本来、教育の成果が現れるのは数十年後。
それなのに、日本では、「今すぐ、効果が得られる」教育が求められている。
大学を職業訓練校化しようとするような提言がまじめに提出されたらしい。
「大学出たら即戦力」って、インスタント食品みたいな学生をイメージしているらしい。
しかしインスタント食品のような学生を社会に輩出したところで、彼らはすぐに使い捨てにされるだろう。
もっと安価な外国製インスタント食品が輸入されれば、使う前に廃棄される可能性だってある。
こくもうまみも足りないから、再利用もできない。
教育の目的の一つには、その人の視野を広げ、人生を豊かにするというものが含まれているはずだが、この提言によれば、そんなことは眼中にないようだ。
経済的観点から考えた教育施策というのがあってもいい。
でも極論に走りすぎ、教育という営みの本質を損なった教育は、もはや教育ではなく、単なる人材育成であるということ。
大きな価値があるものは、その全体像を捉えられるだけの大きな視野をもった人にしか分からないという矛盾が、常にある。
たとえば親の価値。
親にいちばん世話になっているときは、その価値は分からない。
子どもがある程度成長して、親という存在の全体像を捉えられるようになって始めてその価値に気付く。
大きな価値をもつものほど、その価値を明らかにするまでに時間がかかるという法則が成り立つ。
教育もその類のもの。
教育を受けているときにはその本当の価値は分からない。
自動車教習所のように、これを覚えればこのテストに合格するというような即効性の高い教育に、それ以上の価値はない。
この問題集をやれば、この大学には入れるというような教育にも、それ以上の価値はない。
目に見える学力を伸ばすことは、教育の必要条件ではあるが、十分条件ではない。
東大合格を最終目標にするような高校ではなかなか東大合格者が増えないのと同じように、できるビジネスマンになることを最終目標にするような大学ではきっとできるビジネスマンは育たない。
教育には実はたくさんの無駄や不純物も含まれていて、実はそれらも微妙に作用して、豊かな人間を育てる。その結果、優秀な研究者も本当の意味でできるビジネスマンも育つ。
教育の最終的な目的は、時間的にも空間的にもより広い視野で物事をとらえ、判断する力の涵養である。だから終わりはない。
そして、本当に価値のある教育の価値は、その教育の成果が現れて、時間的にも空間的にも広い視野をもつことができるようになるまで、わからないというのが、教育という営みがもつパラドクス的な真理である。
私は仕事柄、名門校という学校を取材することが多い。
先生たちは口をそろえて言う。
「この学校の教育の価値が分かるまでには、卒業してから20年から30年はかかる」
たしかにそういうものだと思う。
「成績が上がった」とか「合格できた」とかいう目先の成果ばかりを追う教育だけを受けていると、広い視野は養われにくい。
それなのに、この数十年間、「これをやればこういう力が身に付く」というような、即効性の高い、効果のわかりやすい教育が優先されてきた。
特に最近は、英語をやればグローバル人材が増えるのではないか、理数系に力を入れれば技術大国として復活できるんじゃないか、みたいに。
「教養なんてあっても1円にもなりゃしない」と、教養教育をおろそかにするのもそういう流れである。
目先の経済成長を追いかける経済合理性が、教育の分野にも入り込みすぎた結果だと私は考えている。
経済は豊かな生活を支える重要なファクターではあるが、経済のために人は生きるのではない。
そこがひっくり返ると本末転倒な議論が生まれる。
そして、経済的観点からだけ論理的思考を重ねると、冒頭のような教育施策がまじめに出てきてしまうのだろう。
あれを考えた人に悪気がないことはわかっている。
良かれと思って考えたことであることもわかっている。
でも、人間は理路整然と間違うことができる動物である。
何かに囚われたまま論理的思考を重ねると、あり得ない答えにたどり着くことがある。
小学生の算数で、家族の身長を計算するみたいな問題で、どこかで勘違いをしたまま算数的思考だけで解き進めると、「答え、お父さんの身長は17メートル」みたいになってしまったことが誰でもあるんじゃないかと思う。それと同じ。
そんなときは、自分が何かに囚われていないか、深呼吸をして、一度視野を広げる必要がある。
あの提言資料については少なくともネット上では批判が相次いでいるが、たぶんつくった本人は何が悪かったのかわっぱりわからないはずだ。
囚われてしまっているから。
悪い宗教から抜け出せないのと同じだ。
似たような話で、かつて学力テストの順位公表の是非を巡って、「日本経済は競争主義に向かっているのだから、学校も競争社会にすべき」という理屈を展開する記事を発見したこともある。
一見正論のように見えてしまった人、ご用心!
