20141023 「MIKUEXPO NY」後方からのライブ報告 ![このエントリーを含むブックマーク このエントリーを含むブックマーク](http://megalodon.jp/get_contents/186103151)
中学生の頃からロックキッズだった僕にとってNYは憧れの街だった。まずなによりも70年代の中頃に輝きを放ったNYパンク、その中でもテレヴィジョンとパティ・スミスは別格で、彼らの1stアルバムである「マーキームーン」と「ホーセス」はそれこそ(もうCD時代だったけど)すり切れるくらい聴いた。タイトでシャープな演奏と熱いのか冷たいのか分からない鼻にかかった歌唱は当時「ロックはヘヴィメタしか認めない」と意気がっていた僕の青臭い主義と感性に揺さぶりをかけ、「ヘヴィーメタルと違って音は細くて簡素なのに何故こんなにも”過激”に聴こえるのだろう。いったい音楽って何だろう?」と今に至るグッド・ミュージック探究の端緒となった。
小学生の頃に好きだった歌謡曲、そして当時流行っていたヘヴィメタで僕の音楽遍歴が終わっていたら、「ポップスやロックはキッズやティーンの音楽だよ。もうオジサンの自分とは縁がないね」と余裕かましてひとり悦にひたるクソな大人になっていただろう。「マーキームーン」と「ホーセス」はいま聴いても中学生の頃と同じ感動がある。そして「グッドミュージックって何だろう」と今でも考えさせる力がある。
初音ミクの発売元クリプトンが主導して開催しているMIKUEXPO、インドネシアに次ぐ開催地がLAとNYだと知った時、僕はLAはともかくNYは時期尚早ではないかと思った。特にセットリストと映像演出が「ミクパ」ベースというのは明らかにNY向きではないのではないか。はっきり言ってしまえば、ミクパはキッズやティーン向けであり、NYを大人の街とするならば、それではマッチしないのは目に見えている。もっと大人が楽しめる映像演出やセットリストを固めてからNYへ進出すべきではないか、と思った。結果的にこの僕の読みは、半分は杞憂に終わり、半分は的中した。
ライブ会場であるハマースタイン・ボールルームはマンハッタン・センターという建物の中にあり、数々の劇場やホールが集まるブロードウェイのど真ん中にあるわけではないけれど、繁華街にあり、アクセスは良好で、当然ながら治安も全く問題ない。元々はオペラハウスなので天井は高く、ホールの両サイドにはバルコニー席がある。そして特徴的なのはバーカウンターがホール内にあるということだ。ホール後方から入場するとまず広めのバースペースとカウンターがあり、そこから一段下がってスタンディングフロアがある。つまり客は酒を飲みながらバースペースでもライブを楽しむことができる。疲れたら休憩もできる。
このバースペースこそ今回のNYライブで、その成否が如実に表れる重要な場となった。バースペースの風景は「ライブは水もの」を証明するかのように初日と二日目でガラリと変わった。
公演初日。客入りは7〜8割ほど。観客席は三階まであり、全体のキャパは3500人ということだが、二階席のほとんどは関係者や招待客に割り振られていたため、パッと見2000人くらいの客入りに見えた。フロアも前方はともかく、後方は人と人との間にスペースがあった。
客層は幅広かった。これは金曜日の20時30分スタートが影響してのことと思われる。終了時間が22時を過ぎるとなれば、親の許可が必要なキッズやティーンはまず来れない。来れたとしてもその日のうちに帰宅可能なマンハッタン島を中心とするNY市在住者に限られただろう。そのせいもあってか会場内の年齢層はバラバラで、熱狂的な若いファンがいれば、そこそこ興味はある程度の若くないファン、子供の付添で来た30〜50代の母親、何となく話題になっていたので思わず来てしまったスーツ姿の社会人などなど様々なタイプの客が目に付いた。だから初日は会場内の熱量にかなりバラつきがあったと言える。前方はもちろん熱い。念願だったミクを自分の目で拝めるのだ。熱くならないわけがない。一方後方、特にバースペースの客は様子見がほとんどだった。
