Derrick May interviews ele-king's tsutomu noda
By Takamori Kadoi/ Yuko Asanuma
日本のテクノ・ファンであれば誰でも知っている名前、野田努。1994年に世界初のテクノ専門誌『ele-king』を創刊し、日本におけるテクノ・ムーヴメントを編集者という立場から、サポートし続けた。特にデトロイト・テクノがここまで日本で愛されるようになったのは、数えきれないインタビューやレヴュー、解説を通して、その魅力を伝え続けた彼の功績によるところが大きい。2001年に野田が出版した、ディスコからハウス、デトロイト・テクノまでの音楽史を綴った著作『ブラック・マシン・ミュージック』は、日本におけるダンス・ミュージックの教科書の1つとなった。
もう一方で、デトロイトからエレクトロニック・レヴォリューションを仕掛けたパイオニアの1人であり、世界を粗悪な音楽から救うために四半世紀ほど活動を続けているアーティスト、Derrick Mayは、そんな野田と奇遇にも同い年であり、20年来の同志である。何度もインタビューという場で対話を重ねてきた彼らだが、今回は特別に、立場を逆転。Derrick Mayに野田努をインタビューしてもらった。
Derrick May(以下May):ノダはヨーダってあだ名で呼ばれてただろう?
野田努(以下野田):呼ばれてないよ。日本語の発音で、ノダはノーダとは言わないから。
May:俺はノーダはヨーダみたいだとずっと思っていたんだけどな。まあいいや、じゃ質問を始めるぞ。ジャーナリストとして音楽が一番面白かった時期は?
野田: 年によって、興味の持ち方や、おもしろがり方も年代によって変わってくる。13歳のときにパンクをおもしろがっていたのと、20代後半でデトロイト・テクノをおもしろがったのとは違うからね。今でも音楽は面白いよ。
May:実家は飲食店だよな。ライターになることに両親は賛成していたのか?
野田:Derrickは実家来たことあるんだよね。静岡おでんの店でね、地元ではけっこう有名なんだ。親には自分に実家を継いでもらいたいという気持ちはあったと思う。もともと最初から音楽の世界に入ったわけではなくて、もっと色んな分野のことを扱う本の編集者だったんだ。音楽を仕事にしたのは27歳からで、それまで勤めていた出版社を辞めてから。もともとは音楽とは関係のない生物とか歴史とか…一番最初に作った本は経営学の本で、自分が興味のない分野の本もつくっていたんだよ。
May:そうだったのか?
野田:若い頃は音楽を職業にすることに対して、好きだったから抵抗があったというか。
May:それは、分かるな。一番好きなライターは?
野田:そういう質問が来るんだ(笑)。たくさんいるよ!1人に絞れない。村上春樹と村上龍もリアルタイムで読んでいたし、片岡義男が大好きで、昨年は花田清輝という昔の人の本をよく読んだ。10代の頃から本が好きで、大江健三郎や坂口安吾、稲垣足穂や深沢七郎など、たくさんの小説を読んでいたね。Philip K. DickとかJ.G. Ballardとか、本好きが若い頃に好きになるような作家はけっこう読んだな。もともと本とレコードが好きなんだよ。
May:これまで時間がなくて、書きたくても書けていない本はあるか?
野田:もちろん、ある。でも、それはこの場では言えないな(笑)。
May:じゃあ、このインタビューは終わりだ(笑)!最も尊敬しているジャーナリストを1人挙げるとしたら?ノダの仕事のことを考えると、2〜3人のジャーナリストが思い浮かぶな。John McCreadyとか。
野田:彼は『NME』の編集者でDerrickのコンピレーションのライナーノートを書いた人だね。自分がデトロイト・テクノを知ったのは、『NME』とか80年代のイギリスの音楽メディアからだった。
May:最初にデトロイトの音楽を聞いたときに、懐疑的ではなかったのか?というのも、この質問をする理由は、デトロイト・テクノはKraftwerk、YMOや他の電子音楽グループがすでに偉大な作品を出していて、いわばピークを過ぎていて、エレクトロニック・ミュージックのビジネスも確立された後に出て来た音楽だったからだ。デトロイト・テクノがどういう風に最初受け入れられていたのかが知りたい。
野田:今でもよく覚えているのは、Sony Magazinesという会社に入ったばかりで、初めて音楽メディアの仕事を27歳でやるようになった頃で。元々音楽が好きだったんでね、そのときは仕事で音楽に関われることが、実は嬉しかった。ちょうど80年代末で、色んな物事が変化している、変化の時代だった。デトロイト・テクノは、その変化を象徴するものの1つとしてレコード屋さんに並んでいて、凄く自分たちの音を持っていた。 いわゆるシカゴ・ハウスとか、ニューヨークのガラージ・ハウスがあって、そういうアンダーグラウンドなダンス・ミュージックが都内のレコード屋さんでもそれなりに紹介されていたけど、中でもデトロイト・テクノは凄く個性的な音楽で、他のものとはどこか、何か違った。先ほど言ったように、ちょうど自分が出版社を辞めて音楽エディターとして仕事を始めたときで、1991年だったんだけど。そのときまさにRhythim Is Rhythimの曲を自分のレコード・コレクションから選曲して、カセットテープに録音してDerrick Mayのベスト盤を作ったんだよ。それをレコード会社に持って行って、「この日本盤を出して欲しい」と言いに行ったのを覚えているね。
May:何だって?!
