戦後70年毎日新聞社
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数字は証言する データで見る太平洋戦争

第2回 神風は吹いたのか? 4000人が死んだ「特攻」

70年前の1944年10月25日、日本海軍の「神風特別攻撃隊」が初めて、米海軍艦艇に突入した。国力で10倍以上の差があると言われた米国に戦争を挑んでから、既に3年目。数と数がぶつかり合う近代の消耗戦は、日本の限りある人的・物的資源を消耗し、連合国との戦力差は開いていくばかりだった。こうした状況の中、採用された特攻は、生きては戻れない「十死零生」の作戦のため「統率の外道」とされながら、日本陸海軍の主要な戦術となっていく。航空機だけでも、約4000人が戦死したとされる特攻戦術。命中率(成功率)11%とされた中で、どのような戦果を上げたのか。データをひもといてみた。【高橋昌紀/デジタル報道センター】

※特攻は戦死を前提として攻撃する戦術で、航空機以外にも高速艇や魚雷を使った作戦も実行されました。ここでは航空機を使った作戦にしぼっています。

特攻の命中率 終戦直前は9機に1機の11%

本土決戦を前に海軍が算出した特攻機の予期命中率
(対機動部隊)

出典:戦史叢書

初陣戦果に「有効性」思い込んだ海軍

初めての神風特攻隊は在フィリピンの第一航空艦隊(一航艦)司令長官、大西瀧治郎・海軍中将が編成し、海軍最後の艦隊決戦となったフィリピン・レイテ沖海戦に投入された。関行男大尉を隊長とする敷島隊計5機が1944年10月25日、米海軍の護衛空母「セントロー」(7800トン)を撃沈。他の3隻に損傷を与えた。初陣での破格の戦果に、海軍は戦術としての特攻の有効性を信じた。防衛庁防衛研修所戦史室(現在の防衛省防衛研究所戦史部)が編さんした戦史叢書によると、一連の「比島特攻作戦」で海軍は436機、陸軍は243機が出撃。成功率は約27%だったという。

この数字は高いのか、低いのか。目標に向かって急降下しながら爆撃する「急降下爆撃」という戦術はもともと、従来の水平爆撃以上の命中率を得るために編み出された。開戦時の真珠湾攻撃で、一航艦(南雲機動部隊)の九九式艦上爆撃機は急降下爆撃で命中率58.5%を上げている。42年4月のインド・セイロン沖海戦では、英東洋艦隊の空母「ハーミズ」に対して命中率89%を記録。史上初めて空母機動部隊同士が激突した42年5月の珊瑚(さんご)海海戦で、日本軍は米空母「レキシントン」に命中率53%、米軍は空母「祥鳳(しょうほう)」に命中率32%の戦果を残している。そうした数字と比べて、レイテ沖海戦時の特攻成功率は特に高い数字というわけではない。

艦艇に対する急降下爆撃の命中率

日本軍

米軍

出典:戦史叢書など

命中率は次第に低下、沖縄戦では7.9%

しかも特攻戦術による命中率は次第に低下していく。軍事史研究家の故・小沢郁郎氏は自著「つらい真実 虚構の特攻隊神話」(同成社)で、出撃機数や米海軍の被害統計などを精査。フィリピン戦期(1944年10月~45年1月)は23.5%だった命中率が、沖縄戦期(45年3月~終戦)は7.9%に低下していたと算出した。

特攻機命中率の推移

フィリピン戦期:1944.10~45.1 / 沖縄戦期:45.3~終戦 / 出典:「つらい真実 虚構の特攻隊神話」

機材も命も、すべてを失う「十死零生」の消耗戦

本土決戦に備える海軍は太平洋戦争末期、特攻機の予期命中率を算出している。沖縄戦を戦訓に、対機動部隊で9分の1、対上陸船団で6分の1と見積もった。本土南西部に来攻する米上陸軍第1波(約10個師団)の輸送船を約1000隻と予測し、作戦を頓挫させるためには半数の撃沈が必要と判断。予期命中率などに基づき、航空機5000機の整備が必要とした。

命中率が9分の1、すなわち約11%に落ちた理由は

  1. 搭乗員の技量低下
  2. 特攻機材の性能低下
  3. 米軍の対策向上

などが挙げられる。ただし、仮に命中率が2割台を維持できたとしても、「九死に一生」もない「十死零生」の特攻戦術においては、出撃した搭乗員・機材の全てが失われることに変わりはなかった。それは戦力の消耗でしかなく、その先にあるのは戦争遂行能力の破綻でしかなかった。