ライブが始まると、前方は当然ながらノリノリである。いまここで興奮しなければいつするんだといった切迫感と共にどんどんヒートアップしていく。曲に合わせてサイリウムを振る光景はまるっきり日本と同じものだ。後方も映像技術に感心しつつ、じっとステージを見つめている客がほとんどだった。「なるほどこれが噂に聞く初音ミクのライブか。たしかに凄いじゃないか。アメイジングじゃないか」といった感じでライブに対する集中力と熱量はかなり高い水準にあったと思う。
しかしである、5曲目くらいからダレはじめる。映像に対して慣れてくると同時に興味も薄れ、開演当初にあった集中力と熱量はじりじりと下がり始める。開演前の平静状態に戻ってしまったか。こうなると必然的にライブに飽きてくる。今までステージを見つめていた客がひとりふたりと腰を下ろせるスペースを探し求め、そこに落ち着き始める。子供の付添でやってきた母親はグループをつくりライブとは関係ない談笑を始める。バーカウンターの内側で働いているスタッフは「奇妙な音楽の日に当番になっちゃったな」と諦めの表情で渋々とドリンクを注いでいる。社会人カップルは二言三言バーカウンターのスタッフと対話し、苦笑しながらホールから外へと出ていく。たぶん帰ったのだろう。共通しているのは皆、ステージへの興味を失っているということだった。「おいおい、このキッズショーはいったいいつまで続くんだい」と心の中で苦々しく唱えているように僕には見受けられた。
もちろんこれらは表情や身振り手振りからからの推測にすぎない。だが大方間違っていないと思う。なにより僕自身が「うんざり」な心境になっていた。僕にはたしかに「慣れ」があるけれども、それだけが原因ではないと思う。
今回のライブ、まず演出に細かいけれど致命的な問題点があった。ミクやリンレンの姿が曲が終わる度にすぐ消えるのである。そして次の曲が始まるまでに5秒から10秒くらいの間があり、再度登場を繰り返す。この演出は熱狂的なファンには気にならないかも知れないけれど、それほどでもないファンにとっては非常に気に障るものだった。なぜなら一度上がったテンションがこの間によって下げられるからである。つまりその度に素に戻ってしまう。テンションを高いレベルで維持することができない。ライブに没入することができない。初音ミクのライブに絶対不可欠な魔法がかからない。これではかかってもすぐに解けてしまう。
そしてやはりというか、音楽がNYの大人にはマッチしなかった。ステージ上のモニターにどれだけド派手な映像演出をかまそうとも、人の気分をアゲるのは音楽の力である。開演当初は映像の力で引っ張れる、しかし中盤以降は音楽の力がものをいう。何にでも反応してくれる熱いファンはともかく、そうでない人にとって音楽に反応できないのはライブに参加できないことを意味する。これは言語の問題ではない。やはりリズム、ビートの問題だろう。サイリウムを振ることに熱心ではない後方の客は、終始ノリノリだった謎のオバサン1人を除いて、じっと立ち尽くしているか、座っているかのどちらかで、身体のどの部分もまったく動いていなかった。反応がないのである。
そのような冷めた状況に身を置いていたせいもあるけど、バンドの演奏も初日はいまいち噛み合っていないように聴こえた。気合が空回りし、勢いはあれど、全体的にバラバラの感があった。また会場の音響のせいなのか、ミックスのせいなのか不明だが、ミクの歌唱が終始割れ気味で、オケの中に埋没しているように感じられた。良くも悪くも耳をつんざくミク声の力強さは消えていた。二日目は力強さが戻っていたが、ミキサー卓の設定は何も変えていないかも知れない。単に僕にはそう聴こえただけなのかも知れない。だがそう聴こえてしまうほど、いやアラを探してしまうほど、テンションが下がっていたのは事実である。
