福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
栄久庵憲司
えくあん・けんじ
GKインダストリアルデザイン研究所所長、株式会社GKデザイン機構会長
栄久庵憲司
生:昭和4年(1929年)9月11日、東京府北豊島郡西巣鴨町生まれ
昭和4年(1929年)9月11日 東京生まれ。その後ハワイ−福山(郷分)−東京ー広島と転居
昭和5年(1930年)11月 1歳 ハワイに移住
昭和10年(1935年) 5歳 ハワイ ホノカア小学校へ入学
昭和12年(1937年) 7歳 帰国し、福山・郷分に住む
昭和12年(1937年)10月 8歳 東京西巣鴨に移り、西巣鴨第一尋常小学校へ編入される
昭和17年(1942年) 12歳 東京府立第五中学校(現東京都立小石川高等学校)入学
昭和20年(1945年)3月 15歳 海軍兵学校へ入校
昭和20年(1945年)9月末ごろ 16歳 広島県立福山誠之館中学校に編入
昭和22年(1947年) 17歳 広島県立福山誠之館中学校卒業
昭和22年(1947年) 17歳 仏教専門学校(現仏教大)入学
東京都立第五高等学校(現東京都立小石川高等学校)へ再入学
昭和25年(1950年)4月 20歳 東京芸術大学へ入学
昭和27年(1952年)11月15日 23歳 在学中からGK工業デザイン室を結成
昭和30年(1955年) 25歳 東京芸術大学美術学部図案科卒業
昭和31年(1956年) 26歳 アメリカ・ロサンゼルス市のアートセンターカレッジオブデザインに留学
昭和32年(1957年)8月12日 27歳 有限会社GKインダストリアルデザイン研究所設立、所長となる
昭和37年(1962年)〜
 昭和44年(1969年)
32〜
39歳
JIDA(日本インダストリアルデザイナー協会)理事
昭和39年(1964年) 34歳 カウフマン国際デザイン賞(研究賞)受賞
昭和42年(1967年)〜
 昭和48年(1973年)
37〜
43歳
東京大学工学部で講師
昭和42年(1967年)〜
 昭和45年(1970年)
37〜
40歳
大阪万博でデザインを担当
昭和45年(1970年)〜
 昭和51年(1976年)
40歳〜
46歳
(社)日本インダストリアルデザイナー協会理事長
昭和45年(1970年) 40歳 横浜市営高速鉄道計画デザイン委員会委員
昭和46年(1971年)〜
 昭和48年(1973年)
41〜
43歳
国際インダストリアルデザイン団体協議会(ICSID)理事
昭和47年(1972年) 42歳 ロスアンジェルスにGKDI(GKデザインインターナショナル)を設立
昭和47年(1972年)〜
 昭和49年(1974年)
42〜
44歳
通商産業省デザインイヤー事業運営委員
昭和48年(1973年) 43歳 第8回世界インダストリアルデザイン会議(ICSID’73KYOYO)実行委員長
昭和48年(1973年)〜
 昭和50年(1975年)
43〜
45歳
ICSID(国際インダストリアルデザイン団体協議会)副会長
昭和50年(1975年)〜
 昭和52年(1977年)
45〜
47歳
ICSID(国際インダストリアルデザイン団体協議会)会長
昭和50年(1975年)〜
 昭和53年(1978年
45〜
48歳
通商産業省デザイン奨励審議会委員
昭和51年(1976年)〜
 平成5年(1993年)
46〜
63歳
(社)日本インダストリアルデザイナー協会理事・総務会長
昭和56年(1981年) 51歳 「国際デザイン交流協会」を設立、理事に就任
昭和58年(1983年)〜
 平成11年(1999年)
53〜
69歳
東京国立近代美術館運営委員
昭和61年(1986年) 56歳 アムステルダムに「グローバルデザイン社」を設立
平成元年(1989年) 59歳 世界デザイン博覧会綜合プロデューサー
平成3年(1991年)〜
