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October 24, 2014

マンガの視点・人称の話:『惡の華』と『聲の形』

 一人称小説、「ぼく」とか「わたし」が語り手となって書かれるお話では、主人公が知りえないシーンは描写してはいけないことになってます。これは小説ではかなり厳密に守られているようで、わたしのような一般読者でも知っている法則です。「ぼく」が語ってるはずの小説が、突然、神の視点で描写をしはじめると、これって何かのトリックじゃないのかと疑ってしまうくらい。

 ところが映画やTVドラマになると、このあたり寛容になります。これは映像による作品が、「映像として」一人称視点を徹底するのが困難だからですね。

 厳密に主人公が「見ている」画面だけで作品をつくろうとすると、画面内に主人公が登場しないことになってしまって、ちょっと困る。通常、映像作品の一人称は、主人公が体験し見聞きしたことだけを描写するのがお約束。主人公は画面内に登場してもオッケー、みたいです。映像作品の一人称は小説に比べると徹底しておらず、擬似的な一人称ということになります。

 冒頭で主人公が回想してるという設定のモノローグで始まる映画がよくあります。これって一人称の視点なんだな、と思って見てると、いつのまにか主人公が立ち会っていないシーンが描写されたり、はなはだしいときは主人公が途中で死んじゃったり。

 それでも見てるときはあまり変だとは思わない。見終わったあとにお話を反芻してるときに、あれ? と思うくらいでしょう。このくらいルーズでもあまり気にならないのは、舞台で演じられる演劇と同じように、映像作品では観客にすべてがさらされる神の視点を持っているのが普通で、そっちに慣れてるからでしょうか。

 一人称視点の作品の有利なところは、主人公の行動や心情に沿った描写の結果、観客の感情を操りやすい点。ただし映像作品でこの一人称を徹底すると、どうしてもお話の広がりがなくなってしまいます。主人公が立ち会っていないシーンを描写できないのでは、作者としては不自由すぎる。一人称視点以外もいれてみたくなります。

 これを打開する手法としてどういうのがあるかというと、たとえばTVドラマ「北の国から」。主人公・純のモノローグでお話が進んでるのに、純が登場しないシーンがいっぱい出てきます。

 そこで、純のモノローグ「そんなことは全然知らなかった」が頻発します。これ、魔法の言葉だよなあ。そのときは立ち会ってなかったけど、あとから知ったから描写してもおかしくない、といってるわけですな。

 さてマンガの話。

 マンガでは、映像作品より視点、人称をもっとルーズに描くことが可能です。マンガには心の声を表現するフキダシが存在していて、これを使えばひとつの画面の登場人物全員がセリフと心の声を同時に発することもできてしまいます。

 こういうの、マンガだけでできると思ってたら、TVドラマ「ファースト・クラス」では心の黒い声ダダもれ、という手法を使ってて、これって限りなくマンガ表現に近いですね。ただし、みんなの心の声が入り乱れると、そうとうにうるさい。

 マンガでは複数の形のフキダシを駆使することで、セリフと心の声を自在にあやつることができます。そのぶん自由度が高く、登場人物から登場人物へ、視点や人称の移動も簡単。

 登場人物すべてを等価に眺める神視点は状況説明に最適。視点や人称を変更し続けることはサスペンスを盛り上げる。いっぽう登場人物だれかひとりの視点で描かれると、主人公の行動や感情の変化がわかりやすい。そのほうが読みやすくて読者の感情移入には有利になるでしょう。

 たとえば、押見修造『惡の華』。2009年から連載開始、本年に完結した作品。

惡の華(1) (少年マガジンKC) 惡の華(11)<完> (講談社コミックス)

 主人公・春日が謎の女の子・仲村さんに振り回される話ですから、1巻~3巻の第一部は主人公の一人称視点で描かれます。つまりその視点で読者に共感させる。

 それでも3巻になるとヒロイン・佐伯さんが春日のことを心配し始めるので、佐伯さん視点の描写が挿入されるようになります。このあたりで佐伯さんは、遠くから眺める美少女ではなく、読者と同じ側にやってきたわけです。

 4~7巻の第二部になると、主人公が暴走を始めます。読者にとっても春日が謎の存在になっていくので、主人公以外からの視点での描写が増えるのは必然です。事件も大きくなるから状況説明の描写が必要となり、主人公一人称視点の描写は減っていきます。

 第二部クライマックスとなる夏祭りの場面では、視点・人称がつぎつぎと切り替わる描写方法が選ばれています。

 第三部ではがらっとかわって、再度主人公の一人称視点がずっと続きます。エピローグは時空を超えた神視点の描写に変わります。

 そして最終話で初めて、もうひとりの主人公・仲村さん視点で第一話が語り直されます。ここにいたって、読者にはこの物語が最初からすべて、仲村さんが救済されるための物語であったことがわかるのですよ。なんというアクロバティックなラスト。ぱちぱち。

 続いて大今良時『聲の形』。週刊連載は速いですね。1巻発売が昨年の11月で、あっというまに6巻が発売されました。

聲の形(1) (講談社コミックス) 聲の形(6) (講談社コミックス)

 こちらのテーマはいじめです。耳の聞こえない少女・西宮硝子をめぐって複雑にからみあう少年少女たちの関係。いじめの加害者、被害者があざなえる縄がごとく入れ替わります。加害者には被害者の気持ちがわからず、被害者には加害者の気持ちがわからない。

 ほとんどのシーンが主人公・将也の視点だけでお話が進みます。もちろんモノローグや心の声もすべて将也のもの。さらにいうと、将也を見て、「きも」「ウザ」と言っている他人の心の声も、すべて将也のものです。

 新しい表現として将也が見るクラスメイトの顔にはどれもバッテンがついている。将也はクラスメイトを認識することを拒否している、という表現です。

 これまで、目や鼻のない顔、斜線で黒く塗られた顔、などの表現はよく見ましたが、バッテン、ペケは新しい(ような気がする)。今後、標準的な表現として他のひとも使うようになるかしら。

 本書で主人公の一人称視点を補完するのは、ヒロイン・硝子の妹の視点。妹視点で硝子の日常を描くことで、物語の厚みが増します。おもしろいのが4巻32話で語られる過去の挿話。すごくイヤなエピソードなのですが、その語り手は、死んだはずの硝子のやさしいばーちゃんです。死んでまでもやさしいひとを語り手にすることで、やなエピソードの印象をやわらげるというテクニックですね。

 さて、最新6巻になると、主人公・将也が意識を失う展開になります。主人公視点での描写はなくなり、登場人物ひとりひとりが、リレー形式のごとく連載1回分の語り手を担当することに。これが6巻でずっと続きます。

 これで物語はさらに重層的になりました。特筆すべきは、ヒロイン・硝子視点の第51話。彼女は読者にとっても謎の存在でしたが、彼女視点で物語が描写されることで、彼女はやっと読者側にやってきます。しかも耳の聞こえない硝子の視点での描写とは、どんなものになるのか。これはマンガとしてそうとうな実験ですよ。

 自殺を前面に出した展開には不満もあるのですが、意欲的な表現からは目が離せません。

『惡の華』と『聲の形』は二作とも、視点・人称の変化を利用することで、表現とストーリーが渾然一体となり読者の感情をゆさぶる、マンガならでは、という作品となっているのです。

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