ミシマ社では、メンバーがそれぞれに同時多発的に同じ本を買って読んでいる、ということが時々起こるのですが、今回ご登場くださる松家仁之さんが書かれた『火山のふもとで』や『沈むフランシス』もそんな本たちでした。
第2回目の今日は今週末に発刊となる新しい雑誌『つるとはな』のお話や、いま雑誌をつくるということについて、お話いただきました。お楽しみください。
第128回 いま、小さい出版社で雑誌をつくるということ
2014.10.23更新
『つるとはな』という新たな試み
―― 次の作品にも取りかかられているのですか?
松家短編小説でいうと、3日くらい前にひとつ書き上がりました。僕と、以前マガジンハウスにいらした岡戸絹枝さんと、もう一人の人とでつくった会社があって、今月末そこから新しい雑誌を創刊するんです。なぜかそこに僕の短編が載ることになって。今月の24日発売で、『つるとはな』という雑誌です。「つる」は「鶴」、「はな」は「花」ですが、植物の「蔓」と思ってもらってもいいなと思っています。両方ともおばあさんの名前ですね。
―― 雑誌をつくろうと思われたのはどういったきっかけですか?
松家岡戸さんも、2010年の春、たまたま僕と同じ時期にマガジンハウスを退社されたんです。会社を辞めると失業保険が出るわけですけど、僕と岡戸さん、同じハローワークに失業保険を受け取りに行っていることがわかったんです。あそこで手続きのときに、大声でフルネームを呼ばれるのが衝撃的で。岡戸さんに、「ハローワークって、すごく大きい声で名前呼ばれますよね」と言ったら、「そうそう、やめてほしいですよね」なんて。(笑)。
―― そんなご縁があったのですね(笑)。
松家岡戸さんは長年雑誌の編集者をされていて、『オリーブ』の編集長をやって、そのあと『クウネル』を創刊された方ですが、ああいう雑誌をつくるというのは大変な才能だと思うんです。「退社されたあとどうするんですか」と話していて、岡戸さんはやはり「雑誌をつくりたい」と。僕は僕で、会社を辞めてから小説を書きはじめたんですが、編集の仕事もなんらかの形で続けたいと思っていたんです。いっしょに何かやりましょうという話を岡戸さんとするうちに、あっというまに3年くらい経ってしまって。
―― すごいお二人の組み合わせです。
松家二人の共通点は、「計算ができない」こと(笑)。予算を組むとか出張費の精算をするとか、そういうのが駄目なんですよ。そしたら、そのあたりを補ってくださるかたが急に見つかって、去年の暮れ頃からにわかに具体化して、「小さい出版社をつくりましょう」ということになったんです。
―― どんな雑誌になりそうですか?
松家岡戸さんにはもともと具体的につくりたい雑誌があったんですね。40〜50代くらいの女性がこれからどうやって人生を設計していこうかというときに、年上の先輩に話を聞いて参考にできるような雑誌をつくりたいと。岡戸さんも長年編集者をやってこられるなかで、やはり僕と同じように年寄りの話は面白いと考えるようになった。僕もまったく同感でしたから、「それはいいですね」ということで始めました。
メディアが人間の世界認識をつくる
―― 雑誌だからこその魅力はどんなところにあると思われますか?
