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初めて南部に行った時“来たことある”と思ったんです。第2のふるさとみたいな。(小林) 克也さんが音楽に興味をもったきっかけは? 僕の出会った音楽はみんな南部のものだったんですよ。例えばプレスリー。彼はテュペロというメンフィスから近い所でしょ。1950年代の音楽というのは56年くらいに流れが出来たんですが、R&Rをやった人たちは殆どカントリーの出身なんですよ。カントリーは南部の音楽だから、僕がラジオで聴いた番組の喋り手も歌も、みんな南部訛りしてたんですよ。 なるほど! 英語自身が違うということですね。 今の言葉で言うとグルーヴが違うの。1976年に初めて南部に行ったんですけど、その時デジャヴがあって“来たことある”と思ったんです。別に音楽を聴いたわけではなくて、周りの人が話してるのを聞いたバイブレーションみたいなものがあったんです。 音楽で知っていた街の雰囲気があったのかもしれませんね。 それからアラバマ州に人口10万くらいのマッスルショールズという音楽の街があって、ここで色んな音楽が作られたんです。日本でいうと加藤和彦まで録音しに行ったことがあるし、ポール・サイモンの初めてのソロアルバムだとかロッド・スチュワートのアルバムだとかわざわざ録りに行くところがあるんですよ。そこでマッスル・ショールズ・リズム・セクションやエンジニアなんかと酒飲みながら話してて“あ、ここは第2のふるさと”みたいな気持ちになったんですよ。 それから足繁く通われたんですか? それから3回ばかり。 僕もメンフィスへ行った時は、エルビスが録ったサン・スタジオに行って“サン・スタジオ”と書いてあるグラスを買ってきましたね(笑)。 観光名所になってるから(笑)。 “ここでB.B.キングが演奏してるんだ”というクラブを見に行ったりね。本当に街中ブルースの匂いというか。僕はバイオリンだからフィドルのレコードが沢山手に入る。 あとナシュビルの古い楽器屋さん行くとすごいバイオリンがあるのに。 ナシュビル行ったのに楽器屋行かなかったなぁ。 行かなきゃ! ナシュビルはギターばかりじゃなくて、要するにカントリーはフィドルじゃないですか。バイオリンが凄いあるんですよ。僕楽器のことよく分からないんだけど風格があって高そうだと思うと値段が高かったり。それが何百万とか。 おそらく日本なんかで買ったらもっと高いでしょ。 面白いですね。漠然とアメリカ南部と言ってもニューオリンズ南部、ルイジアナ南部、アラバマ南部、テキサス南部、ジョージア州とか色々あって…ジョージア州はサザンロックでしょ。ジェームス・ブラウンだとかレイ・チャールズはちょっとノリが違うんですよ。 匂いが強そうですよね。音楽聴いてると“サウスの匂い”があるような気がしますよね。 全部鼻にかかってるのが南部訛りなの。(小林) 南部訛りってどんな感じですか? ゆっくり話すとわかるんだけど。克也さんなりに“これは特徴的だ”というのを教えて下さい。 いわゆるマウンテン・ミュージックってあるじゃないですか。典型的なものでは「♪she'll be comin' around the mountain…」わかります? これが全部鼻にかかってるのが南部訛りなの。 それだ! フォスターの「♪I came from Alabama wid my banjo on my knee」の“banjo”が“便所”みたいになるんですよ(笑)。 全然違うんですね。でも今歌って頂いた南部訛りが、その音楽を一番耳にしてる雰囲気ですね。今「あ、知ってる知ってる!」と感じたもん。 そうそう。ノリとか声の出し方、匂いみたいなものが。 ブルーグラスとかでよくフィドルがはいってる曲の発声っていつも面白いなと思ってて、録音のせいでこうなってるのかなと思ってたんだけど、発音自体が違ってたんだ。 恐らく額が一番振動するように発声するんじゃないですか。ちょっと南部訛りになって。僕が最初に聞いた英語がそれですから(笑) 、絶対に南部へ行ったら懐かしさあるでしょ。南部って白人も黒人もいてそれがだんだんシカゴとかへ散らばっていくわけですよね。だから黒人の英語にも南部の要素があるんですよ。だから南部はかなりルーツなんですよ。 そういう気がしますね。古い街ですものね。僕らの抱いているアメリカよりもっと“昔のアメリカ”があるんだろうね、一番ルーツ的な。僕ミシシッピで後ろでクルクル回ってる船を見た時に。 『プラウド・メアリー』とか思い出しませんか? 『プラウド・メアリー』はそういう船の名前なんですよ。 |
