世界を動かす原理主義(後編)

小林一朗
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■「見えざる手」は万能か?

 私たちは嫌でもグローバル経済の荒波の中で暮らさなければならない環境に生きている。そこで最も重視されるルールが「市場原理」である。宗教的な原理主義と並列で記述することに違和感はあるが、これほど世界を席巻している原理はほかにないと思う上に、その主張をよく読むと宗教的原理主義以上に問題を含む考え方のように思える。

 市場原理が万能であるかのような主張をする経済学者、エコノミストは少なくない。神がコントロールしているかのごとく市場には調整機能があるという。なおアダム・スミスは単に「見えざる手」と語っており、元々は「神」はつけられていなかった。

 スティグリッツは市場が万能ではないことの根拠を「非対称情報」に置く。彼は市場規模が拡大するほどに消費者と生産者間の情報の質と量に差が生じ、市場の自己調整機能が失われると主張した。事実、私たちはプロパガンダに踊らされ消費する奴隷と化している。現状では環境コストの内部化は限定的であり、環境修復費用などは外部化されている。破壊された環境は放置されたままか、税によって修復費用を充当している。PPP(汚染者負担の原則)を市場に導入するには、相応のガバナンスが働かなければならない。

 現在の経済活動において多国籍企業の影響力の大きさは他の経済主体を凌駕している。「比較優位」と「市場原理」は多国籍企業の行動の教典と言ってもよいだろう。公正な市場を実現するための各種の提案に、企業は激しく抵抗する。企業は自己の利益の最大化を求めて行動するため、コストの最小化を重視するからだ。業界団体や経済団体を構成し、政治に圧力を加える。ただでさえ機能不全に陥りやすい市場原理がさらに歪められている。

 アダム・スミスは『国富論』の発刊から14 年後、六度目の改定をした『道徳感情論』の中で、市場原理に基づく自由競争の危険性を指摘し、「レベルの高い倫理観」を求めている。自由競争は企業を成長させる一方で、勝者と敗者に分かつ。その結果、市場は独占・寡占状態となり自由競争は抑制される。いったん独占状態となれば、よほどのことがない限り勝者は市場で思うままに振る舞うことができる。独占禁止法や反トラスト法が必要な所以だ。(こうした時代にドーキンスの「利己的遺伝子説」が力を持つことに私は興味がひかれる)

 現代社会においては、世界経済の牽引者は「消費者」なので、消費者に購買力を持たせなければならない。したがって、相応の再分配は機能するが、一方で貧富の差は拡大している。購買活動に参加できない貧しい層からは、生存を脅かすほどの搾取が続けられている。日本に限らず、世界各国で多国籍企業による政治への圧力により、市場の自律性は阻害されている。WTO 交渉におけるアメリカの提案には産業ロビイストの意向が強く反映されている。

 市場原理主義者が必ず提示してくる需要供給曲線は、可逆的なプロセスで進行するという前提に立っている。これを環境問題に当てはめると、例えば資源が枯渇していけば、希少性が高まり材料転換を促すなど、「市場原理により調整される」とまで語る者がいる。しかし、実際にはバッタの大群が過ぎ去った後のように鉱物資源や森林などが使い尽くされている。破壊に歯止めをかけるどころか、資源価格を不当に低く抑える策がIMF などの国際機関によって強制されており、市場原理が歪められている。生態系の回復力は、ある範囲までは可逆とみなせるが、一定レベルを超えると不可逆となる。適用できない領域にまで、机上の理論が外挿されてしまっている。しかし原理主義者はお構いなしに高邁な理論を弄し続けている。

 「市場原理」は重要なルールだが、万能ではない。補完する原則を追加しなければならない。だが、そうした原則は利益を損ねるため、ほとんどが潰されてしまう。力を持つ者による、力を持つための者の自由が「市場原理主義」の行き着く姿だ。

■日本型原理主義の二つの流れ

 私が技術者だった頃、一枚の紙を自宅の壁に貼りつけ、毎日それを眺めては自分を奮い立たせていた。その紙にはSONY の創業者盛田昭夫氏の著書『MADE IN JAPAN』(1986 年)から抜粋した文言を記していた。

  「人類には輝かしい未来があると私は信じている。その未来には素晴らしい技術の進歩が約束されており、それが地球上のすべての人々の生活を豊かにするものと信じている。(略)私は楽観主義者である。われわれがそのためにベストを尽くし努力しさえすれば、平和で偉大な未来は必ずわれわれのものとなるだろう。このような世界がもうすぐ目の前に来ていると私は確信している。われわれはそのために努力しているのだ。素晴らしい挑戦ではないか。成功するかしないかは、ただわれわれの意思の強さと努力にかかっているのだ」