「このままNYのライブはなんとも微妙な出来に終わるのかなあ」と半ば諦めていたライブ終盤、ちょっとした奇跡が起きる。巡音ルカが登場し「Just Be Friend」がかかった瞬間、バースペースに熱が少しずつ戻り始める。ハネるビートに反応し、腰と膝が小刻みに震え、身体が揺れだす。地蔵のように座り込んでいた人たちも足でリズムを取り出す。バーカウンターの男性スタッフのひとりが「この曲はグッドじゃないか」とサムアップしながら同僚の女性に話しかける。女性は「そうっすかあ」とつれない様子だったけど、男性は小さくダンスステップを刻み続ける。最初からノリノリだったご婦人のひとりは、この曲でさらに派手なダンスをぶちかます。
これで熱が戻り、続く有名曲の連打でそこそこに盛り上がり、フィナーレの「スターダスター」ではおそらくではあるが、かろうじて「退屈な時間もあったけど見に来て損はなかった」くらいのギリギリの満足感を与えることができたのではないかと思われる。
これが僕が体感したMIKUEXPO NYの初日。僕以外の人には全く異なる風景が見えていたかも知れない。「会場全体が大興奮だったよ」と熱く語る人もいるだろう。たしかに終演後も会場内の熱は冷めやらず、物販には客が殺到しセキュリティが慌て、会場の外ではバッタもんポスターが5ドルで違法に販売され、よく売れていた。熱いファンは十分に満足しているように見えた。しかし、そうでない人にとって、果たしてグッドミュージック、グッドライブだったのかどうかは、かなり微妙なところだったと思う。
僕自身は終演後、二日目のチケットは手放してもいいかなと思うまでになっていた。でも他人の感想でNY公演を振り返るくらいなら、二日目も自分で体感したほうがいいと思い直した。それに熱いファンは満足しているではないか。出来の悪いライブでは決してないのだ。
黒人のバッタ屋を激写
二日目。初日は後方から、二日目は前方で参戦と以前から決めていたので、開場30分後くらいに現地に着く。初日の感覚だとこれでそこそこ良い位置はキープできるはずと踏んでいた。しかしである、現地に着いて驚いた。入場を待つ長蛇の待機列ができているのである。具体的にいうと会場であるハマースタイン・ボールルームは大通りから一本入った通りの中ほどあるのだが、待機列は大通りにまで届き、そこから右に折れて、さらにその先へと伸びていた。セキュリティが大声で列を整理し、道行く人は「なになに、いったいこれは何の行列?」と立ち止まる。ちょっとした騒ぎになっていた。
客層は昨夜に比べティーンの割合が大幅に増した。開演が土曜日の19時30分ということで、親の許可を取り付けたティーンが大量に押し寄せたのだろう。遠方からのファンも金曜夜は無理でも、土曜日なら一日かけてNYまで辿り着くことができる。その結果か、二日目は相当に熱いファンがNYに大集結した印象を受けた。
なによりホールに入場した瞬間から空気が昨日とまったく違う。完全に出来上がっている。お笑い芸人的にいうと「なにをやってもウケる」上客しかいない状態。スベる気がまるでしない。それにホールの人口密度が昨日とは比べものにならなかった。ギュウギュウとまではいかないが、後方までみっしりといった感じで、僕は前方に行くのを早々に諦めた。今日も後方からライブ参加である。
入場をじっと待つ客
本当にライブは水もの。映像演出は同じなのに二日目はミクの姿が曲間ごとに消えても、後方の客のテンションは下がることがなかった。会場内の熱量は前方も後方もほぼ等しくて、昨夜は静かだったのに、今夜はあちらこちらで黄色い、時には野太い歓声が頻繁に上がる。
昨日は座り込んでいる人が多かったバースペースは、今日はキッズたちの観覧スペースになっていた。フロアに降りてしまうとミクの姿が全く見えなくなってしまうからだ。キッズたちは一心不乱にミクの姿を見つめている。僕の後ろにいた可愛らしい白人姉妹は一瞬たりとも見逃さない覚悟でステージに集中している。その真剣さは怖いくらいだったので、僕はポジションをあっさりと譲った。