「体当たりなんて…日本は終わり」特攻1号の関大尉

全軍の模範となる「特攻第1号」として、海軍兵学校出身の関行男大尉は特に選抜された。戦死後は2階級特進し、「軍神」となった。一方で、出撃前にこう慨嘆していたという。

「通常攻撃でも爆弾を命中させる自信がある。そんな僕に体当たりを命じるなんて、日本は終わりだ」

劣勢で次々失った熟練パイロットたち

日本軍(海軍)パイロットの技量

出典:戦史叢書 / 1945年3月10日時点

速成の搭乗員がほとんどに 技量不足で特攻採用

特攻戦術が採用された背景として、熟練の航空機搭乗員の減少がある。零式艦上戦闘機(ゼロ戦)をはじめとする日本機は戦果を上げる一方で、その防弾性能の低さから、損害も増加させた。太平洋戦争は1942年8月にガダルカナル島の戦いが始まると航空消耗戦となり、逐次投入で貴重な戦力を消尽させていった。42年10月の南太平洋海戦では出撃216機のうち、約6割の130機を失ったとされる。

連合艦隊は翌43年4月の「い号作戦」終了後の研究会で、戦闘機の日米の実力差は開戦時には6対1とリードしていたが、同作戦では1対1くらいとほぼ並んだと判定した。戦史叢書によると、開戦時の海軍搭乗員約7000人のうち、44年3月時点では既に6割近く、約3900人が戦死していたという。

主力である第一、第三、第五の各航空艦隊に所属する搭乗員(偵察員を含む)計2661人について、沖縄戦直前の45年3月10日時点でまとめた技量の資料が表である。約4割の1180人は要錬成の「技量D」で、飛行教程を終えて3カ月未満の技能では、作戦可能とはいえなかった。このクラス分けも44年9月1日に改正されたもので、開戦前までは「技量A」と認定されるのに飛行教程終了後2年9カ月程度の期間が必要だった。「技量C」も、飛行教程終了後9カ月とされていた。

この開戦前の基準を当てはめると、沖縄戦当時の搭乗員の実態は、ほとんどが「技量D」だったことになる。実際に当時の事故統計によると、計139件のうちの計101件が「人員ニ起因スルモノ」であり、技量の未熟さが関係するものと思われる。

  1. 戦力を埋めるため、錬成途上の搭乗員を逐次投入する
  2. 技量未熟の搭乗員は生還率が低く、戦果も上げられない
  3. 損害ばかりが多くなり、搭乗員も不足する

海軍は自ら、そうした消耗戦の悪循環に陥っていった。「海軍特攻の父」とされる大西瀧治郎中将は「通常の攻撃では米機動部隊に損害を与えられない」と特攻戦術を正当化した。ただし、そうした戦況を招いた責任は、作戦指導を誤った軍当局にあると言えるだろう。

練習機や偵察機など低性能の機体も苦し紛れ投入

爆装した零式艦上戦闘機(ゼロ戦)により、特攻作戦は開始された。搭乗員は志願制を建前としたが、華々しい戦果が伝えられるとともに恒常化。あらゆる機体が投入されることになる。

特攻機の機種別の機数(1945年3月17日~7月3日)

出典:「陸軍航空特別攻撃隊史」

沖縄戦などがあった1945年3~7月に投入された陸海軍機計1813機のうち、約3割(計536機)がそもそも実際の戦闘には向かない偵察機・練習機、旧式戦闘機などが占めた。もともと低速・低馬力なうえに無理に爆装したため、運動性能はさらに低下した。

高速の戦闘機であっても、爆装すれば同様の影響は免れない。爆撃機・攻撃機は爆弾・魚雷の搭載能力を持っていたが、空戦には当然適していなかった。しかも

  • 熟練工の不足、工作精度の低下による新造機の性能劣化
  • オクタン価の低い劣悪な航空燃料の使用

などで、スペック通りの性能を発揮することも難しかった。いずれにしても、米戦闘機に追尾されれば振り切ることは不可能に近かった。

それでも、軍は特攻戦備に突き進んだ。神風特攻隊の初投入を目前にした44年9月には、特攻専用機である〝人間爆弾〟「桜花」の量産を開始。海軍は特攻専用機の要件に

  • 資材を節約できること
  • 訓練が容易なこと
  • 燃料を節約できること

などを挙げた。45年7月に初飛行を成功させた日本初のジェット機である「橘花」でさえ、本土決戦での特攻作戦に使用する計画だった。

機種別最高速度

飛行機のシルエットにマウスを重ねると、機体の詳細が表示されます。

機種別最高速度

零式艦上戦闘機530km/h

零式艦上戦闘機

大戦を通しての海軍の主力。開発した三菱重工が3880機、中島飛行機が6545機を生産した。増槽(外部燃料タンク)の代わりに爆弾を搭載でき、戦闘爆撃機としても運用された。名称の由来は皇紀2600(1940)年の採用のため。