 平成4年(1992年)
61〜
62歳
通産省生活産業局伝統的工芸品産業審議会基本問題検討委員会委員
平成4年(1992年) 62歳 通産省デザイン功労者表彰
平成4年(1992年) 62歳 藍綬褒章
平成6年(1994年) 64歳 中国・青島に合弁会社を設立
平成6年(1994年) 64歳 「日本のデザインを考える会」を設立
平成7年(1995年) 65歳 「日本のデザインを考える会」を「日本デザイン機構」に発展させ会長に就任
平成8年(1996年) 66歳 「道具学会」を設立、会長に就任
平成10年(1998年)7月 68歳 「世界デザイン機構」を設立、初代会長
平成12年(2000年) 70歳 静岡文化芸術大学、デザイン学部長
平成12年(2000年)11月3日 71歳 勲四等旭日小綬章
平成16年(2004年)5月16日 74歳 誠之館同窓会総会において記念講演
 「心とモノをつなぐデザインのあり方」
平成25年(2013年) 83歳 世田谷美術館において「栄久庵憲司とGKの世界−鳳が翔く」を開催
平成26年(2014年)5月28日 84歳 第23回コンパッソ・ドーロ賞国際功労賞
日本インダストリアルデザイン研究所長
日本未来学会常任理事
  「ブラックホール誠之館」      栄久庵憲司   (出典1)
 誠中は、東京生まれの私にとって終戦がもたらした突然の中途入学の中学校だった。福山は父の故郷ではあったが、福山弁をはじめとし私にはまるで異国だった。在校期間は短かったがそれだけに印象は極めて強かった。文化の相違と戦後の生活困窮が瞬間に訪れただけに、形容し難い不思議な時間、空間を経験した。
 東京の中学から海兵に入り、そこで終戦を迎えた。家族は東京から広島に移っていたので復員して広島に帰郷したが、原爆で何もかもが無に帰していた。茫然自失、そこから私の人生がはじまったといっていい。凄絶な原爆都市広島には私という存在の意志だけがあった。父方の親類を頼りに鞆に仮住まいを求めた。無類に美しい鞆の浦がそこにあった。東京の中学校には帰れず、親類のすすめもあって戦前従兄が通っていた誠中に入学の許しを得ることになった。岡山の六高に入った従兄から、名門誠之館という校名は聞かされていた。それに東京の中学校には本郷の誠之小学校からの同級生がいたので、誠之という言葉には違和感はなかった。だがいざ自分の身を置く誠之館ともなると、どう捉えてよいのか全く分からなかった。特に館という言葉が特異な音として感じられ、東京にはない男らしさを感じていたことは確かだった。東京の中学校は府立五中といって番号付きの校名だっただけに、誠之館という校名には漢文的日本感覚を抱いていた。正直いって誠之館という校名の意義には焦点が定まらず、身をまかせる意外に術はなかった。
 鞆から鞆鉄という文明開化のシンボルと思わせる軽便鉄道に乗って、福山にある誠之館中学校に通い始めたのが昭和20年(1945年)の9月末頃からだった。そこには私にとって変化のある貴重な体験が待っていた。
 幸いに誠之館は私を優しく迎えてくれた。東京への望郷の念が強かったが、鞆から乗る誠之館の生徒から福山弁で人なつこく声をかけられたりして、望郷の思いも日毎に薄れるのを感じた。鞆鉄で中学生と女学生が小さな車輌を満員にして通学する東京では味わったことのない体験が心を和ませてくれた。若い生命力というものだろうか。新鮮な感情が澎湃として湧くのを感じ、敗戦の不安が遠ざかるのを覚えた。
 誠之館が迎えてくれなかったら、敗戦で四分五裂した自分自身はどうなっていただろうか。海兵からの復員だけでも身を保っていた誇りは失われ、国家体制の変化に戸惑い、原爆の破壊力で日本敗北の無力を悟った。それにひきかえ瀬戸内の美にはたおやかでたくましい永遠性があった。あまりにも美しい鞆の浦は、醜い結果をもたらした原爆とは比較にならない対極の存在であった。私は美醜の板挟みになっていた。