野田:「Kraftwerkみたいで凄く面白いとは思うけど、出せないな」と言われたのを覚えている。
May:そうなのか?
野田:ちなみにそのレコード会社で働いていたのが弘石雅和くん(当時YMOが所属していたAlfa Recordsに勤務し、その後Sony Techno勤務、Third Ear Japanを立ち上げ、現在はUMAA代表を務める)。「出せない」と言ったのは、彼の上司だったね。
May:これは興味深い。ヒロイシとの関係は重要だ。それで、『Mix-Up』シリーズやR&Sとの関係やKen Ishiiなど日本人アーティストたちが出て来たのも、そういうノダの行動が影響していると言える。一本のカセットが影響したと言えるわけだ。
野田:デトロイト・テクノのおかげで… 人生を狂わされたというか(笑)。というのはまあ嘘だけど、その当時の音楽ジャーナリズムは、まあ今でもそうなんだけど、ポップ・スターが中心で、ポップ・ミュージックはある種産業として確立されていた。でも、まあシカゴ・ハウスもみんなそうですけど、特にデトロイト・テクノはDIYだったでしょ?音楽的に面白いだけじゃなくて、音楽産業に対しても明らかに反抗的だった。力があるものに与さないという強いアティテュードがあった。自分がまだ新米の音楽ジャーナリストとしてやっていく上で、どこを追っかけていこうかと思ったときに、タイミング的にもデトロイト・テクノのインパクトが大きかったんだよね。単にいい音楽というだけでなく、ものの考え方におけるヒントまで与えてくれた。
May:反体制だったんだよな!日本の音楽界を変えることに貢献したという実感はあるか?俺はノダとヒロイシが共に変えたと思う。
野田: んー、そう言ってもらえるのは嬉しいけど。とにかく、自分はデトロイト・テクノっていうものがどういうものかを紹介したかったという思いが強かったね。確かに弘石君が務めていた頃のSony Technoが90年代の何年間かサポートした時期もあったけど、基本的にはアーティストたちの力でやってきたものだし、メディアの世界も経済に支配されている部分があるので、なかなか表には伝わらない。だから自分たちのモチベーションとしては、それを伝えたいという想いがあって。でも、それが伝わるには、受け入れてくれる人たちがいなければ成立しない。だから、日本には僕たちが考えていた以上に、デトロイト・テクノを好きになってくれる人たちが多かったということだと思う。
May:まあ、自分がやっているときに変化のことは考えないだろう。ヒロイシやノダと友達になって、自分と同じ考え方を持っていて、同じ方向性へ向かっているとわかったとき、君たちが変化のエージェントだと感じた。
野田:変化を起こしているという実感はなかったけど、DerrickやMike Banksみたいな人に触発されていたから、一発何かかましてやろうとは思っていた。
May:もう変化を生み出していたんだよな。
野田:うーん、それはどうかな。ところで、今日は『ele-king』の創刊号を持ってきたんだけど、これは1994年に作って、1995年の1月に出したんだよ。表紙に映っている2人は当時、まだ日本のメジャー・レーベルから作品を出していなかった。普通、雑誌の表紙というのは人気アーティストを載せるものだけど、僕は人気アーティストの力を借りて雑誌を潤んじゃなくて、中身で売りたいというヴィジョンがあった。
May:(創刊号の表紙を見て)オー・マイ・ゴッド…(笑)
野田:Derrickに言ってあげたいことがある。僕はあなたの作品を聴いていいと思ったのはもちろんなんだけど、1994年にDerrickとJeff MillsのDJを初めて聴いたとき… Derrickのプレイは、みんなで大阪のRocketsまで聴きにいったんだけど、本当にDJが上手かった。こんなに上手いDJがいるのかと、信じられなかった。日本人の上手いDJは、きっちりBPMを合わせて、きっちりとそつなくミックスするんだけど、Derrickのプレイは全然違って、本当に衝撃的だった。1994年の7月に初めて会ったのは、ベルリンのHard Waxでだったよね。
