野良チラシの裏ブロガーのボクが、日本の古代史をまとめると、
となる。
この時代は、西より東の方が謎な感じが強い。
このブログは、「ギリ日本またはちょい日本」的なテイストでやっているので、こっちに注目してみる。
どうしても西じゃないと嫌だというのであれば、
的な自己暗示をかけて、ワイキキよりは西だと思って読んでみて欲しい。
3,4世紀辺り。
日本武尊(ヤマトタケル) として伝えられている、おそらくヤマトタケル軍的なご先祖様達が、傍若無人な雰囲気を醸し出しながら、東へ東へと進んでいた。
富士山を越え、東京湾を越え、千葉を通り抜けながら、鹿島神宮辺りまで辿り着いた。
ここで行き止まり。
ザ・ストッピングタイム。
ヤマトタケルが進出してくる頃は、この 鹿島神宮辺りが海岸線 だったらしい。
そんな海岸線にぶつかって本州は左曲がりとなり、北へと陸地が続く。
ここでまっすぐ海岸線をぶち破り、だだっ広い太平洋の中、まだ見ぬワイキキビーチへと突き進む、無類の東好きもいただろう。
そういう東好き以外のご先祖達は、当然左曲がりの本州に沿って北へと進んでいった。
でもボクは右曲がり 。(何がかは言わない)
なので、右曲がりの方向が超気になる。
富士山を越え、東海道を進んで藤沢辺りに来ると、右は 江ノ島 。そしてその間にはたくさんのシラス。
ここでシラスを採り、手づかみで踊り食いをしまくりながら江ノ島にたどり着く。
そうすると、その何百倍も先に 伊豆大島 がある。
その先には 伊豆諸島 の島々が続く。
さらにその先には、 小笠原諸島 。 硫黄島 。 南鳥島 や 沖ノ鳥島 。
今はここまで日本。
左へ曲がるより、全然先が長い。
ご先祖様達はどんな感じで右に曲がっていったのだろうか。
そう思いを馳せると、ボクの右曲がりが疼く。
ポリネシアからイースター島 に渡っていった人達だっている。
頑張れ、ご先祖様!
いい石、求ム
まだ縄文土器も発明されていない石器時代。
この時代のご先祖様は、 木の実スリ潰したり 、狩った獲物から 皮剥いだり と、毎日かったるい作業に追われていた。
伊豆でイノシシ狩りを営むンボボモッホさんも、狩ったイノシシの皮を剥ぐのに四苦八苦していた。
ンボボモッホさんは、河原で拾った、うまいこと割れていた石を使って皮を剥いでいた。
肉の脂で石が滑った。
そしてそれが左手の親指に突き刺さり、ンボボモッホさんは、全治1週間の怪我を負った。
完。
もっと尖った石、もっとドングリ擦る土台にちょうどいい、平らで真ん中が窪んだ石は無いか。
とにかく、石の形だけで生産性が大幅に変わる。
ンボボモッホさんをはじめとするボクらのご先祖様達は、とにかくいい石を求めた。
そんなご先祖様に、右から革命が訪れた。
海から戻ってきたオッサンが、黒くて超トンがった石をイッパイ持ってきたのだ。
それは、 黒曜石 。
ほぼガラスなトンガリ具合をかますこの石に、ご先祖様達は大興奮。
もうスイートテンダイヤモンドどころではなかった。
関東と伊豆諸島
この黒曜石は、 神津島 で取れたものだった。
神津島には黒曜石がイッパイあった。
黒曜石を持ってきたオッサンは、神津島に行くたびに黒曜石を持ち込み、高値で売りさばいただろう。
オッサンの後をつけて、神津島に辿り着いたオッサンもいただろう。
そんなオッサン達から黒曜石を購入し、山奥のオッサン達に、さらに高値で売っていたオッサンもいただろう。
そんな感じで神津島の黒曜石は、山梨の山奥や、千葉辺りにも行き渡っていた。
千葉の 加曽利貝塚 に行くと、そんな黒曜石で作った矢尻などを見ることができるので、ゼヒ!