 異常な時代とはいえ日本国民の総てが自己を失い、自己が試されていたのである。そんな自分を吸い込んでくれたのが誠之館であった。誠之館というブラックホールだったのである。誠之館というふところ深い歴史をもった風景が私を包み、トゲだらけになっていた私を溶かしたのである。これは救いだった。
 東京育ちだけに故郷感はなかったが、私にとって地方から見た珍しいあらたな日本があった。それまでは東京だけが日本だと思っていたが、福山城三の丸を仰ぎ見るたびに、これこそが日本だという実感があった。東京にはこんな風景はなかった。誠之館は藩校が故に中央とつながりがあり、私の知らない日本が生きていた。最も誠之館が藩校だったことを感じたのは、生徒の気風からだった。口々に天下を語るところがまさに明治の書生だった。校歌や応援歌にもそれが出ていた。
 ブラックホール誠之館が私の終戦で得た総ての悲しみと苦悩を吸収し、楽天的な別世界を与えてくれた。私を新しくしてしまったのである。私なりの進化だ。明らかに今までの延長線にはない新しい人生がはじまったといっていい。
 美しい鞆の浦、地域風景を送り続ける鞆鉄、車輌のえがく青春の刺激、そして誠之館という歴史が語る創造の発酵体が私の人生を素直に再出発させた。失われた日本と自分との結びつきがあらたなかたちで再び結びついた。新生立志の気持ちを起こさせたかけがえのない中学校だったのである。
誠之館所蔵品
管理 名   称 制作/発行 日 付
04158 『THE AESTHETICS OF THE JAPANESE LUNCHBOX(「幕の内弁当の美学」英訳版)』 The MIT Press 平成10年
04157 『幕の内弁当の美学 日本的発想の原点』 朝日新聞社 平成12年
04355 平成16年度総会記念講演(カセットテープ)「心とモノをつなぐデザインのあり方」 平成16年
探しています
名   称 制作/発行 日 付 コメント
『インダストリアル・デザイン』 日本放送協会 昭和46年 -
『デザイン』 日本経済新聞社 昭和47年 -
『道具の思想』 PHP研究所 昭和55年 -
『幕の内弁当の美学』 ごま書房 昭和56年 -
『二十一世紀の日本人像』 国際通信経済研究所 昭和59年 -
『道具考』 鹿島出版会 昭和60年 -
『仏壇と自動車』 佼成出版社 昭和61年 -
『モノと日本人』 東京書籍 平成6年 -
『人の心とものの世界』 ほるぷ出版 平成9年 -
『インダストリアル・デザインが面白い』 河出書房新社 平成12年 -
『道具論』 鹿島出版会 平成12年 -
『デザインとテクノロジー』 コスモス 平成16年 -
出典1:『誠之館創立百五十周年』、99頁、「ブラックホール誠之館」、栄久庵憲司、福山誠之館同窓会編刊、平成17年2月
出典2:『誠之館創立百五十周年』、38頁、「心とモノをつなぐデザインのあり方」、栄久庵憲司、福山誠之館同窓会編刊、平成17年2月
出典3:『SD選書42:道具考』、栄久庵憲司著、鹿島出版会刊、昭和44年
出典4:『日本経済新聞 私の履歴書 栄久庵憲司』、日本経済新聞社刊、2002年8月1日〜31日
関連情報1:『誠之館同窓会報(第4号)』、24頁、「終焉の美学」、栄久庵憲司、福山誠之館同窓会編刊、1997年3月1日
関連情報2:『中国新聞 びんご人国記 ふるさと応援団』、中国新聞社刊、2002年9月28日
2004年12月1日更新:著書●2005年1月26日更新:所蔵品●2005年2月10日更新:経歴・著書●2005年2月16日更新:経歴●2005年5月26日更新:本文●2005年6月8日更新;肩書●2005年7月7日更新:本文・出典●2006年6月13日更新:タイトル・所蔵品●2008年2月6日更新:経歴●2009年7月10日更新:経歴・関連情報●2010年7月21日更新:誠之館所蔵品・探しています●2012年3月8日更新:本文・出典・関連情報●2014年6月26日更新:経歴●