「美の民主化」を進めよう
インダストリアルデザイナー・榮久庵憲司氏④
インダストリアルデザインとは物のデザインですが、私が物にかかわっていこうと心に決めたのは終戦後、広島に復員したときです。原爆で、町は一面の焼け野原。遺体は片付けられた後でしたが、自転車が焼け落ち、自動車や電車が引っくり返っていました。そして焼け焦げた鍋、釜……。私がリュックサックを背負って立っていると、それらの物から声が聞こえてきました。幻想かもしれませんが、救いを求める声が聞こえてきたのです。そのとき私は物には心があると初めて実感し、自分は物の世界に進もうと思ったのです。まだデザインという言葉を知らない16歳のときでした。
日本が米軍に負けたのは、物資不足が原因という腹立たしい思いもありました。広島に進駐してきた米軍の兵士は、アイロンのかかったギャバジンの制服を着て、格好よかった。印象深いのは水筒です。腰の部分に曲線があった。日本の水筒は直線なので走るとぱたぱたする。しかしアメリカの水筒は腰にぴったりフィットしていました。このほか、ラッキーストライクのたばこ、ハーシーのチョコレート、4輪駆動車のジープ。特にジープの上に座ったままポケットからチョコレートを出して子どもに渡す風景に、物質的隆盛を嫌というほど感じていました。
美しい景色を自分のものと思ったらもっと楽しくなる
同じ頃、鞆(とも)の浦へ行きました。そこで見た瀬戸内の海は、言葉を失うほどきれいだった。陸を見ると焼け跡ですが、海を見ると美しい。大きな矛盾ですよね。その瞬間、小さい頃、父に言われた言葉を思い出しました。「この美しい景色を自分のものと思ったらもっと楽しくなるよ」、と。確かに美しいものが自分のものと思えると、とても楽しくなりました。
そうした経験が合わさって、私は「物の民主化」、しかも「美の民主化」を進めようと決意しました。それまでは、絵画などの「美」を持つことができるのは特権階級だけ。しかし、量産品の工業製品を美しく作れば、もっとたくさんの人たちが「美」を実際に持つことができる。それに貢献したいと思ったのです。それが私の仕事、インダストリアルデザインへとつながっていきました。
こうした人生の転機になる場面は、人間誰しもが多かれ少なかれ、いつか経験することだと思います。その瞬間を逃さず把握するために、さまざまなことを知り、感動し、日頃から自分の知的・情緒的認識を高めておくことが大事です。その認識が高まれば高まるほど、物事を集中して見ることができ、強い決意へとつながるはずです。