四式戦闘機 疾風624km/h

四式戦闘機 疾風

中島製の陸軍機で、愛称「疾風(はやて)」。最優秀の日本機とされ、「大東亜決戦機」と期待された。戦後の米軍によるテスト(米軍用ハイオクタン価ガソリンなど使用)では、日本のカタログ性能を上回る速度を記録したという。

一式陸上攻撃機430km/h

一式陸上攻撃機

海軍の主力双発攻撃機。特攻専用機「桜花」を機体下の爆弾倉に積み込み、特攻出撃した。燃料タンクなどの防弾性能が低いために火を噴きやすく、あだ名は「ワンショットライター」。多くが桜花と共に撃墜された。

桜花650km/h

桜花

固体ロケットを推進動力とする通称「人間爆弾」。航続距離が短いため、母機が必要だった。母機は低速にならざるをえず、最初の出撃部隊(母機・一式陸攻18機)は全滅。連合軍は「BAKA(ばか)」というコードネームをつけた。

彗星艦上爆撃機560km/h

彗星艦上爆撃機

「九九棺桶(かんおけ)」とあだ名されるほど旧式化した九九式艦爆に代わり、海軍の主力となった。期待の高速機だったが、海軍は特攻に投入。宇垣纒中将も同機で出撃した。美濃部正少佐の「芙蓉部隊」の使用機でもある。

九八式直協偵察機348km/h

九八式直協偵察機

陸軍機。皇紀2598(1938)年に採用された。固定脚で操縦性に優れ、練習機にも使用された。主任務は低速性能を生かした偵察・観測であり、敵機との空中戦や敵艦艇の爆撃にはもちろん、適していない。

練習機 白菊225km/h

練習機 白菊

海軍で使用された練習機。固定脚で主翼は木製だった。海軍は特攻用に250キロ爆弾を装着、航続距離を延ばすための燃料タンクなどを増設し、性能は大幅に低下した。同機の特攻部隊には俳優の故・西村晃、裏千家十五代家元の千玄室氏も配属された。

米軍 F4U670km/h

米軍 F4U

逆ガル・タイプの主翼が特徴。愛称「コルセア」。零戦の2倍となる2000馬力級のプラット・アンド・ホイットニー社製エンジンを搭載した。ちなみに三菱重工業の子会社が開発を進める国産ジェット旅客機「MRJ」のエンジンも同社製。

米軍 F6F610km/h

米軍 F6F

愛称「ヘルキャット」。偶然に捕獲した零戦を徹底的に研究し、開発の参考にした。海軍の主力 艦上戦闘機で、約1万2000機を生産。高馬力、頑丈かつ操縦性の良さなどから、搭乗員からは「料理ができれば結婚したい」と好まれた。

米軍 P51700km/h

米軍 P51

史上最高のレシプロ(エンジンの)戦闘機と言われる。朝鮮戦争(1950年~)ではソ連製ジェット戦闘機を撃墜した例もある。愛称「マスタング」。優れた航続性能で長距離侵攻する爆撃機を護衛し、戦略爆撃の成功に貢献した。

E5系新幹線320km/h

E5系新幹線

JR東日本が2011年3月に営業運転を開始。東北新幹線(東京―新青森)では「はやぶさ」の愛称で、最高速度320キロを実現した。製造メーカーの一つ、川崎重工業は戦時中、陸軍の三式戦闘機「飛燕」、五式戦闘機などを開発した。

零式艦上戦闘機

海軍の特攻の主力となった零式艦上戦闘機。試作の「十二試艦戦」に始まり、機体形状、搭載エンジンなどの異なるさまざまなタイプが生まれた。ただし、大戦後期になるにつれ、空戦性能を左右するエンジンの馬力不足は致命的だった。最多生産の「52型」(1943年~)に搭載された中島飛行機製「栄二一型」(1100馬力)は、最初期の「11型」(1939年~)の「栄一二型」(950馬力)と比べ、性能的にほとんど変わらなかった。

終戦までに零戦の開発・生産は続き、1945年度の海軍機生産総数2840機のうち、零戦は最多の1039機(約36.6%)を占めた。それは設計主務者、堀越二郎の基礎設計の確かさの証しであったが、零戦に代わる主力戦闘機を開発・生産できなかった戦時における日本の航空技術の限界を示している。