お互いの領域を認め合っている“Excuse me”な感じがするんです。(小林) サウスのフィーリングって、ゆっくり話すのもそうですが、みんな人柄が人懐っこいと聞きますよね。 そう、何なんでしょうね(笑)。僕は中村八大さんと2回ばかり南部へ行ったことあるんですよ。その時はどこへ行っても「この方を心得ぬか」という感じで『上を向いて歩こう』をハミングするんです。すると向こうも知って歌うんですよ。「それを作ったのはこの方だ!」「ははーっ」みたいな(笑)。めちゃくちゃ人懐っこいの。あれは何ですかね。 ヨーロッパへ行ってもパリはみんなスノッブだなと感じるんですよ。ロンドンへ行ってもそういう感じがしますね。でもパリもイギリスも、カントリー・サイドへ行くとみんなフランクというかフレンドリーですよね。 礼儀正しいしね。僕の解釈だとヨーロッパのお百姓さんがいるところへ行っても挨拶してくれますよね。彼等は個人主義みたいなものがあって“自分の領域”があるんです。歩く時も領域を抱えて歩いているんでしょう。だから人込みで肩が触れそうになると必ず「Excuse me」と言うじゃないですか。あれはお互いの領域を認め合っている“Excuse me”な感じがするんです。 なるほど。 だから日本人はそういう個人主義の領域を持たないから満員電車でも平気じゃないですか。肩が触れても何も言わないですよね。 本当は嫌なんだけどね(笑)。 あれは礼儀作法が足りないんじゃなくて感覚的なものなんです。向こうの人が挨拶する時は心を許しているからじゃなく“相手のことを認めた挨拶”ということなんだと思うんです。 「今から触れ合うんだぞ」という“宣言”ということですね。 僕はそういう風に動物的な感じで見ているんです。 面白い見方だな、その感覚初めて。なるほどね。 僕らの世代は『ベストヒットUSA』を毎週みんな聴いてました。(葉加瀬) そもそも英語は独学ですか? 独学ですね。もうラジオから。普通の勉強はしましたけど、結局助けになったのは歌を聴くこと。それを風呂場とかトイレで歌って反復してたんですよ。語学は反復しないとダメじゃないですか。南部訛りっぽく。それがnothing butとかsince “I found”という学校で習うのをプレスリーの歌でやってたわけですよ。 なるほど。僕らの世代は『ベストヒットUSA』を毎週みんな聴いてました。あの番組は何年頃? あれは1980年に「これからビデオクリップの時代になるんだ」という予測のもとに、理解ある会社が1社「それじゃ」ということで始めて当たったんですよ。あまり喋らないでビデオクリップを見せるという番組だから続かないだろうと思ってたんでしょう。そうしたら8年半も続いちゃったんです。 8年半でしたか。80年からずっと。みんな全員見てたっていう世代ですよ。 あの番組のおかげで僕はいい加減だった英語を勉強しました。TVだと分からない顔とか「しまったな」という表情が出るじゃないですか。だから「これヤバい」と思って。ラジオのインタビューだと編集したり、生放送だと日本語で誤魔化したりするんですけど、あの番組は誤魔化せないですから。'80年代はかえって英語も音楽も勉強しましたね。 克也さんもあの番組を通じて、音楽がいっぱい広がっていったんですね。 世界のトップの人たちに会うことが出来ました。色んな価値観を持ってるミュージシャンがいて、中にはインタビューが嫌いな人もいるし(笑)。 一番印象的なことはありますか? やっぱりミック・ジャガーとかポール・マッカートニーとか。会えるなんて思ってもみなかった人にインタビューするような体験は個人的にも凄かったですよ。 ミック・ジャガーなんて、僕なんか未だに普通に喋ってくれるんだろうかと思ったりしちゃうんですけど。 かなりあの人はビジネスマンだから、「もうここら辺でいいかな」みたいな話の終わり方もするしね。なかなか凄いですよ。 ポール・マッカートニーは? どちらかというと長嶋さんタイプで明るくってね。もともと人懐っこいんですよ。ビートルズの他の3人は街歩いてて他の人に声掛けないですけど、あの人だけは別。彼は唯一ビートルズの中で犬飼ってるんですけど散歩の途中でいろんな人に声掛けまくったらしいですよ。 散歩させながら(笑)。 気付いた人は「ポール・マッカートニーに声掛けられた!」とめちゃくちゃ嬉しがったり。ポールはインタビューで知ってる役者に「君のこと知ってるよ。今何やってるの?」と声掛けたんだって。「これはちょっと説明できないし、オフレコかもしれないし。見に来ればわかるよ」みたいなことを言ったらしいのね。