というものは全て「余白」が命です。描ききれない、語り得ないものを語るということは、この「余白」によって為されるんですね。
和歌の場合は、怖ろしく厳しい字数の制約を設けることで、広大な余白を実現した芸術なんです。だから文法的にも、外れるという表現は良くないかもしれませんが、省略、隠すことでそこにあるはずのものが喪われ、同時に余白が生まれる、ということがあるんです。
今回呈示されたその句では、確かに文法的には「が」でなければおかしい。
しかしその大前提があるからこそ、敢えて「の」を用いることで拡がる世界がある、とも言えるんです。
外れるからこそ、「天井」というものを前面に出す効果がある。
また
天井は 高くて旧き ビアホール
とすることでも別な味わいがありますよね。
文法的に拘らない、というのはまったくの間違いで、文法を熟知した上で、それを縦横無尽に駆使して更に高踏である、ということが正しい姿勢と思います。
J.A.シュモルの『芸術における未完成』という名著がありますが、その中で、芸術がノン・フィニト(non finito:意識的未完、とでも訳しますか)であることが、最深の層へ至る、ということを語っています。
そういう意味では、補足で質問者さんがおっしゃるような「あとに述文が続きそう」というのは、効果とも言えるのではないでしょうか。まあ、俳句に精通した人がどう評するかはわかりませんけどね(笑)。
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質問者
2014/10/2708:01:31
ご忠告もふくめ、ありがとう
実はamostafoooooolさんへの返信に「文法間違いを含んだ俳句を披露したんでは恥ずかしい」と書きましたが「文法間違いを承知の上なら別ですが」と、”返信の返信”を書き込もうかと迷っていました。(まよってばかりです)
nur_wer_die_sehnsuchtさんから、明快で心強いご教示をいただき安堵しました。
秋風の吹けども青し栗の毬(芭蕉)
この句は初見ですが、なにやら老境のトバ口に立った小生を、芭蕉先生がからかっているような、また励ましているような楽しい心地がします。
あらためてありがとうございました。
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2014/10/2617:37:47
「が」と「の」の違い
「が」は主節でも従属節でも主格に立ちますが
「の」が主格を表わすのは従属ですだけです
従属節も今回のように名詞を修飾する動詞句や形容詞句だけです
¶ 天井が高い
これは主節に成れます
¶ 天井の高い
そのままでは文になりません
文が完結しないと感じられるならそれが理由です
他の違いは御説の通り音の印象です
濁音は強く感じられます
擬音語や擬態語にも現われます
ゴトゴトとコトコト
ガタガタとカタカタ
後者は小さなものが発生する音です
俳句は江戸時代に俳諧として誕生したものなので
使われる語や語法は当時が基準です
短歌と同じで現代語を用いる人もいます
なので厳密な古典文法は必要ありません
使い分けは現代語の解釈で大丈夫です
他の回答には誤りがあります
「が」も「の」も元々は連体助詞です
「の」だけではありません
「が」は所有関係を表わし
「の」は同格と場所などの帰属です
¶ 我が思ふ人
私の「思う人」
これがやがて
¶ 我が思ふ
のように主節の中で主格を表わすために使われるようになりました
「の」がどうして所有を表わすようになったかですが
偉い人は直接名前を言うのが恐れ多いので
住んでいる場所などで代用しました
その場所にあるものはその人の所有です
場所を表わす「の」が所有を表わすと感じられるようになりました
そのため実際に所有の意味を持ちました
同じ所有を表わす場合「の」が偉い人に使われたので
相対的に「が」の地位が下がり目下に使われるようになりました
そのため普通は「が」は自分や親しい人の所有に使われ
親しくない人に言うのは見下した場合です
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2014/10/2615:04:00
俳句に文法的な御託を並べても・・・と思い、
この質問には回答しないつもりだったのですが、
補足を読んで、言語センスというものがおありの方と思いましたので、
気を変えて、回答させていただくことにしました。
格助詞の「の」の主格用法というのは、
本来、格助詞「の」の連体修飾格用法から転じたもので、
「背の高い紳士」とか「金の生る木」とか「翼の折れたエンジェル」とかいうように、
「AのBな(Bする)名詞」という形でしか用いられないのです。
「Bな(Bする)」のところは、必ず連体形になります。
BはAの状態や動作を表わします。
AはBの主格になります。
「高い」は「背」の状態を表わし、
「背の」は「高い」の主語になっていますね。
そして、「高い」は形容詞の連体形で、
「紳士」という名詞(体言)に接続しています。
「生る」は「金」の動作を表わし、
「金の」は「生る」の主語になっていますね。
そして、「生る」はラ行五段活用の動詞の連体形で、
「木」という名詞(体言)に接続しています。
「折れた」は「翼」の動作(といいます、「状態」ではありません。「折れる」は動詞ですから。「状態」というのは、形容詞や形容動詞で表わされるもののことなんです)を表わし、
「翼の」は「折れた」の主語になっていますね。
そして、「た」は完了・存続の助動詞「た」の連体形で、
「エンジェル」という名詞(体言)に接続しています。
このように、「の」を使った主述関係というのは、
連体修飾部を構成して、後続の体言に係り、この体言を修飾する、
という性質をもっているのです(複文構造の文の場合)。
そのことを、最初に、
「本来、格助詞「の」の連体修飾格用法から転じたもの」
と申し上げたのです。
つまり、「の」を含む主述関係は、その連文節全体で、
「連体修飾(名詞を詳しく説明する)」役割を担うのです。
「その紳士は背が高い。」という文は言えても、
「その紳士は背の高い。」とは言えないでしょう。
「の」を含む「背の高い」という主述関係が係っていくべき「体言(名詞)」がないので、
文が成立していないのです。
「この木には金が生る。」=○
「この木には金の生る。」=×
「その天使は翼が折れた」=○
「その天使は翼の折れた」=×
も同様です。
さて、ご質問のビアホールですが、
「天井「の」高くて古きビアホール」では、
「天井の」という主語を受ける述語となるはずの「連体形」がないのです。
「天井の」の主語は、当然、「高くて」に係るはずですよね。
そうすると、「天井の」という主語を受ける述語である文節中の活用語は、
「高くて」と、連用形(+接続助詞「て」)ではなく、
「高い」と、連体形をとっていなくてはなりません。
「天井の高い、古きビアホール」なら、文として成立します。
でも、「天井の高く(て)、古きビアホール」では、文が成立しないんです。
もし、無理やり、「天井の、高くて古き、ビアホール」とするなら、
「天井の」の主語はどうしても連体形を求めますから、
「古き」に係ると考えるしかなくなります。
すると、「天井」が「高く」て、さらに「天井」が「古い」、ビアホール、
という叙景になってしまうのです。
これでは、句意が壊れますよね。
句意は、「天井」は「高く」て、「ビアホール」自体が「古い」のですものね。
というわけで、「の」は、「が」では濁音で音がきついから、
というだけの理由では、簡単には「取り換え」られないものです。
なお、「連体修飾格」の「の」と「が」の用法に関しては、
古典文法的には、「近称の「が」」、「遠称の「の」」といって、
自分に属したり、自分に近いものに「が」を用い、
相手に属したり、自分から遠いものに「の」を用いる、
といった法則が見られますが、
これは、今回のご質問とは関係のないことだと思います。
ご質問は、あくまで、「主格」の「の」と「が」の用法のことと解釈いたしました。
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