第16回 小林克也 氏
6. 「ベストヒットUSA」の波紋
--最初にラジオを始めた頃はやりたいことできなかったんでしょうけど、「スネークマンショー」ではやりたいことをやりました!って感じですよね。そのあとテレビですね。
小林:そうね。テレビ朝日から話があったのは1980年ぐらいだよね。その頃は、ビデオクリップっていうのが出始めなんですよ。新進のアーティストは作ってたんですよ。日本テレビ「水曜イレブン」では、洋楽を愛川欣也さんと今野雄二さんが紹介してて、すげーかっこいいビデオのクリップが出たりするんですよ、時々ね。「これが今、ニューヨークでなんとかでご覧下さい」って言って紹介するんだけど、もう、ものの30秒ぐらいたったら、愛川さんが「コンちゃんこれが今なんとかなんとか~」ってふって、今野さんがばーって言うわけ。そうすると、ビデオクリップがせっかくあるのに、それを…見せなかったんですよね。しゃべって。
1980年にその話があった時にね、それまで俺テレビに顔出してないし、顔出さなくても十分CMだとかめちゃくちゃ忙しかったりして、なんだかんだ効率よくやってるのに、テレビで効率の悪い仕事なんかしたくないと思って。一応、断れって言ったんですよ。で、俺は絶対やらないって言ってたんだけど、断ってなかったんだよね。
--断ってなかった?
小林:うん。で、最後は、FM東京までみんな押し寄せてきて。こういう番組でこうだこうだって言って。いわゆるビデオクリップを紹介していきたいんだと。
--一つ新しいことをやるぞという意気込みがあの番組の制作陣にありましたよね。
小林:そうそう。だから、これからはまだ、ほら、ビデオテープデッキが普及する前なんだけど、それにあわせて録画するのを狙おうっていうのもあったし。それでだから、MTVより早いんですよね。
--そうなんですか?MTVよりも早いんだ。
小林:早い。最初はほら、ビデオクリップがあんまりなくて、向こうの音楽のショーを買ったりしてたんですよ。東北新社がね。だけど、やり始めて…終わると思ったんだよね、すぐ。たいしたお金もかかってないわけだし、終わるんじゃないかなと思ってたら…テレビ朝日のディレクターかなんかの結婚式かに出た時、隣にビートきよしがいて、そこにテレ朝の偉い人がいて「あの番組な。あれ当分続くよ」「え?」「あれ、なかなかいいんだよ」って言われてね(笑)
--視聴率とれないって最初言われてたんですよね。
小林:当時さ、12チャンネルで、洋楽の番組があったじゃない。それが1%なんだ。よくいって1.5%なんだ。だから、洋楽人口っていうのは、1%強だったんですよ。12チャンネルあたりが取れるのが。ところが、あれスタートしたら3とか、平気でいくんですよ。で、5とかいくし。それで、なんだっけ、ゲストが出たりすると5倍とか3倍とか増えるっていう。レコード会社かなんかが調べたらそうらしいって。そういう影響力があるのがわかって。それでだんだん…8年半、続いちゃったっていう。
--8年半も続いたんですか?確かにうちの会社の女の子とかは、小林克也さんっていうと、とにかく「ベストヒットUSA」って、みんなそれしか言わないですよ。「小中学生の時見てました」って。
小林:やっぱりそうなんだね。
--テレビ朝日系列で全国に放送してましたもんね。
小林:そうそうそう。全国30局ぐらい。
--そこで、小林克也っていう名前が、完全に一般的なものになっちゃったんですよね。それまで業界的の人だったんだけど、あれで一般的なイメージになりましたね。僕らだって顔知らなかったですよ。ラジオやCMで声聞けばすぐわかりますけど、街で会ってもわかんなかった。
小林:あぁ、そうだよね。だから、「ぴあ」の一言みたいなのあるじゃない。「はみだし」?あそこに、「小林克也の顔を初めて見たとき、坂本龍一の声を初めて聞いたときよりもショックだった」とかなんとか書いてあって(笑)
--あははは(笑)
小林:それで「ベストヒットUSA」を石井聰亙っていう監督が見てて「逆噴射家族」っていう小林(よしのり)さんのマンガを映画化する時に「あいつはいい」ってひらめいたらしいんだ(笑)
--ひらめいたのね(笑)それでドラマいっちゃったんですよね。
小林:そうドラマ、映画に入っちゃって(笑)
--とにかく、克也さんは業界の人っていうイメージがあったから、役者になった時はひっくり返りましたよね(笑)
小林:そうだよね。ひっくり返るよね(笑)
--あれは自分でもやってみたかったんですか?
小林:いやあ、引っぱり出されたって形だね。考えたんだけどね。それまでも近いことはやってたな、みたいな。
--「スネークマン・ショー」だってラジオ劇ですよね?