そしたらポールは「あんなヤツ一番嫌いだ。何やってるか明るく話してくれればいいのに勿体ぶりやがって」と怒ったそうですよ。彼は全部言う人なんですよね。 “評論家みたいなDJはいけない”と未だに葛藤がある。(小林) 仕事を始めた頃『DJ』という言葉は普通にあったんですか? ありましたよ。ディスクジョッキー、略して『DJ』とね。 日本では草分け的な存在ですよね。 そんなことはないです。草分けはいっぱいいますよ。僕はラジオっ子だったから言葉の意味が分からない頃からとにかく聴いてました。ラジオがおもちゃだったんですよ。そのうちだんだん音楽がカッコよく響くようになって、1956年くらいにはプレスリーがドーンとくるんですが、丁度僕のアドレナリンが出始める頃と一致してて…その頃からラジオを聴き始めたわけですが、ラジオはディスクジョッキーが仕切るわけですよね。 50年代や60年代のラジオって面白かったんですか? めちゃくちゃ面白かった。特に50年代後半のR&Rは子供の歌なんですよね。“お前が好きだ”“君のテディベアになりたいよ”とか他愛のない詞で。それが60年代に入ってもっとメッセージ色になるわけ。だから最初の頃は子供っぽい英語が分からなくても「楽しそう」という面白さがあって。60年代に入るとFUN RADIOというウルフマン・ジャックに代表される時代に入っていくんですよ。その時僕にはディスクジョッキーによって曲がカッコ良かったり面白く聴こえたりするんですよ。好きな時間帯があってその時をよく目標に聴いてたんですけど、そういうので洗礼されたんですね。 なるほど。 だから“ラジオの仕事をやってみたいな”というのがあったんです。でも大学の時友達に「お前は音楽をよく知ってるし英語も喋れるんだからディスクジョッキーやれば?」と言われても自分ではピンとこなくて。というのも日本のディスクジョッキーって結構解説なんですよ。「えーこれは1956年のシカゴの何とかというクラブの録音で、よく聴くとマイクと楽器の触れる音がしたり…」とかね。 凄く分かりますね(笑) 「1978年に結成されたグループで1人メンバー辞めたんですけど、彼らの目指すところはソリッドでダイナミックな云々…」とかね。なんかね僕はそういうディスクジョッキーがダメなんですよ。 ダメなんだ(笑) 「それでは聴いて頂きましょうYou're nothing but a bitch」と曲振りすると「お前のかぁちゃんがモーテルから別の男と出てくるの見たぜ」みたいな曲だったりするんですよ。 そうですね(爆笑)。 ブルースはそういう曲が多いじゃないですか。リズム&ブルースとかも。“そういう評論家みたいなのはいけない。何とかならないものか”と心の中の葛藤がありました。未だにその闘いはあるんですけどね。今でも洋楽とかはそういう風に紹介しなきゃダメじゃないですか。そこを上手くクリア出来たのが『スネイクマン・ショー』というラジオの番組で、いわゆる紹介をしなかったんですよ。サウンドエフェクトを混ぜたり、ちょっとショートコントを入れたりして曲をかけるんですよ。 もうみんな夢中になってましたね。 「それでは聴いて頂きましょうYou're nothing but a bitch」と曲振りすると「お前のかぁちゃんがモーテルから別の男と出てくるの見たぜ」みたいな曲だったりするんですよ。 ジミ・ヘンドリックスやミック・ジャガーも癒し系にしたりして(笑)。(小林) 『シャ・ラ・ラ ガーデン』というCDを出されたばかりなんですよね。 好きな洋楽を厳選したワケじゃないですが、やったらCDになるかなという曲を10数曲集めました。勝手に僕の解釈でやってるので、有名な洋楽のヒット曲が昔のものもちょっと違う様に聞こえたりして自分でも面白いかなと思う。例えば『MY WAY』はやってます。だけどオジさんがやる『MY WAY』とは違うんです。 どう違うんですか? ラップっぽくやったりしてコードも変えちゃってね(笑)。他にはジミ・ヘンドリックスやミック・ジャガーも癒し系にしたりして(笑)。 60歳になったんで「小林克也の居間へ来てよ。僕が歌ってるから」という感じ。 もう克也さんのお家に遊びに行くと「僕この曲大好きだから聴いてよ」と克也さんが歌ってくれる感じ。凄いな、色んな曲が形を変えて聴こえてくるんですね。何と言っても克也さんのその声で歌われたらイチコロというところもありますもん。 “イチコロ”っていい言葉ですね(笑)。 |
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