加曽利貝塚博物館:
http://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/shogaigakushu/kasorikaizuka/top.html
神津島が関東と密に繋がっていたとなると、間にある伊豆大島に人がいなかったわけがない。
さらには、周りの伊豆諸島にも人がいただろう。
この辺りは、ヤマトタケル的ご先祖様が進出するずっと前から、地元密着型ご先祖様達の生活圏だったのだ。
伊豆諸島最南端、八丈島と青ヶ島
伊豆諸島は、一番南が青ヶ島。その次が八丈島となっている。
どちらも、オレを伊豆諸島に含めるな!と自己主張しているような、微妙な位置にある。
神津島自体が伊豆諸島の中では結構南の方にある。
でも、八丈島はそれよりもかなり南。青ヶ島はもっと南。
石器時代時点で神津島へご先祖様が進出しているといっても、八丈島まで進出していたかはかなり微妙。
では、いつから進出したのか。
実は、ご先祖様はバッチリ跡を残している。
八丈島から、縄文時代の勾玉が出土しているのだ。
勾玉は、超日本オリジナル。
ボクたち、ここまで来ましたよと言わんばかりの出土品だ。
着実に右曲がり方向にも進んでいたのだ。
一方、青ヶ島。
こちらは何も残っていない。
歴史に出てくるのは15世紀。
漂流して青ヶ島に着いちゃった的な記録が幾つかある程度。
でも、江戸時代には数百人くらいは定住していたらしい。
ちょっと戻って伊豆大島
そんな感じで、右曲がり方向の情報はあるにはあるけど、あまり残っていない。
でも、伊豆大島くらいのデカさだと、 日本書紀 の時代になってくると、ソコソコ資料に出てくる。
それも島流し先として。
古くは7世紀。
麻績王(おみのおう) という貴族の子が伊豆大島に流された記録がある。
その後では、修験道の開祖とされる 役小角(えんのおづぬ) とか。
そして、平安末期にあった 保元の乱 で敗れた 源為朝 の島流し先も、伊豆大島だった。
源為朝は、 源頼朝 や 源義経 の叔父。
役小角は妖術を使うとされ、源為朝は16歳で九州を制圧したほどの暴れん坊。
伊豆大島は、面倒なヤツをできるだけ遠くに追いやる目的での格好の島だったらしい。
暴れん坊の源為朝。伊豆大島でも大暴れした。
伊豆と伊豆諸島を仕切る国司に従わず、あの手この手で伊豆諸島を支配。
大和朝廷が入れないような、 伊豆諸島独立国 状態にしてしまった。
しかし、本気を出した大和朝廷に大軍を送られ、源為朝は八丈小島に逃亡。そこで切腹。
歴史上初の最初の切腹 といわれている。
でも、うそでしょ?昔の人、話盛りすぎでしょ?
それからは、ガッツリ、伊豆国の管理下に入っていった。
伊豆諸島より南は?
伊豆諸島の南は小笠原諸島。
かな~り伊豆諸島から離れている。
この辺りは、中世になるまでどこの国の記録にも残っていない。
16世紀の大航海時代になって、やっと出てきた。
この頃、スペイン人と日本人が、それぞれ別々に発見した。
それまでもそれからも、無人島状態だった。
一時的に補給で立ち寄ったり、漂流して辿り着いたりしたことがあった程度。
この辺りに人が住み始めたのは、19世紀前半。白人とハワイから来た人々だった。
小笠原諸島が日本の領地になったのは、明治に入ってから。
そしてその後に南鳥島、大正時代に入ったくらいで、沖ノ鳥島が日本の領土になった。
なんだよ、明治より前は全然南行ってないじゃんと思うかもしれない。
仕方ない。
東京都小笠原支庁のサイトを見て欲しい。
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/07ogasawara/farmfish/crops.html
マンゴー、パパイヤ、パッションフルーツ。
おっかねぇ。
そんなカラフルな毒々しい色した実を、漬物ばっかり食べてる日本人が食べられるわけがない。
それに、パパイヤにむしゃぶりつくサムライ、見たくない。
これでいいのだ。
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