 ここで挙げる「日本型原理主義」とは日本国内の新興宗教やカルトではなく、企業行動を指すものとしておこう。一つ目の流れが盛田氏に顕著に見られる「技術解信仰」である。環境問題の深刻さを知り、半導体技術から環境浄化技術へと転じた私は、盛田氏の言葉に勇気をもらい難題に挑戦し続けた。しかし、数年の後、この言葉の裏側にある考え方そのものに根深い問題があると考えるようになった。人間の知性により、私たちに降りかかる問題の多くは解決される、いや解決しなければならないという思想は、決して盛田氏だけのものではない。日本に限らないが、科学技術を駆使する者たち、とりわけメーカーの経営者に根強い考え方である。環境問題の解決策として、例えばドイツや北欧では社会的なアプローチが重視される。だが、日本では技術に頼る傾向が強い。(私のサイトに「神になる技術と経営」という小論を掲載してあるので、詳しくはそちらを読んでいただきたい)

 二つ目の流れは、斎藤貴男氏の言うところの「カルト資本主義」である。斎藤氏は経営コンサルタントの船井幸雄氏や京セラ創業者であり名誉会長の稲盛和夫氏をカルト資本主義の筆頭にあげている。斎藤氏はその11 の特徴を同じ名前の著書で紹介している。

1)オカルト的な神秘主義を基本的な価値観とする。
2) 西洋近代文明を否定する態度を示し、そのアンチテーゼとしてのエコロジーを主張する。
3) 個人を軽視し、全体の調和を重視する。
4) 情緒的・感覚的であり、論理的・合理的でない。
5) バブル崩壊後、急速に台頭してきた。
6) 企業経営者や官僚、保守党政治家ら、現実社会の指導者層に属する人々が中心的な役割を担っている。その支持者たちも、一般に”エリート”と目される高学歴の人々が多い。
7) 無我の境地”ポジティブ・シンキング”など、個々人の生活信条に属する考え方が、普遍的な真理として扱われる。
8) 現世での成功、とりわけ経済的な利益の追求を肯定する。むしろ、ことさらに重んじる。
9) ナチズムにも酷似した、優生学的な思想傾向が見られる。
10) 学歴などに対して、普通以上に権威主義的なところがある。
11) 民族主義的である。


■個人的な体験

 10 年前の私なら、斎藤氏のこの指摘にまったく耳を貸さなかったであろう。その時、私はカルト資本主義の真っ只中にいた。当時、比嘉照夫琉球大学教授が発見したEM(有効微生物群)の産業利用、特に排水処理に応用する技術を確立する職に就いていた。微生物による通常の水処理(活性汚泥法)にEM を使えば、発生する汚泥がゼロになるという謳い文句に惹かれ就いた仕事だった。難分解性の物質も分解できるという。寝食を忘れ、技術開発に熱中した。しかし、結果はことごとく失敗に終わった。一部、硫化水素の発生抑制などで成果を上げたが、それはEM でなくてもできるものである。

 私が属していた会社の社長は、自分の発明センスを信じて疑わない人だったが、科学や技術をほとんど知らなかった。船井氏が自著でEM を取り上げたことにより、EM への問合せは引きも切らない状態だった。その多くが大企業からの問合せである。船井氏の影響力は甚大だったのだ。会社の中で技術がある程度わかる者は私一人だったため、多数の課題を抱え込んだ。測定のサポートをしてくれる者はいたが、微生物学も水処理工学も知らない素人を集めて作った会社だったので、下手なことを言うと実態はなにもないことがばれてしまう。社長もそれなりに自分のいい加減さを把握しており、専門的な説明が求められる場には私が出なければならなかった。

 EM がまやかしであることに気付くまでに、そう長い時間は要しなかった。それまで表に出ていたデータもいい加減なものであり、到底学術的議論に耐えられるようなものではなかった。社長も比嘉教授も当てにならないが、私は微生物技術の可能性と技術者としての自分の可能性に賭けた。EM に頼らなくても画期的な排水処理技術を確立する可能性そのものは否定できないからだ。 

 EM は岡田茂吉が創始した世界救世教の内部で使われ、その後世間に広がった。生ゴミを家庭で堆肥化する方法および農薬や化学肥料に頼らない農法として脚光を集めたが、今ではあまり話題に上らなくなっている。宣伝文句ほどの効果が得られないためだ。効果が上がらない時、比嘉教授は「使い方が悪い」と一蹴する。使う者の「心」に問題があるというのだ。技術に携わる者は、不可能とされる目標に挑戦しなければならない。開発に取り組む際の気持ちの持ち方が結果を左右することもある。だが、奇跡は起きない。技術として確立するためには、制御可能な体系にまとめなければならない。再現性
が求められるのだ。

 EM 関係者は再現性の乏しさの根拠を、条件の変化に置いていた。排水処理や農業では無数の変動要因を考慮しなければならないことは事実だ。多種の微生物の混合系であり、ひとつの複雑系である。複雑系のメカニズムは要素還元的なアプローチでは解明できない。ここに科学ではなく、怪しげな「神」がしのび寄る隙間が生まれる。