小林:うん。ARBのボーカルの彼、石橋稜が原田美枝子と結婚したんだっけ?。結婚する前ぐらいにね、彼女と飲んだんですよ。もう大ベテランですよね。そん時にね、「映画なんてものはね、テクニックだとか、そんなこと考えたらおしまいよ、ここよ」って言って(笑)(胸を指して)「ここよ」って言われたけど、「ここよ」って言うのは簡単だけど、どういうことなんだろうなって思ってて。まぁ、不安で不安でしょうがなかったけど。やっぱり、「ここよ」っていうのは今頃になってわかるよね。
--やっぱり新しい領域に足を一歩踏み出すっていう時には、克也さんといえども、そういう不安はあるわけですか。
小林:それはあるある。
--だんだん手を広げていって、今やたいがいのことは大丈夫なんでしょう。
小林:だけど、逆に言うとね、何をやるからいいっていうんじゃなくて、誰とやるといいっていうことはあるね。
例えばね、俺が「逆噴射家族」でキレちゃうお父さんやったわけですよ。そうするとテレビでそういう役くるんですよ。やってほしいから。そうすると、もうそこ行ったときには、もう、小さくなるんですよ、やることが。もう守りに入ちゃって。期待されてる通りにやるわけでしょ。そうするとね、やることが小さくなちゃって、おもしろくないんですよ。
--同じ役は受けなかったんですか。
小林:いやいや、けっこう、2~3回やりましたけど。やっぱり、こんなの求めてるんだなって思うと…
--それなりになってしまうわけですよね。
小林:そうそうそう。だから、あんまり楽しくないよね、そういうのって。楽しいっていうのはね、やってる時に楽しい楽しいっていうんじゃなくてね、もうこんなのやめちまいたいなみたいなのがあるんですよ。で、ちょっと後になって振り返ると、あーあれは充実してたな、いいなっていう。だから、ほんとおもしろいですよ。映画なんか終わった時には「こんなのもう2度とやんねーよ」って思うんだけど、またしばらくたって話がくると、やっちゃうんだよね(笑)
--克也さんのチャレンジャー精神は、並々ならぬものがありますよね。
小林:いや、違うって。それはね(いろんなことをやっているように見えても最初は)、誰かが引きずってったりとかね、そういうやつだもん。だって、映画だってそうだし。
--俺は何だってやってやるんだっていう感じでもないんですかね?
小林:そんな感じじゃないんですよ。
小林:そうね。テレビ朝日から話があったのは1980年ぐらいだよね。その頃は、ビデオクリップっていうのが出始めなんですよ。新進のアーティストは作ってたんですよ。日本テレビ「水曜イレブン」では、洋楽を愛川欣也さんと今野雄二さんが紹介してて、すげーかっこいいビデオのクリップが出たりするんですよ、時々ね。「これが今、ニューヨークでなんとかでご覧下さい」って言って紹介するんだけど、もう、ものの30秒ぐらいたったら、愛川さんが「コンちゃんこれが今なんとかなんとか~」ってふって、今野さんがばーって言うわけ。そうすると、ビデオクリップがせっかくあるのに、それを…見せなかったんですよね。しゃべって。
1980年にその話があった時にね、それまで俺テレビに顔出してないし、顔出さなくても十分CMだとかめちゃくちゃ忙しかったりして、なんだかんだ効率よくやってるのに、テレビで効率の悪い仕事なんかしたくないと思って。一応、断れって言ったんですよ。で、俺は絶対やらないって言ってたんだけど、断ってなかったんだよね。
--断ってなかった?