零式艦上戦闘機 21型
略号A6M2b
翼幅12.00m
自重1680kg
発動機中島飛行機製「栄一二型」950馬力
最大速度288ノット(533km)
製造メーカー三菱重工業、中島飛行機
初号機完成1940年

画像をマウスドラッグ(←→)すると360度回転します / イメージは主に21型をモデルに作成

正規空母、戦艦、巡洋艦は一隻も撃沈できず

沖縄戦の米海軍警戒網

レーダーピケットの位置 / 出典:戦史叢書

米海軍、最新レーダーで特攻を無効化

米海軍は最新の科学技術、効率的な組織運用により、特攻戦術を無効化していった。精神主義の日本軍は物量だけでなく、米軍の合理主義にも敗れ去った。

特攻機の主目標は大型の正規空母(2万~4万トン級)を中心とする機動部隊。その外周部に、米軍は対空捜索レーダーを搭載した駆逐艦「レーダーピケット艦」による早期警戒網を設け、日本の攻撃隊を感知。空母の戦闘機隊で迎撃した。

迎撃網を突破した日本機に対しては、輪形陣を組んだ護衛艦艇の対空砲火が待ち受けていた。距離、高度、方位、速度を測定できる対空射撃指揮レーダーと連動。さらに一部の砲弾は最新の「近接(VT)信管」を装備していた。信管が電波を発し、敵機を感知すると砲弾を破裂させるため、直撃する必要はなかった。

こうしたシステムを統制したのが空母などに設置したCIC(戦闘情報センター)だ。ピケット艦の情報などを分析し、効率的に戦闘機隊を差し向けた。1945年5月の戦況について、米太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ提督は「神風の脅威を自信を持ってはね返すところまで来ていた」と記す。

衝撃力弱く「無意味さ」認識していた大本営

特攻隊は正規空母はもちろん、戦艦、巡洋艦も実際に沈めることができなかった。撃沈した護衛空母は1万トン足らずと正規空母の半分の大きさで、量産性に優れていたため「ウイークリー空母」「ジープ空母」などと呼ばれる代物だった。

米軍は「ダメージコントロール」能力にも優れていた。艦艇には専門の「ダメージコントロール」部隊を配置したり、自動消火設備を装備したりするなど、被害を最小限に食い止めた。たとえ撃破されても、沈没を免れれば造船工場での修復が可能だった。沖縄戦には正規・軽空母16隻、戦艦23隻、護衛空母28隻、巡洋艦39隻、駆逐艦205隻などを投入(「世界の艦船」803号より。雨倉孝之氏調べ)。開戦後の被害艦艇は後方に下げる一方で、艦隊編成に穴が開かないよう工夫していた。例えば、護衛空母は常に18~20隻が第一線に配置される態勢だったという。

米艦被害の実態は特攻機の命中率の低さに加え、体当たりの衝撃力の弱さも影響している。空中投下する爆弾に比べ、航空機の突入速度は遅い。大本営もそれは認識しており、1945年5月には「現有特攻機の装備と攻撃法では貫徹力不十分等のため、大型艦に対しては致命的打撃威力を発揮できないと認められる」と関係幹部らに通知し、対策を求めた。しかし、それでも、特攻は終戦まで続けられた。

特攻機による米艦船被害

出典:「つらい真実 虚構の特攻隊神話」などを基に作成

特攻を否定していた最前線の搭乗員

上層部を批判、作戦拒否し生き抜いた者も

「統率の外道」とされた特攻戦術に、前線の搭乗員らは否定的な見方をしていた。

当時の最前線の雰囲気はどうだったのか。「大空のサムライ」として知られ、64機撃墜のエースだった坂井三郎氏(故人)は戦後、加藤寛一郎・東大名誉教授(航空宇宙工学)のインタビューに答えている。「士気は低下した。大義名分のもとに帰還する確率が、たとえ1万分の1でもあるから士気が上がるんです。大本営と上の連中は上がったと称する。大うそつきです」

海軍のエース、菅野直大尉(1945年8月戦死)はフィリピンで特攻待機の上官命令に逆らい、「行く必要なし」と部下を押しとどめた。陸軍の佐々木友次伍長(ごちょう)は特攻出撃したが、生還した。ところが大本営が「戦死」と発表。それ以降、「特攻しろ」との参謀らの非難にさらされ続けた。「殺すことばかりを考えている」と上層部を批判した佐々木伍長は、通常攻撃を続け、戦争を生き抜いたという。

海軍の美濃部正少佐は夜襲専門の「芙蓉部隊」を創設。用兵次第では通常攻撃がまだ有効であることを証明した。練習機による特攻を提示した参謀らに対し、美濃部少佐は下の階級にもかかわらず「成算があるというのなら、ここにいらっしゃる方々がそれに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦1機で全部撃ち落してみせます」と叱責した。

