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掲載日:2009年11月18日
子どもの頃から海外のラジオや音楽を聴くのが好きでした。海外の文化への憧れもありましたし、ふだん耳にする言葉とは違う響きやニュアンスを発見することが面白くてね。ラジオからは韓国語や中国語も聞こえてきましたから、英語に限らず、いろんな言葉のトーンを真似して遊んだものです。
その影響で英語の成績はいつもトップクラスだったのですが、大学に入ると、僕より英語ができる奴もたくさんいる。井の中の蛙だったと思い知りましてね。卒業後は会社員になるつもりでしたから、希少価値のある資格でも取れば、少しはウリになるだろうと、大学1年生のときに通訳案内士の資格を取得したんです。ところが、資格を活かして外国人旅行客の観光ガイドを始めたあたりから雲行きが怪しくなりまして(笑)。高収入が魅力でアルバイトばかりしていたら、3年生になるときに留年してしまったんです。
当時は就職難と言われた時代。僕は一浪もしていましたから、留年なんて「お先真っ暗」だと落ち込みました。友だちに相談すると、起業でもするかという話になりまして。観光ツアーの企画や貸しレコード店、喫茶店など思いつく限りのビジネスを立ち上げようとしたのですが、ことごとく頓挫。その間に、友だちの紹介で始めたナイトクラブの司会が忙しくなってきて、司会で生計を立てるようになるんです。
外国人客の多いナイトクラブでしたから、司会には英語を話せる人をということで僕に話が来ましてね。だから、司会を始めたといっても、しゃべる仕事をしたいと思っていたわけではないんですよ。ただ、収入になるし、そのナイトクラブには有名な外国人アーティストも時々出演していましたから、音楽も聴ける。「ほかにいい仕事もないし」と続けているうちに、しゃべることに慣れ、人づてに紹介されて、洋楽のコンサートの司会やテレビCMのナレーションなどもするようになりました。
28歳でラジオ番組を始めたのも、仕事仲間に勧められてデモテープを作ったのがきっかけです。僕には、米軍放送の音楽番組など子どもの頃から面白いと思ってきたラジオ番組のイメージがありましてね。それをもとに自分なりに吹き込んでみたところ、それまでの日本の番組にはない雰囲気だということで、ディレクターの目に留まり、洋楽をおもに紹介する番組のDJとしてデビューすることになったんです。
ラジオや音楽、言葉への興味というのは、僕にとっては趣味ですから、それを仕事にするチャンスがあるなんて学生時代はまったく想像していなかったですね。好きなことを仕事にしたいというよりは、挫折のたびに、「じゃあ、どうしよう」と逃げ道を探してきただけ。その過程で選択肢がふるいにかけられて、結果的に、自分が好きだったことが強みとして残ったんですよ。
その強みというのも、「英語の訛りが好きで、曲のなかのちょっとした文化背景に気づける」というようなニッチなもの。そう簡単に気づけるはずがないですよ。だから、最初は流れに任せて動いてみることも大事ですよね。うまくいかなくても、試行錯誤するからこそ、誰にも負けないことが見つかる。挫折はチャンスだと思ったほうがいいです。
ラジオ番組も、なかなか思うようにはいかなかったですよ。当時の日本の洋楽番組は、「このアーティストはフィラデルフィア出身で、この曲はサード・アルバムからのシングルカットで…」と曲を解説するのがお約束だったのですが、僕はラジオで仕事を始めてからそのことを知り、調べればわかることを話して何の意味があるのかと驚きましてね。音楽は勉強じゃないんだから、もっと曲の面白さを伝える紹介や、演出があるんじゃないかという思いがありました。
とはいえ、仕事というのは、自分がやりたいこととは別に、やるべきことというのがあります。やるべきことをやりつつ、やりたいことにいかに近づくか。僕は絶えずその闘いをしてきたような気がしますね。
闘い方は大きくわけて2つあります。1つは制約に真っ向から立ち向かう。曲を解説するというスタイルは同じなんだけど、どんな解説なら曲のイメージを広げるかを想像しながら、自分なりに情報を編集してみるわけです。すると、面白いことに、制約があるからこそ個性が際立つというようなことが起きるんですよ。
例えば、後に僕はテレビ番組『ベストヒットUSA』に出演し、「情報が詰まってますね」というような声もいただいたのですが、あの番組には大きな制約がありましてね。僕が画面に映る部分というのは、カメラの位置も固定で、映像的には代わり映えがしないんですよ。その状態で視聴者が飽きずに話を聴いてくれる時間というのは、僕の経験では20秒。その短い時間で番組がターゲットとする「洋楽ビギナー」にいかに訴求するか。苦しみながら立ち向かった結果が、評価につながったのではと思います。
もう1つの闘い方は、逃げる。周囲を満足させつつ、お決まりのスタイルをあの手この手を使って崩そうとすることです。典型的なのが、ラジオの世界に入って6年目に始めた『スネークマンショー』。この番組は、僕が「スネークマン」というキャラクターを演じつつ、効果音などを使って、教養的な解説なしに自分たちで選んだ音楽を紹介するというコンセプトで始まりました。
ところが、一人でやっているとネタが尽きるんですよ。そこで、当時声優だった伊武雅刀が加わって、ラジオ劇のようなことも始めました。声色を変えて言葉を話すというような、子どもの頃からやっていた遊びが思わぬところで役立つことを知ったのもこのとき。やりたいことに近づけた仕事ですし、新しいことに挑戦し続けることで、表現の幅も広がりました。
真っ向から立ち向かうにせよ、逃げるにせよ、ある仕事を生業として選んだからには、求められることにきちんと答えを返していく。そのうえで、やりたいことをイメージし続けることは大事ですよね。ただ、やりたいことというのはね、なかなか辿り着けないですよ。どうして音楽を説明するのか。音楽というのは本来、ただ聴くだけで、伝わるものじゃないのだろうか。そこで僕がやる仕事の意味は何なのか。いまだに心底納得いく答えは見つからないから、今日も少しだけ昨日とは違うことをしてみる。僕にとって、仕事というのはその繰り返しなんです。
取材・文/泉彩子 撮影/鈴木慶子 デザイン/ラナデザインアソシエイツ