対談 第一回 三沢文也様(はてなブロガー) | 株式会社参謀本部
お互いが抱いている「闇」のイメージが噛み合ってない感じじゃないでしょうか。お互いが自分の抱いてる「闇」っていう抽象的な言葉をすり合わせること無く弄んでる印象を受けました。キーワードであるはずの「闇」について、お二人はちゃんと共有できたのでしょうか。
斎藤さんが「闇」という言葉で訴えかけたいのは社会的な歪みとか、人間の精神のバランスの崩れについての危惧と言ったところだと思われます。物語風にすれば「敵としての光の世界」というものすごく限定された人たちに支配された世界があって、その人たちにおかしくされてる世界に抗う、そんなイメージでしょうか。なんだかかなり普遍的な概念について語っておられる印象を受けました。普遍的ではありますが、それゆえに漠然としています。
NSAの、あの、なんか、ウィキリークスも関係してますけど、NSAの情報をなんか暴露しているスノーデンさんみたいになりたいって思っていて、WEB業界も全然、そんなキレイな業界じゃないんだよっていうのは、あの、言いたいな
本当はスポットが当てられるべき人っていうのは、もっとたくさんいて、それはもっと小さい会社に勤めてるのかもしれないし、あるいはその、大きな会社に勤めていても日陰の扱いなのかもしれないけれどもなんか、そこで頑張ってる人っていうのは、評価のギャップが凄い激しくて。観測範囲外はもう空気みたいな感じになってるのは、うん
あの光の面と闇の面、両方持ってるっすよ。だ、で、だから、光の面だけあの、ず、ずっと出し続ける人っていうのは、すごい自分の中で、気味が悪いなって、あ、あの、思うし闇の面だけ出し続ける人も、気味が悪いなって
そして、斉藤さんは、間接的にですが三沢さんをこう評しています。
まあ、なんかその、ロス、ロスジェネだし、まあ二十代でなおかつメンヘラであの、が、頑張ってるっていう風なのをあの、代表するオピニオンリーダーなんじゃないかなって言う風に自分は思いますね
一方三沢さんが闇という言葉でアピールしているのは、自分がまっとうなレールから外れた人間であるという劣等感およびそこから人を見返してやりたいという超個人的な欲望のようなものであるように思います。とにかく今自分のいる側こそ正しいんだ、と今自分がいる場所を肯定したくてしょうがない、そしてそうでない人を否定したくてしょうがない、そんな印象を受けるんですね。まぁはっきり言って、斎藤さんに比べて超超超個人的で、つまりものすごくものすごく射程が狭いですが、それゆえに具体的で、強い想いが感じられます。
二年間はてなアイドルであり続けるっていうのは、たぶん歴史上、私と有村さんだけだと思います。その、一時的なブームで半年くらい燃やして、あのいま話題になってない奴っていまいっぱいアタマに浮かぶんです
僕は完全に光に行きたかったというか、行かされてきたんだけど闇堕ちしてしまって、闇堕ちしたんだけれども、中途半端にその、光に潜り込む才能があった
思想的なレベルとして『光側につきたくてブログを書いてるわけじゃないよ』っていう。なんか闇として生きていきますみたいなのがある人が、やっぱり骨があるなーって思いますね。半年ごときでは沈まない、ちゃんと一年、二年持つ
お互いが語っているものがだいぶちがうと思うんですよね。というか全然違うと思います。
でもそれはいいと思うんです。どっちがいいとか悪いではなく、対照的である、と。だからこそお互いがお互いに興味を持つし、補いあうような感じになっているのかな、と。ただ、それについてすり合わせをしないまま話を進めていくのは読み手としては気持ち悪いかな、と。この違いについて、齋藤さんはよくよく認識されていたようで、自分の考える闇について手を変え品を変え説明されていたようですが、三沢さんに全く伝わってない。三沢さんは、自分と相手の「闇」に対する理解が共通しているという前提があるのか、「闇」という言葉を二人の間では所与のものとしてほとんど説明せずに使いまくっている。
