石川のニュース 【10月26日02時29分更新】

散った仲間思い涙 レイテ沖特攻作戦70年 金沢の笹田さん

70年前の特攻出撃命令を振り返る笹田さん=金沢市内
 太平洋戦争のフィリピン・レイテ沖海戦で初めて特攻作戦が実行されてから、25日で 70年を迎えた。金沢市大桑町の笹田榮男(しのだえいお)さん(90)は、現地で特攻 出撃命令を受けた一人だ。直前に中止となり、奇跡的に生還したが、同世代の仲間を特攻 で亡くした。「『くそ、ばかやろう』と叫びながら戦艦に突入したと思う」。笹田さんは 葛藤を抱えながら出撃した若者たちの最期を思い、涙ながらに当時を語った。

 笹田さんは長野県生まれ。少年飛行兵に憧れ、16歳で東京陸軍航空学校に入学した。 1944(昭和19)年、独立飛行第52中隊としてフィリピンへ出征。もとは島の航空 写真撮影などを行う偵察隊だったが、レイテ沖海戦の開始により、特攻機の誘導や戦果確 認も任務になった。

 笹田さんによると、戦況悪化に伴い、所属部隊にも12月13日、「通常攻撃」という 名目で特攻出撃命令が発せられたという。笹田さんは平成に入って、当時の様子を自叙伝 に書きとどめている。

 「出撃参加希望者は一歩前へ」。中隊長の声に何人かが整列し、笹田さんも当然のよう に加わった。部隊からは笹田さんを含め3人がマニラからミンドロ島沖へ出撃することに なった。

 「希望はしたが、頭の中はパニックになった」。郷里の母親、兄弟姉妹、恩師、幼なじ みの顔が浮かんでは消えた。急降下爆撃するか、超低空の反転攻撃でいくか。敵に先制攻 撃されたら、どう回避すればいいのか、自分も20歳で死ぬのか、さまざまなことが渦巻 くうち「えーい、なるようにしかならん」と度胸が据わったという。

 純白の絹のマフラーを首に巻き、飛行帽の上に日の丸の鉢巻きを締めた。かわらけの杯 を地面にたたきつけ、飛行場に向かおうとしたその時、師団司令部の車が滑り込んできた 。大佐が手を組んでバツ印を作る。同時に出撃するはずの重爆撃機の準備が整わず、中止 となったのだ。

 翌朝、別の特攻機3機が出撃した。攻撃成果は分からないという。笹田さんの仲間が乗 った誘導・戦果確認機も帰ってこなかったからだ。「俺たちの身代わりになった」。笹田 さんは今でも亡き戦友への負い目を抱える。

 笹田さんは、誘導・戦果確認機に乗った時、特攻機が米軍の先制攻撃を受けるのを見た こともあった。「花に例えるなら、青春のつぼみも咲かないままだった」と仲間を思う。

 「あんなこと、どうしてやったんか。みんな、その後の人生があっただろうに。本当に かわいそうで」と言葉を詰まらせた。

 笹田さんは帰国後しばらく、家族にさえ戦地のことを話せなかった。語れるようになっ たのは平成に入ってから。孫の中学校で講演もした。「戦争だけは絶対だめ。自分と同じ ような体験は世界中の誰にもさせたくない」。生き残った者の使命として、これからもで きる限り語り継いでいく。

 特攻隊 爆弾を装着した航空機や潜水艇などで敵に体当たりするため編成された部隊。 太平洋戦争の戦端を開いた1941年12月の米ハワイの真珠湾攻撃でも生還の困難な特 殊潜航艇が出撃したが、本格的な作戦としては44年10月のフィリピン・レイテ沖海戦 で海軍の「神風特別攻撃隊」が初めて出撃。人間魚雷「回天」や、ボートに爆弾を積んだ 「震洋」「マルレ」も実戦投入された。特攻による戦死者数は不明だが、特攻隊戦没者慰 霊顕彰会によると、6418人が確認されている。


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