夜10時からTBS系でやっていた「皇室アルバム50年記念」の特番を見るともなしに見た。
われわれ昭和30年代生まれの者にとっても懐かしさを覚える映像がたくさん紹介されていた。
昭和天皇という方は、私がもっとも尊敬する人の一人である。
君主から象徴へ、激動の時代を生き抜かれたが、直面された場面ごとのご判断がじつに明快で正鵠を得ていて、戦争が無事終わったのも、日本が復興したのも、昭和天皇あってこそだと思う。
世界のどこに、占領軍の司令官に、「自分の身はどうなってもよいから国民を助けて欲しい」と言える君主がいただろうか。
私は一般参賀やお出ましの時に数回撮影の機会があっただけだが、あの小柄なお体のどこにこんな、と思うほどのオーラを発しておられた。
昭和天皇が御不例になる9日前、昭和63年9月10日、皇太子ご夫妻(今上天皇、皇后さま)が軽井沢にお出でになり、作家・森村桂さん方で会食をなさったことがあった。
私は当時フライデーのカメラマンだったが、「外に出せない写真だけど撮りに来て」と桂さんに言われ、記念写真係として同席。給仕は、桂さんの友人でなんと社会党(当時)マドンナ旋風で参議院に当選したばかりのH先生の娘さんだった。Hさんは社会党でも天皇陛下大好きのめずらしい人である。
会食二時間前から会場の前にはSPが立ち、両殿下は侍従さんをお供に来られる。ただ侍従は会食には同席せず、寒いベランダでコーヒーだけ。
会食は、楽しかった。美智子妃殿下のピアノに合わせて森村桂が歌い、踊る。それを殿下がニコニコ見ていらっしゃる。
妃殿下は、おもしろいと「キャハハハ・・・・!」と豪快に笑われると言うことを初めて知った。殿下は、桂さんの夫・一郎さんと一緒に、「女房の尻に敷かれたダンナの話」で盛り上がっている。
予定の二時間が大幅オーバーの5時間にもなり、両殿下はご機嫌麗しくお帰りになったが、お見送りのとき、殿下に
「君は学生?」
と訊ねられ、「フライデーのカメラマンです」というと侍従もいるしややこしくなりそうだったので、
「ハイ、そうです」
と、答えた。つまり、これから皇位を継ぐ「日嗣の皇子」に、なんと嘘をつき奉ってしまったのである。
昭和天皇がお倒れになったのは、そのわずか9日後のことであった。期せずして今上天皇には、これがおそらく皇太子として最後の友人との晩餐になった。
皇太子が皇位に就かれてからも、私は御所に桂さんの付き添いで行ったり、桂さん手作りの皇族方の誕生日ケーキを御所に一人届けに行ったりして、何度かお目にかかる機会があった。
両陛下とも、私心をまったく感じさせないすばらしい方であった。
森村さんと皇后陛下のお話の時は、私は次の間に待たされる。テーブルには三角に積んだ「恩賜の煙草」が置かれ、うすいお茶(それは「おうす」って言うんですよ」とあとで人に教えられたが)と「柿の種」が小皿にもって出される。
御所に行くと、せっかくだからマーキングをしていこうと、広さ6畳ほどに赤絨毯が敷き詰められたトイレで用を足す。さすがにトイレットペーパーには菊の御紋はなかったが。
森村さんがなかなか出てこず、時間がないので一人で御所を出ようとして、道に迷ってご用地を遭難しかけたこともあった。
皇太子ご成婚の時は、森村さんがウエディングケーキ(皇室にウエディングケーキの風習はないので、あとの身内の会で召し上がってもらう)を新高輪プリンスホテルで作り、それを私が捧持して、タクシーで御所まで届けた覚えがある。(腕が痺れて死にそうだった)
しかも、そのケーキを食べた一人が、なんと零戦の三上さんの奥様というおまけがついた。三上さんの奥様は、旧朝香宮家のもと皇族なのだ。
そんなわけで、皇室もいろいろ撮ったけれど、こんな取材でも人の縁をつくづく感じる。私は日本雑誌協会代表カメラマンを11年務めたが、公のお顔とプライベートなお顔はぜんぜん違うということだけはよくわかった。