たしかに日本社会はますます競争主義的な方向に向かってはいるけれど、人の人生は競争ではない。
教育の目的は、競争に強いビジネスマンを養成することではなく、豊かな人生を送り、豊かな未来づくりに貢献できる大人を育てること。
みんながみんな、株価を見ながら暮らしたり、生き馬の目を抜くようなシェア争いを繰り広げたりすることに、一生を捧げるわけじゃない。
芸術を楽しんだり、恋人とのひとときを過ごしたり、ふと立ち止まって公園の草花を愛でたりという部分に、むしろ人生の果実はある。
つまり、その記事のおかしなところは、教育の目的を、「子どもを経済社会に送り出すための方法」として、めちゃくちゃに矮小化してしまっているところ。
それに、現在の日本経済の競争主義的な価値観が、正しいとも限らない。
これからのゼロサム社会においては、競争力よりも共生力のほうが大事だと、私個人は思う。でないとみんな疲弊して共倒れになってしまうから。
教育とは、前の時代のやり方が間違っていたら、それに気付き、変えることができる次世代を育成すること。
教育の現場が、実社会の縮図になってしまったら、そもそも教育の役目を果たせない。
そしてそもそも今、日本社会の競争至上主義化を先導しているのは、ほかでもない学歴競争教育を受けてきたひとたちだ。特に1960年代には「マンパワー・ポリシー」といって、子どもたちをより効率の良い労働力・人材として促成栽培する教育をしていたのだ。
そのことが、「実社会に即した教育」という言葉が内包するパラドクスを説明しているのではないか。
教育についてはみんな一家言ある。
しかし、教育を語るときほど、その人に見えている世界観、歴史観、人生観、視野の広さが如実に表れやすい。
調べてみると、その記事を書いた人は、資産運用系の人であった。
みんながその人のような人生をおくるわけじゃないことを見落としている。
さて、そういう価値観で教育をされれば、「今すぐ、効果が得られない」ものには価値がないと思いこむ人が育つのは当然だ。
で、そういう人たちが民主主義社会に暮らすとどうなるか。
1票を投票しても、「どうせ何も変わらない」=「今すぐ、効果が得られない」。だから、「投票しても意味がない」となる。
即効性を求める教育のみごとな成果である。
そう考えると、投票率は低いのに、国政選挙のたびに「○○圧勝」というような極端な勝ち負けが付くことの説明も付く。
即効性を好む人は、自分が1票を投じた候補が落選すると、「意味がなかった」と思ってしまう。でも、自分が1票を投じた候補が当選すると、自分の1票に意味があったと感じることができる。
だからつい、「勝ち馬に乗る」ような形で、優勢な候補に入れたくなるという心理が働く。
で、シーソーゲームのように勝敗がはっきりするのである。
これもやはり即効性を求める教育の成果である。
自分が1票を投じても、たしかに何も変わらないことが多い。
でもそもそも選挙とはそういうものだと思う。
選挙のたびに革命が起こるようでは社会はもたない。
毎回毎回の選挙で、みんなが気付かないくらいの小さな変化が積み重なって、数十年経ってから見ると、「あら、いつの間にかだいぶ変わったのね」というくらいの時間をかけた変化が、社会の変化のしかたとしては望ましいと私は思う。
たった1票で社会が動かせるわけではない。
1回の選挙で社会を変えるのではない。
選挙は革命ではないのだから。
「たった1票」がたくさん集まって、ひとつの選挙の結果となる。
当選した人は、落選した候補者に投票した人たちの民意の存在までをできるだけ考慮して、バランス感覚をもって政治を行っていってほしい。
そうすれば、選挙を数十年で何度も繰り返すことで、少しずつ社会が変化する。