 EM に携わる者の多くは世界救世教関係者が占めてきた。私が勤めた会社の社長も、社員の多くも信者であった。発明に取り組むとき、さすがに社長は根性があった。私には真似ができないと思うほどの集中力を発揮した。「EMで環境問題を解決していこう」という目標には夢があった。その夢を共有したからこそ、全力で開発に取り組むことができた。社長や社員が救世教に私を勧誘することは一度もなかったが、岡田茂吉の思想をなんべんとなく説かれた。社長は「もうやり尽くしたと思えるほどの努力を積み、限界を超えた時に成功がもたらされる」という信念を持っていた。その根拠を岡田茂吉の思想に寄せている。教祖の思想を実現する手段として自らの職があるという確信だ。それが「必ず成功する」ことの根拠だった。

 ほどなくして私は退職する。嫌になったからではない。環境問題の解決には多様なアプローチが必要であり、(あたり前のことなのだが)技術はその一手段に過ぎないことが腹に落ちたからだ。こと環境技術に関しては、ほとんどが対症療法に過ぎないことを理解した。技術による解決はよく「End of pipe」と言われる。勢いよくパイプの先端から出続ける水の量を絞ることなく、パイプの先端で処理しようというものだ。環境問題が起きている現場に足を運ぶと、到底技術だけではどうにもならない場面によく遭遇する。ダイオキシンが飛散した土壌や、地下に浸透してしまった汚染物質の浄化など、起きてしまった事を解決するために技術はほとんど役に立たない。また、成長を続ける経済を前提に、循環型社会の実現は不可能である。経済の仕組みそのものの問題であり、私たちが科学技術に対しあまりに過剰な期待をいだいてしまっていることが問題なのだ。そう結論を出し私は別の道を歩むことになる。しかし、この時点では自分が「カルト資本主義」にいたことをほとんど認識できなかった。


■「科学とはなにか?」

 私にとって転換となる視点を与えてくれた本に、科学史家の渡辺正雄氏の著書『科学者とキリスト教』(1987)がある。科学の歴史についてはそれなりの知識があったが、大学で科学史を学ばなかった私は、「科学とは、科学者とは何か?」という問いを十分に積んでこなかった。渡辺氏の著書で、ガリレオをはじめとする初期の科学者は神学者であり、深い信仰を持っているが故に科学を切り開いたことを知った。宇宙は神が描いた書物のようなものであり、神の意思を読み取ることが神の栄光を証明することになるという考えだ。ニュートンも無神論的に力学を体系化したのではなく、神の力が及んでいるからこそ力を体系化できると考えていた。渡辺氏の著書から要点を引用する。


  「ちょっと考えると、自然科学というのは、きわめて実証的な経験科学であるから、研究者は、主観が混じらないようによく注意して、あらゆる偏見や先入観を取り去って自然に立ち向かうべきであり、客観的な観測と実験の結果に基づいて理論とか法則とかを求めていくのが、正しい科学の方法なのであると思われるかもしれない。ところが、実際問題として、そのようなことは不可能であるばかりか、実はそれでは何の理論も法則も生まれてこないのである。そのことは、科学の歴史を顧みても明らかであり、また、あの優れた実験科学者であるとともに電磁気学などの重要な法則を見出した一九世紀の科学者ファラデイ自身が、そのように述べているところでもあるのである。
  これまでに紹介したなかから例を拾ってみても、たとえばガリレイやケプラーが、この宇宙は数学の言葉で書かれた書物であるという強力な先入観念にとらえられていなかったとしたら、伝統的な宇宙の見方、アリストテレス的スコラ学的な先入観念を乗り越えて、数学的・近代科学的な諸法則を見出すことはできなかったであろう」『科学者とキリスト教』p.159 より


 カルト資本主義的な思想は、特定の者たちのみに固有の思想ではない。船井氏をはじめとするカルト資本主義者は、ニューエイジ的な精神偏重とナポレオン・ヒル的な成功哲学を融合させている。盛田氏ら多くの経営者、技術者は技術解信仰を根底に置く。実際には「技術解信仰」と「カルト資本主義」は絡み合っている。現状の困難を打破する術として、それぞれの確信を主張するが、どちらも根本的な問題解決には結びつかない。なぜなら、それらは結果的には現状肯定につながり、また個人により深い信仰心を抱かせ、組織や成功願望に従属させることで根本的な疑問を持たないような者を生み出していくからだ。

 私はこれらの思想を一種の原理主義として捉えている。市場原理主義を含め、これらの経済的影響力を考慮すると、前編で挙げたキリスト教原理主義やイスラム原理主義以上に危険な思想なのではないかと言えるのではないか。「社会を変えたい」と私たちが願い活動する時に、こうした“原理主義的性質”が世の中に蔓延していることを知る必要があるのではないかと思うのだ。みなさんはどう思われるだろうか。

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