これ、読んでいる人間としては、ものすごく居心地悪かったです。
まぁいいや。
ところで気になったのですが、齋藤さんは、イケダハヤトさんについてどう思っているのでしょうか。三沢さんはイケダハヤトさんについて肯定的で、かつモデルケースのように考えているようです。
はてな村がイケハヤが悪って言い続ける中で、たぶんイケハヤの唯一の親イケハヤ派がたぶん僕なんですけれども。なんで許してるかっていうか、なんで彼に対してあれなのかっていうと、彼が辛うじて実務もやりながら光と闇の両方、行き来しようとしてるんですよ。で、あの位置関係っていうのは、すごいなって。光に、完全に光にシフトしきったひとは、闇にさわろうとしないというか。自分が闇に食べさしてもらってることに対しても否定的と言いますか。彼はそこを飛び越えたのがすごいなっていうか、闇でもなんでも使えそうなものは使って、自分の考えてるライフっていうのを、実現することで、なんか、光に対して一矢報いて、闇に対してこんなのもあるよってことで。
で、齋藤さんにとってはどうなんだろう、と。
本当に汚物だと思っているのは、その、えっと、汚物そのものじゃなくって、えっとー、その、な、なんだろう。えっと、上品さを纏って、そ、そのw、えー、まあ、いわゆる、わ、我々を忌み嫌っている人種、こそが、なんか、汚物だと思ってますけどね
なんか選民主義的な感じっすよね、うんうん。それも、また自分は汚物だと思っていて。あの、ほ、本当の意味での。本当の意味での汚物っていうのは、いわゆるあの、カノセさんを、そ、そ、村長として、信奉してるような、狂信的な連中が、汚物だと思っていますけどね。まだカノセさんに実力があるんじゃないかなって言う風に思っていて恐れ慄いている人たちを、汚物だと思っていますね
このあたり。私としては、イケダハヤトさんって排除の論理が非常に強い人だと思ってるんですが斎藤さん的にはどうなんでしょうか。
どっちかっていうとなんかこう、ベンダーコントロールっていうか、こう、中小の、ほ、本当、実務能力がある人たちを使いこなしてやってるっていう感じだったんで。そういう風に、綺麗な世界であるかのように演出しているようなのの、なんか『虚構性』。虚構性っていうか、なんか
それでなんか、電通に就職したいとか、博報堂に就職したいとか、たくさんいるわけじゃないですか。うん、うん。えーなんか、あの、なんだろうな。そういうのもちょっと、あのー、自分、いけすかないっすね
このあたりについてもどうなんでしょうか。 斎藤さんから見ると、イケダハヤトさんには虚構性は感じないんでしょうか。さらにいえば、イケダハヤト信奉者って「カノセさんを、そ、そ、村長として、信奉してるような、狂信的な連中」と対して変わらんような気がするのですが。このあたりって斉藤さんの美学からするとどうなんでしょうか。
三沢さんが一生懸命イケダハヤトさんに語ってるところ、それまですごい「うんうんうん」って感じで流されてたんですが、反応が薄く、珍しく斉藤さんの方から話題の切り替えを行ってオラオラれました。あんまりここは乗り気じゃなかったけど、相手の三沢さんに気を遣って流されたのかな?などと違和感を感じました。
というわけで、実際の所どうなんでしょう。 なんでもぶっちゃける斎藤さんに、是非率直な意見を伺ってみたいところですね。
余談ですが、文人商売の人。最近青二才の人のことを無視しますねってブコメ書いてたと思うんですが、我先にと絡みに行ってるあたり実はめちゃくちゃ意識されていらっしゃるのでしょうか。しかも青二才が無職であるとか青二才が低学歴であるとか青二才がデブであるといったような、文章に関係ないところを責めにいくのは、あまり感心しませんな。青二才は青二才で文章と関係のない慶應批判とかするの死ぬほどださいと思いますが、この件に関してはどちらかというと文人商売さんの方が越えてはいけないライン越えかかってる気がするので注意されたほうがよいと愚考します