松家仮にウェブマガジンと雑誌がどう違うかということを考えると、ウェブの場合はまず、ページの制限が何もない。極端な話、その雑誌の中に1,000ページの小説を載せることだってできてしまいます。でも、紙の雑誌は妥当なページ数というのがだいたい決まっていて、その中にテキストや写真、イラストレーションを収めていく。つまり、雑誌は全体を見渡せる。でも、ウェブ版の雑誌というのは、見出しがポンポンとあったとしても、それがどういう配分なのかは見えない。
―― たしかにそうですね。
松家その違いは、紙の新聞とウェブの新聞の違いと同じですよね。新聞をばーっとめくって、見出しや記事の大きさを見るだけで、大げさに言えばその新聞社の世界の捉え方みたいなのが可視化されているじゃないですか。でも、ウェブの場合は、たとえば「内閣総辞職」のようなことがあったらもちろん一番トップだろうけど、その次に「誰かが自殺した」という記事が同じ大きさであったりもする。単に時間の順番だけというような部分があって、紙の新聞とはまったく捉え方が違うと思うんですよ。
―― その違いは大きいですね。
『想像の共同体』ベネディクト・アンダーソン(書籍工房早山) |
松家少し大げさな話をすると、『想像の共同体』という本があるのですが、そこでは、我々が今世界だと思っているものを、ある種想像上の共同体としてみんなが認識するようになったのは、19世紀の小説と新聞によると言っています。
―― 小説と新聞。
松家たとえば小説だと、佳奈と「僕」の会話になっているときは「お父さん」は描かれないじゃないですか。でも、読んでいる人はお父さんが消えたとは思わない。どこかであのお父さんがいつも通り生活していて、一人でテレビを見ているかもしれないというふうに思うわけですよね。あるいは新聞も、今は御嶽山の噴火に紙面が割かれているので、たとえば安倍総理の動向はとくに取り上げられていなかったりするかもしれませんが、かといって安倍総理がいなくなっちゃったとは思わない。毎日新聞を見たり小説を読んだりすることによって、世界の成り立ちのようなものが人々の気持ちの中に入っていって、想像上の共同体ができていったというふうに論じられているのです。
―― すごく面白いですね。
松家つまり、メディアが人間の世界認識をつくるわけですね。大げさな話になってしまったけど、だから僕は、ウェブが中心になってくると世界の成り立ちも変わってくるのじゃないかと思っているんですよ。
今、紙の本をつくるということ
―― そんな中で、あえて紙の本をつくる新しい出版社が出てきたり、新しい雑誌を創刊するところが出てきたりするのは、これまで新聞や小説がつくってきた世界観も残して伝えていきたいということなんでしょうか。
松家そうですね。ジュンク堂池袋店の雑誌売場って、見たことありますか? あの雑誌売場の担当は小高聡美さんという方なのですが、とても目利きの書店員さんで、大手出版社で出すものに加えて一人で編集しているような雑誌も沢山扱っているんです。たとえば、『murren』という、『山と渓谷』にいた人が独立してほぼ一人でつくっている山の雑誌とか。そういったインディペンデントな出版社やメディアを、若い人たちが自分たちでつくっているというのは、明らかに新しい現象だと思うんですね。
―― たしかに、リトルプレスは増えている感じがします。
松家では、このウェブの時代になぜ若い人たちが紙のリトルマガジンを一生懸命つくっているかというと、先ほどの話につなげれば、それぞれの編集者がそういったメディアを通して自分の思い描く小さな共同体を表現したいからではないかと思うんです。そして、それに吸い寄せられていく読者が、膨大な数ではなくとも少なからずいる。既成のメディアではない小さなメディアにこそ、自分たちの求めているものがあるかもしれないと、明快に言葉としては思っていないかもしれないけれど、やはりどこかで小さな共同体を求めているのではないでしょうか。
―― ミシマ社にも、いろんな学生さんが集まってきてくれています。
松家教えていた大学生がしきりと口にするのが、「シェアハウス」という言葉でした。僕なんて、実家で生まれ育って早く一人になりたいとずっと思っていたから、今の大学生が何を好きこのんで、プライバシーのなくなるようなそんなことをしたいと言うのか全然わからない(笑)。でも、皆ではないにしても、少なくはない学生が「シェアハウス」という暮らしを選択肢に入れている。それもやはり、共同体が失われることによって、小さくてもいいから一緒にやっていける人を求めていった結果、そうなっているのかなという気がする。若い人たちが何の無理もせずに自然にそうやっているのを見ているうちに、ちょっと考えが変わってきましたね。
―― 若い人たちだけではなくて、こういった松家さんのような方が、新しい雑誌を創刊してくださるというのも本当に楽しみです。
松家ありがとうございます。大こけにこけちゃったりして...。あっという間に畳んじゃうかもしれない(笑)。
―― いえいえ(笑)。楽しみにしております。