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フィリピンで語り継がれる特攻
10月25日 7時17分

フィリピンで語り継がれる特攻
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太平洋戦争末期、旧日本軍が特攻隊を編成し体当たり攻撃を始めてから70年。終戦までに6000人以上が特攻作戦で死亡したとされ、多くが20代の若者でした。特攻隊が初めて出撃したフィリピンでは、飛び立つ若者の姿を記憶にとどめ、戦争の悲惨さを語り継いでいる人たちがいます。

特攻隊の出撃拠点の1つだったルソン島中部の街、マバラカット。70年前の昭和19年10月25日、ここから飛び立った最初の特攻隊がアメリカ軍の空母などに突撃しました。
フェルナンド・サントスさん(82)は当時、海軍の航空部隊の司令部として接収されていた自宅で、出撃していく特攻隊員たちを目撃していました。出撃前夜、上官の指示を受けたあと、何かを唱えながら涙を流し、最後には大声で万歳を叫んでいたという若者たち。サントスさんは今もその姿が忘れられないといいます。
そうした記憶を戦争の悲惨な歴史として語り継いできた人もいます。当時14歳だったダニエル・ディソンさん(84)です。戦時中、旧日本軍に占領され、戦いに巻き込まれて100万人が死亡したフィリピンでは、日本兵への人々の憎しみが高まっていました。しかし、ディソンさんの目には、特攻隊員の姿は少し異なって映っていました。少年のディソンさんが近づくと、よく笑顔で話しかけてきたからです。その若者たちも出撃が迫ると表情は一変し、鉢巻きを締めてずっと遠くを見つめ続けていたといいます。
ディソンさんは戦後、アメリカ軍や元特攻隊員などから資料や遺品を集め、自宅に資料館を設けました。大勢の若者たちを死に追いやった戦争の現実を後世に伝えるためです。飛行場の跡地には慰霊碑を建て、「安らかな眠りを祈り世界の平和と友好が続くことを願う」と記しました。「何があっても戦争はあってはならない」と語るディソンさん。70年がたつなかでも、特攻の記憶がフィリピンの地で語り継がれています。

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