小林:うん。で、最後は、FM東京までみんな押し寄せてきて。こういう番組でこうだこうだって言って。いわゆるビデオクリップを紹介していきたいんだと。
--一つ新しいことをやるぞという意気込みがあの番組の制作陣にありましたよね。
小林:そうそう。だから、これからはまだ、ほら、ビデオテープデッキが普及する前なんだけど、それにあわせて録画するのを狙おうっていうのもあったし。それでだから、MTVより早いんですよね。
--そうなんですか?MTVよりも早いんだ。
小林:早い。最初はほら、ビデオクリップがあんまりなくて、向こうの音楽のショーを買ったりしてたんですよ。東北新社がね。だけど、やり始めて…終わると思ったんだよね、すぐ。たいしたお金もかかってないわけだし、終わるんじゃないかなと思ってたら…テレビ朝日のディレクターかなんかの結婚式かに出た時、隣にビートきよしがいて、そこにテレ朝の偉い人がいて「あの番組な。あれ当分続くよ」「え?」「あれ、なかなかいいんだよ」って言われてね(笑)
--視聴率とれないって最初言われてたんですよね。
小林:当時さ、12チャンネルで、洋楽の番組があったじゃない。それが1%なんだ。よくいって1.5%なんだ。だから、洋楽人口っていうのは、1%強だったんですよ。12チャンネルあたりが取れるのが。ところが、あれスタートしたら3とか、平気でいくんですよ。で、5とかいくし。それで、なんだっけ、ゲストが出たりすると5倍とか3倍とか増えるっていう。レコード会社かなんかが調べたらそうらしいって。そういう影響力があるのがわかって。それでだんだん…8年半、続いちゃったっていう。
--8年半も続いたんですか?確かにうちの会社の女の子とかは、小林克也さんっていうと、とにかく「ベストヒットUSA」って、みんなそれしか言わないですよ。「小中学生の時見てました」って。
小林:やっぱりそうなんだね。
--テレビ朝日系列で全国に放送してましたもんね。
小林:そうそうそう。全国30局ぐらい。
--そこで、小林克也っていう名前が、完全に一般的なものになっちゃったんですよね。それまで業界的の人だったんだけど、あれで一般的なイメージになりましたね。僕らだって顔知らなかったですよ。ラジオやCMで声聞けばすぐわかりますけど、街で会ってもわかんなかった。
小林:あぁ、そうだよね。だから、「ぴあ」の一言みたいなのあるじゃない。「はみだし」?あそこに、「小林克也の顔を初めて見たとき、坂本龍一の声を初めて聞いたときよりもショックだった」とかなんとか書いてあって(笑)
--あははは(笑)
小林:それで「ベストヒットUSA」を石井聰亙っていう監督が見てて「逆噴射家族」っていう小林(よしのり)さんのマンガを映画化する時に「あいつはいい」ってひらめいたらしいんだ(笑)
--ひらめいたのね(笑)それでドラマいっちゃったんですよね。
小林:そうドラマ、映画に入っちゃって(笑)
--とにかく、克也さんは業界の人っていうイメージがあったから、役者になった時はひっくり返りましたよね(笑)
小林:そうだよね。ひっくり返るよね(笑)
--あれは自分でもやってみたかったんですか?
小林:いやあ、引っぱり出されたって形だね。考えたんだけどね。それまでも近いことはやってたな、みたいな。
--「スネークマン・ショー」だってラジオ劇ですよね?
小林:うん。ARBのボーカルの彼、石橋稜が原田美枝子と結婚したんだっけ?。結婚する前ぐらいにね、彼女と飲んだんですよ。もう大ベテランですよね。そん時にね、「映画なんてものはね、テクニックだとか、そんなこと考えたらおしまいよ、ここよ」って言って(笑)(胸を指して)「ここよ」って言われたけど、「ここよ」って言うのは簡単だけど、どういうことなんだろうなって思ってて。まぁ、不安で不安でしょうがなかったけど。やっぱり、「ここよ」っていうのは今頃になってわかるよね。
--やっぱり新しい領域に足を一歩踏み出すっていう時には、克也さんといえども、そういう不安はあるわけですか。
小林:それはあるある。
--だんだん手を広げていって、今やたいがいのことは大丈夫なんでしょう。
小林:だけど、逆に言うとね、何をやるからいいっていうんじゃなくて、誰とやるといいっていうことはあるね。
例えばね、俺が「逆噴射家族」でキレちゃうお父さんやったわけですよ。そうするとテレビでそういう役くるんですよ。やってほしいから。そうすると、もうそこ行ったときには、もう、小さくなるんですよ、やることが。もう守りに入ちゃって。期待されてる通りにやるわけでしょ。そうするとね、やることが小さくなちゃって、おもしろくないんですよ。
--同じ役は受けなかったんですか。
小林:いやいや、けっこう、2~3回やりましたけど。やっぱり、こんなの求めてるんだなって思うと…
--それなりになってしまうわけですよね。
小林:そうそうそう。だから、あんまり楽しくないよね、そういうのって。楽しいっていうのはね、やってる時に楽しい楽しいっていうんじゃなくてね、もうこんなのやめちまいたいなみたいなのがあるんですよ。で、ちょっと後になって振り返ると、あーあれは充実してたな、いいなっていう。だから、ほんとおもしろいですよ。映画なんか終わった時には「こんなのもう2度とやんねーよ」って思うんだけど、またしばらくたって話がくると、やっちゃうんだよね(笑)
--克也さんのチャレンジャー精神は、並々ならぬものがありますよね。
小林:いや、違うって。それはね(いろんなことをやっているように見えても最初は)、誰かが引きずってったりとかね、そういうやつだもん。だって、映画だってそうだし。
--俺は何だってやってやるんだっていう感じでもないんですかね?
小林:そんな感じじゃないんですよ。
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