For everything a reason 3 (哲人さんとの往復書簡)

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ふたりの人間が相対(あいたい)して、これから話そうとするときに、片方が述べた言葉が相手に直接つたえられて理解されるかというと、そんなことはありえないことだ、と考えます。

こんにちは、はもちろん直接伝わるでしょう。
ひさしぶりですね、になると微妙だが、礼儀ただしくしようとすれば、やはり直接言葉を受け取るべきだろうと思います。

ところで奇妙なことを言うと「こんにちは」という挨拶を受け取っている人は、実は「こんにちは」に相当する信号を相手が送っていることを知覚しているだけで、特に述べていることを聞いているわけではない。

鎌倉の焼鳥屋に行ったら、そのとてもおいしいけれども、ぼくの身体のサイズにはなにもかも小さくて、その「小さい感じ」がとても楽しい夜になった焼鳥屋で、お勘定をすませて、いざ帰るときになったら、金髪でピアスをした気の良いおにーさんが「あざあああーす」とかなんとか、結局は聞き取れなかった威勢の良い挨拶で送り出してくれました。
一緒にいた義理叔父に、「いまのなんて言ったの?」と聞くと、
いや、おれにも判らない、という。
さよなら、という意味かしら、と言うと、
いや「毎度ありがとうございました。また、どうぞ」という意味だ、と自信たっぷりに答える。

いま聞き取れなかったって言ったじゃん、と笑うと、
いや、それでも意味は精確にわかっているさ、と言ってすましている。

ところで、相対(あいたい)して会話しているひとは、通常、互いに、言語社会全体が絶えず書き換えているひとつの「おおきな辞書」を参照しながらお互いが述べていることを理解しているのだとぼくは感じます。
すさまじい、という言葉は11世紀の日本社会が参照していた辞書では、「なんだかぞっとするようで興醒めである」という意味だったのだと思いますが、いまの(日本語人が会話するたびに絶えず参照している)辞書には「すさまじい面白さ」という用例が載っているでしょう。

よく上がる例だと「やばい」という言葉は現在進行形で辞書が書き換えられたり書き戻されたりしていて、「すごく良い」と「ダメっぽい」という相反するふたつの意味を往復している。

本来、内的意識と照応している言語に伝達の機能をもたせるために、どの言語社会も、この全員が編纂と執筆に参加して絶えず書き換えられている「おおきな辞書」を持っていて、これを参照しながら普段「伝達」を行っている。

しかし考えてみると、ここで「伝達」と呼んでいるのは、お互いがすでに知っていることの追認にすぎないわけで、壁にかかっているいくつかのシチュエーションカードのようなものを何枚か取り上げて、これとこれとこれ、というふうに生起順に並べてみせているだけであるように思います。

ギョーム・アポリネールという詩人は、パブロ・ピカソという画家の友達とふたりで時間ばかりを持てあましている毎日のある日、詩を量産して大金(たいきん)を稼ぐのはどうか、と言い出す。
どうするかというと詩句を書いたカードを何十枚かつくって、シャッフルして、並べ直すことによって詩を大量生産するば、ちょうどT型フォードのように売れると考えた。

これは大変示唆的で、詩を大量生産するのは無理だが、会話などはおよそ、その程度のものだ、ということを暴露していることにおいて面白いと思う。
むかし、ぼくが子供の頃、母親のおさがりのSE30というコンピュータでよく遊びましたが、(もしかすると同時期に持っていたコモドールのアミガのほうだったかもしれませんが)「ラクター」という、「おはなしリカちゃん」のソフトウエア版があって、この「ラクター」は詩人で、さまざまな美辞麗句を駆使したり、ときに、というよりも、しばしば、びっくりするように鋭い警句を述べるのですが、種明かしは、 ラクターはコンピュータのAI史上有名なELIZAと同じ人工無能プログラム で、特に相手の言っていることを理解しているわけではない。
一定の複雑さをもつ質問を述べると、突然怒り出して、おまえみたいな低劣な人間とは口も利きたくないと言っていなくなってしまう大庭亀夫みたいな人で、7歳か8歳くらいのぼくは、退屈すると、「ラクター」で遊んでいたものでした。

「おおきな辞書」は哲人さんが述べる社会性を請け負っている言語が網羅的にかかれた辞書で、
「言語は、自分と他人が同じ世界を見ているという社会生活の水準での確実性の上に、音声と身振りが配置されたものにすぎない」
と哲人さんが書かれた哲学上言語学上の教科書的真実は、この「おおきな辞書」について述べられたものであると思います。
哲人さんがここで述べられていることは「正しい」ことでもあって、現に、言語について考えることに決めた人は、みな、この定義を教室で
教わったことがある。
ぼく自身も、哲人さんが書いた文章のこの部分だけ、自分のラテン語教師が書いたのではないかと一瞬さっかくしてびびりました。
哲人さんの正体は、日本語を学習して、態度も出来もわるい学生だったぼくに復讐するためにはるばる波濤を越えて日本の国立大学に職を得た、あの天敵ハゲではないかと考えた。

「相手が知らない/判っていないことを伝達しようとしている」場面を考えると、「おおきな辞書」は、まるで使いものにならないのは直感的にわかりやすいのではないかと思います。
社会的な合意を参照して追認するだけの「おおきな辞書」には載っていない概念や、概念自体が誤解されている語彙がたくさん出てきてしまうからです。

