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「正確な言葉」とは


ブロガーがよく使う小っ恥ずかしい言葉をまとめました - 凡夫じゆうちょう




日本人は、外来種の和語を基層として、漢語や外来語、和製語や各時代の新語を外層とする、重層的な言語文化の中で、ものを見て、感じて、考えてきました。
現代日本語には、似たような意味で語感の違う広大な類義語の沃野が広がっています。
意味の微差を探り、語感のひだに分け入るのは、日本人の悦びであり、贅沢な悩みでもあります。

伝えたい意味合いを正確に表し、それをこんな感触で相手に送り届けたいという、自分の気持ちにぴたりと合う、もっとも適切な表現を人は目指します。

正確な言葉というのは、単に誤りを含んでいないというだけでは不十分です。「休憩」か「休息」かと迷ったとき、両方やめて「休み」という語で間に合わせれば、そんな微妙な意味の違いに悩まずにすみます。
「休み」には「休憩」も「休息」も含まれますから、確かに間違いではありませんし、そういう把握が適切な場合もあります。しかし「休み」は、その「休憩」と「休息」だけではなく「休暇」「休業」「休日」から「欠席」「欠勤」「欠場」までを含む広い意味の言葉です。
そういう区別をせずに単に「休み」とするほうが適切な場合もありますが、それは松も欅も桜も白樺も無差別に「木」で片づけ、小腸と大腸どころか肝臓も胃も膵臓も区別せずに「消化器」で間に合わせるような、そんな粗っぽさで現実を切り取ったことになります。

「些細」と「瑣末」はどちらも取るに足らないどうでもいいことを言いますが、「些細」が細かすぎるところに重点があるのに対して、「瑣末」は本筋と無関係であるところに重点があります。
「思い違い」と「考え違い」も似たような意味に見えますが、「思い違い」が事実と違うだけなのに対して、「考え違い」となると道理や道徳に反する感じに響きます。

恋人が作ってくれた料理を「おいしいチャーハンだね」と褒めれば相手は素直に喜ぶかもしれませんが、「おいしい焼きめしだね」と言うと、微妙な表情になるかもしれません。古風な「焼きめし」には、冷蔵庫の残り物を使ってこしらえたような連想を働かせる人もいるからです。

どの例も意味そのものからすれば「些細」ですが、ぴったりした言葉を使おうとするときに、こういう感じの違いを識別するのは決して「瑣末」なこととはいえません。

「意味」はその語が何を指し示すかという論理的な情報を伝えるハードな面であり、「語感」はその語が相手にどういう印象、感触、雰囲気を与えるかといった心理手的な情報にかかわるソフトな面での表現選択です。前者の選択が甘いと意味があいまいになり、後者の選択を誤ると思わぬ違和感を招きかねません。
話すときも書くときも、表現者は何を伝えるかという意味内容の選択と、それをどんな感じで相手に届けるかという表現の選択、二つの別の方向から最適な言葉に迫ります。それは芸術における素材と手法という関係に似ているかもしれません。

本当の意味で正確な言葉というのは、意味が通ずるというだけでなく、その場や状況に応じた、意味と語感が最適な言葉のことなのです。