たった1票では何も変わらないけれど、1回の選挙では何も変わらないけれど、ちりが積もって、それが時間の経過とともに発酵して、漸次的な変化につながる。
そういう長い時間軸の中で、自分の1票もとらえるべきではないか。
「今すぐの効果」は感じられないけれど、無意味ではないと思えるはずだ。
「あなたの1票が日本を変える」みたいに期待をあおるから、結局「変わんないじゃん」という無力感も大きくなる。
「あなたの1票が日本を変える」みたいにあおればあおるほど、今後も投票率は下がると私は思う。
投票率を上げたいのなら、当選した首長なり議員なりが、自分に投票してくれた人の民意だけでなく、別の方に投票した人々の民意も最大限に考慮して政治を行うことを宣言すればいい。
どこまでできるかは別にして、スタンスとしてはそうあるべきだと私は思う。
そうすれば、落選した人に票を投じた人も、「無駄ではなかった」と思える。
「自分の1票では多分何も変わらないけど、いつ芽吹くか分からない種を蒔くつもりで、投票しておこう」というくらいの気持ちになれないと、投票率は上がらないだろう。
どこぞの市で民意を問うために出直し選挙ということもやっていたが、バカげている。
それで再当選したところで、自分の政策に反対する票を投じた人たちの意見を無視していいことにはならない。
政治家とは「こちらをたてればこちらがたたず、とかくこの世は難しい」というようなことを両立させてみせるプロではないのか。
聖徳太子が7人の話しを同時に聞いたというのは、単に理解したということではなく、7人の異なる立場の人の主張を同時に聞き入れて全員が納得する方法を提案したということではないか。
それが和を以て貴しと成すということではないか。
選挙の論点を極度に単純化して、なんでも対立構造に持ち込む政治家は本当の政治家ではないと私は思う。
ましてや低投票率の選挙で「勝った」ことを根拠にして、反対派をなぎ倒して進もうとするなど、民主主義を誤用しているとしか思えない。
ついでにもうひとつだけ。
なぜ選挙をするのか。
未来を「より良い社会」にするために、みんなの意見を集めることだろう。
未来における「より良い社会」とは、今の自分にとっての利益が増えることではない。
次世代にとって「より良い社会」という意味だろう。
まったく投票しないよりも、どんな1票でも投票したほうがいい。
でももし「今の自分の利益」を最大化することのみを考えて1票を投じるのであれば、その価値は「今」のものでしかない。
未来の「より良い社会」につながる価値は生み出さないかもしれない。
同じ1票でも、次世代、次々世代のことまでを考えて投じられた1票と、今の自分の利益だけを考えて投じられた1票では、意味合いが違う。
しかし同じ1票として扱われてしまう現実がある。
より長期的な広い視野に立って物事を考え判断できる人を育てなければ、長い時間軸で見たときのその社会における「1票の精度」は下がる。
それを繰り返せばやがて社会は衰退する。
教育の「結果」はこうやって数十年後に表れる。
要するに、目先の利益にとらわれない、本質的な教育をしていかないと、投票率は下がり、かつ、1票の精度も下がり、社会はますます衰退するということ。
「教育は未来への投資」とかよくいうけれど、それを、優秀な技術者を輩出して日本の産業発展に役立てようとか、グローバル人材を育てて国際競争力を高めようというような、次元の低い意味だけで捉えないでほしい。
「今の教育の質が、未来の社会全体の質を決める」という、もっと根本的な意味がある。
記事
- 2014年10月25日 08:10
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