「悪魔の実在」について議論するのは、大陸欧州では、そんなに奇異なことではありません。
欧州言語は、神を「言葉によって知覚できず、言葉の集合の外にある」絶対として定義して発展してきたからで、世界で最も無神論者が多い連合王国人が最近になって安んじて「神なんて、いるもんかよ、けっ」と述べられるように成ったのは、「神」という仮定が、ちょうど18世紀の物理世界における「エーテル」と同じく、世界を矛盾なく説明するためにはどうしても必要だった時代が終わって、主に物理学者の挑戦を契機に、宇宙を説明するための仮定としては、存在を認めると返って邪魔になってきたからにすぎず、神が存在しえないという物理的知見から逆に言語の側へ影響して、たとえば、神と神を仮定した「調和のある世界」にこだわっていると、どうしても現実感すらない。あるいは生活言語では存在の有り様を解説することさえできない量子論から徐々に生活のほうへ広がってゆく「言語の崩壊」は、まだ神や悪魔を仮定して議論するひとびとが使う言語にまで影響するには至っていない。

だから悪魔の実在について議論することは可能なはずですが、日本語には宗教について参照すべききちんとした「ひとびとの意識が参照できる辞書」が言語社会全体として存在しないので、現実には不可能なのは、ご承知の通りです。
神と悪魔が対立的なものではなく、悪魔は「最高神になりえなかった神」にしかすぎず、と説明するのもそうですが、それ以前に言語の定義の問題がある。

いちど、50代の人が「正直に言って北村透谷は滑稽で、浅い」とオオマジメに述べているのを見たことがある。
「処女の純潔を論ず」を、いまの「おおきな辞書」に照らせば、意味は全部伝わっても、誰でも、ぶっくらこいてしまうか、ふきだしてしまうでしょうが、しかし、北村透谷が述べた「処女」も「純潔」も、極めてクリスチャン的な概念の直訳で、いまの現代日本語から想像できる意味や、言語が含有する情緒とは遠く隔たった語彙の連続で、「おおきな辞書」以外の辞書を持っていない人には読めないのは理由があることだと感じる。

「観念の高み」という言葉を使いましょう。詩人の田村隆一が使った用語です。
隣のひと課長になったんだって。へー、うらやましい、というような会話を地べたにはりついた会話だとすると、
「するどく裂けたホシガラスの舌を見よ
異神の槍のようなアカゲラの舌を見よ
彫刻ナイフのようなヤマシギの舌を見よ
しなやかな凶器 トラツグミの舌を見よ

彼は観察し批評しない
彼は嚥下し批評しない」

という言葉を理解するためには、
少し「観念の高み」が必要になる。

「処女の純潔を論ず」を逐語的に歴史的意味の変遷を追って、いわば地を這って、あの文章がいまの日本人が理解したと思う文章とは異なる文章なのだ、という丹念な評釈がありますが、それ以前に、たとえば吉増剛造は「処女の純潔を論ず」をオリジナルの意味のまま読んでしまっている。
このひとの読み方はおもしろくて、観念のレベルをどんどんあげていってしまって、自分の詩語が出てくるところまで上げてから一挙に散文を読み下してしまう。

この吉増剛造と北村透谷のあいだには一冊の100年を隔てて同じ意味にたどりつくことが出来る「辞書」があったはずで、しかもこの辞書は社会性をもった言語の集合の正反対で、語彙の歴史性に立脚した「孤独な言語」であったはずです。
そこにいささかでも社会性があったとすれば、それはすでに遠い昔に死んだ人間が持っていた社会性にすぎないのではないかと思います。

いままでいろいろな言語で遊んできて、簡単に相手に考えていることが通じるのは数学言語くらいのもので、それは多分数学という言語は 論理ベクトルしかもっておらず、死者が営々とためこんで語彙に堆積した情緒をもっていないからで、言語が伝達機能を持たないのは、この情緒がそれぞれ孤立した人間が「普段は使われない辞書」を書き換えてきているからだと思う。

生活言語であっても、観念の高みにのぼってゆくと、言語が言語を呼んで、スパークするような、激しい化学変化を起こして、書き手の意志とは離れたところで言語自体が伝達の役割をはたしてしまいことがある。

武蔵野、朝鮮、オルペウス

という詩句は、朗読の音韻が呼び寄せた、遠く異なったみっつの言葉の邂逅ですが、
その漢字とカタカナの輝くのなかでは、「朝鮮」という言葉は、文字通り、鮮やかに輝いていて、なんのことはない、日本の人が歴史意識のどこかで抱いていた百済観音に代表される半島人の文化への憧れを言語自体で表現してしまっている。

言語にとっては、たとえそれが社会性を担っているとしても、言語が秘匿している「過去にすでに死んでしまった人間の社会性」のほうがより圧倒的で強烈であることの証左として、ぼくは、よくこの詩句を考えます。

ここまでぼくは哲人さんの言うことにそむいて、人間の言語はいかに伝達が出来ないかをまだ執拗に述べている(^^;

ここから例証をあげて、伝達していると思っているものはすでにお互いに了解されていることの追認に過ぎないこと、どちらかが了解していない事柄については「おおきな辞書」を参照する会話によっては伝達はやはり不可能に見えること、などを述べていこうと思いますが、今日はインド人たちのお祭りで、明日からはインターネットはときどきしか通じない旅行に出るので、ちょっとここで、中断して、一週間ほど、おやすみです。

では、また

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