司令官らはどうしたか。一航艦司令長官から軍令部次長に昇任していた大西瀧治郎中将は終戦を迎えると自決。五航艦司令長官の宇垣纏(まとめ)中将は45年8月15日、部下を率いて沖縄方面へ特攻出撃した。二航艦司令長官などを務めた福留繁、軍令部で特攻作戦を推進した黒島亀人の両提督、陸軍で特攻を指揮した富永恭次、菅原道大の両将軍は戦後を生き抜いた。

航空特攻による戦死者 3848人

出典:特攻隊慰霊顕彰会編「特別攻撃隊」、防衛大学校(2014年4月時点)

特攻隊員の7割は学徒出身だったと言われる。高学歴で速成教育に適していたからだが、彼らは欧米の思想、文学などに親しんできた者も多かった。

陸軍の上原良司大尉(慶大経済学部、1945年5月戦死)もその一人。自由の偉大さは証明されつつあるとして、出撃前夜に書き残した。「(権力主義の国家は)必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。我々はその真理を、今次世界大戦の枢軸国家において見る事が出来ると思います」「自己の信念の正しかった事、この事はあるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが、吾人にとっては嬉(うれ)しい限りです」

「特攻は日本の恥部、美化は怖い」
保阪正康さんインタビュー

インタビューに答える評論家の保阪正康さん=東京都千代田区で2014年10月15日、内藤絵美撮影

特攻とは何か。青年期に読んだ特攻隊員の遺書が自身の執筆活動の原点というノンフィクション作家、保阪正康さん(74)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】

「海軍のバカヤロー」と叫んだ軍神

ある元海軍参謀にインタビューをした際、戦時中の個人日誌を読ませてもらったことがあります。特攻隊についての記述があり、「今日もまた、『海軍のバカヤロー』と叫んで、散華する者あり」と記してありました。部外秘の文字も押されて。この元参謀によると、特攻機は離陸した後はずっと、無線機のスイッチをオンにしているそうなんですよ。だから、基地では特攻隊員の〝最後の叫び〟を聴くことができた。「お母さーん」とか、女性の名前もあったそうです。「大日本帝国万歳」というのはほとんどなかった。ところが、そうした通信記録は残っていない。故意に燃やしてしまったに違いありません。〝軍神〟が「海軍のバカヤロー」と叫ぶ。それは当局にとって、隠蔽(いんぺい)すべきことだったでしょうから。

高校時代に「きけわだつみのこえ」を読みました。それが特攻隊について、考えるようになった契機です。その後、生き残りの隊員や遺族らに取材を重ねてきました。学徒出陣した上原良司氏(陸軍大尉。1945年5月、沖縄で戦死)の妹さんは、兄と仲間たちの会話を手帳に残していました。彼らは...

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参考文献

  • 「つらい真実 虚構の特攻隊神話」 小沢郁郎
  • 「戦史叢書 沖縄方面海軍作戦」 防衛庁防衛研修所戦史室
  • 「戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊」 防衛庁防衛研修所戦史室
  • 「戦史叢書 海軍軍戦備」 防衛庁防衛研修所戦史室
  • 「戦史叢書 海軍航空概史」 防衛庁防衛研修所戦史室
  • 「特攻」 森本忠夫
  • 「『特攻』と日本人」 保阪正康
  • 「本土決戦幻想 コロネット作戦編」 保阪正康
  • 「本土決戦幻想 オリンピック作戦編」 保阪正康
  • 「陸軍航空特別攻撃隊史」 生田惇
  • 「陸軍特別攻撃隊」 高木俊朗
  • 「ドキュメント神風 特攻作戦の全貌」 デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー
  • 「あゝ神風特攻隊」 安延多計夫
  • 「神風特別攻撃隊の記録」 猪口力平、中島正
  • 「零戦」 堀越二郎、奥宮正武
  • 「零戦の秘術」 加藤寛一郎
  • 「世界の艦船」 海人社
  • 「世界の戦闘艦艇図鑑」 学研
  • 「特攻とは何か」 森史朗
  • 「日本海軍史」 海軍歴史保存会
  • 「ニミッツの太平洋海戦史」 C・W・ニミッツ、E・B・ポッター
  • 「戦藻録」 宇垣纏
  • 「大日本帝国の興亡」 ジョン・トーランド など
編集
高橋昌紀、平野啓輔、佐々本浩材、高添博之、編集編成局校閲グループ
デザイン
清田万作、デジタルメディア局戦後70年チーム

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