その他、ヒップをぶつけあってずっとダンスしている黒人ガールの二人組がいたり、綺麗に着飾ったアジア系の女子大生四人組は楽しそうに会話しながらステージを見続け、昨日は渋々と働いていたバーカウンターのスタッフは仕事が暇になるとステージに目をむけていた。とにもかくにも今日は後方の客全員が身体のどこかしらでサウンドやビートに反応していた。うんざりした表情の客はひとりもいなかったように僕には見えた。
フィナーレの「スターダスター」が終わった時、僕の近くにいたピリッとしたスーツ姿の黒人のジェントルマン(推定50歳)は、おざなりではなく、真剣な表情で精一杯の拍手をしていた。熱心なミクファンかどうかは分からない。仮に興味本位でやってきた観客だとしたら、彼の心にミクの歌声は刺さりまくったことになる。それってやっぱりとても凄いことではないか。
終演後、僕は人種比率を調べたかったのでホールの出口付近で帰る人々をを観察した。白人3割、アジア系3割、ヒスパニックその他2割、黒人1割、日本から来た熱いファンとライブ関係者1割といったところ。男女比率は半々くらいか。全員が満足気な表情をしていた。落涙していた人も多くいた。
終演後ファンから讃えられる伊藤社長
宿泊先へ帰る際、僕は考える。MIKUEXPO NYの初日と二日目の反応を冷静に振り返れば、やはりキッズ&ティーン向けの内容だったのは否めない。ミクへの関心が薄い人を強烈に惹きつける何かは足りなかったと言える。
しかしMIKUEXPOは海外にいる熱心なファンに「見たいものを見せる」ライブだと捉えるなら大成功である。ネットでミクを知り、いつかは生でライブを体感してみたいと熱望していたキッズやティーンにとっては、自分の知るあの曲この曲が連続してかかる、まさに待望の夢のようなステージだったろう。もしここでマジカルミライ2013のような全曲総入れ替えで新衣装・新モーション投入といった「見せたいものを見せる」ライブだったら、ホール内は「これじゃない」感が支配していたかも知れない。だが、たまたま観に来た人には逆に強烈な印象を残したかも知れない。
こればかりは一概にどちらがいいとは言えない。今回は主催のクリプトンが「見たいものを見せる」を選んだということ。ソフトウェアの普及を最終目標とするならば、今いるファンを大事にして、最大限に受け入れやすいライブにするのは当然の選択だろう。
いつまでも人が去らない会場前
最後に、
ボカロを含め海外でウケている日本の音楽は性的要素がとても薄い。Perfumeはダンスグループであるにも関わらず、サイボーグちっくなので性的要素は薄い。韓国の少女時代と比べると対照的だ。日本以外の国でウケる音楽は基本的にそのサウンドやビートから、オスとメスのにおいがプンプン臭ってくる。そうでないと好まれない。セックスと大衆音楽は濃厚に結びついている。
だがしかし、基本的にその手のものが好まれるとはいえ、好まない人々も少なくないだろう。自分自身のオス、メス性はなるべく封印したい。セックスとは無縁の領域で音楽を楽しみたい。そういった人々にとって性的要素の薄い日本のポップミュージックはスッと心に入ってくるのではないか。彼らにとってはグッドミュージックとはそういうものなのではなかろうか。
僕自身はダンサブルなビート(もしくはアンチダンサブルなビート)が好きで、それがない音楽は聴いていて物足りない。だから淡泊で平坦なビートの曲はどれだけヒットしていようが自分から積極的に聴くことはない。僕にとってグッドミュージックは良くも悪くもそう定まってしまっている。
ただしNYで若い世代のファンに囲まれながら初音ミクのライブを体感すると、そのようなビート感こそが、もう古くて、すでに時代遅れになっているのではないかと考え込んでしまう。これは日本が世界より時代の先を行っていればと仮定しての話ではあるけれど、あながち間違っていないようにふと思えてしまう。
長々と書きました。以上です。
物販で唯一売れ残ったレン君のぬいぐるみ