May:覚えているよ、このときRichie Hawtinが弟のMatthewと一緒に来たんだよ。
野田:初来日は1991年。そして1994年の確か9月にDerrickが再来日した。その時インタビューした記事が『ele-king』の創刊号に載っているんだよね。
May:再来日まで3年もかかっていたのか。長過ぎる。革命には時間がかかったんだな。
野田:1993年の12月にUnderground Resistanceがライブをやりに来たんだよね。で、94年の9月にDerrickが来て、そのすぐ後にJuan Atkinsが来たのかな?とにかく、そのときDerrickのDJを初めて聴くことになるんだけど、もう、EQのかけ方、激しいフェーダーの使い方とかね。何から何まで違った。あれはほんとに…デトロイト・テクノが人気があったといっても、それは90年代末からの話で、90年代前半の日本は、NYのハウスか、UKのダンス・ミュージックのほうが人気だったんだよ。NYガラージとか、UKトランスとか、バレアリックとか。90年代前半の日本では、デトロイト・テクノはまだぜんぜんマイナーだった。入ってくる情報も少なかったしね。これ(『ele-king』創刊号)は、そんなわけで1995年の1月に出したんだけど、15,000部刷って、そのうちの5,000部が当時星川慶子(元Cisco Techno店長、現: Jet Set Records)も務めていた、渋谷のWaveっていう店で売れたんだよ。信じられないでしょ?
May:マジかよ?!そういう時代だったんだな。かけがえのない時代だな。
野田:それだけ、こういうものを求めていた人たちがいたってことなんだよね。5,000部取ると言われたときは驚いたからね。だから僕や弘石君や星川さんがテクノの普及に貢献したかもしれないないけど、それだけこれを必要としていた人が既にいたということなんだよ。
May:そうだな。エレクトロニック・レヴォリューションの始まりだったんだな。最初は記事を書く際に、周囲からの抵抗はあったのか?
野田:抵抗なんてないね。むしろ、やってやるという気持ちだった。「この表紙で売ってやるんだ!」って。例えば石野卓球のような、ポップ・スターだけどアンダーグラウンドなテクノ・シーンをサポートしてくれた人もいたけれど、創刊号は、彼の人気に頼らず売りたかった。そうしないと嘘になってしまうから。
May:そうか。そういう心意気でないとな。ノダの雑誌は言葉も素晴らしかったが、ビジュアル要素も重要だった。写真を撮影していた中田久美子の功績も大きい。ノダの言葉に彩りを与えたのが彼女の写真だったと思う。彼女の写真は素敵だった。これは俺の意見だけど。
野田:もちろん、そう思うよ。彼女以外にも、名前を挙げるべき人は何人もいるよ。例えば、それまで『デリック(DELIC)』ってミニコミやっていた渡辺健吾も重要だったし、当時のSonyのスタッフも重要だった。
May:デトロイトを初めて訪問したのはいつだっけ?
野田:1998年に、UR が『Interstellar Fugitives』を出したとき、Mike Banksに「取材させて欲しい」というメールを送ったら、「取材したいならここに来い」と言われたので、その年の9月に初めて行った。まったく素晴らしい体験だった。SubmergeがまだDetroit Tigersのスタジアムの近くにあった時代で、Octave Oneが働いて、駐車場にはMike Banksのレーシング・カーが置いてあって、駐車場の壁にはDrexiyaが描いた「FUCK THE MAJORS(=メジャー・レコード会社は糞食らえ)」という大きな文字があった。同じビルの上の階にはJuan Atkinsも住んでいた。初めてTransmatに行ったときは、隣のビルではDaniel Bellが住んで7th Cityをやっていて、Transmatの地下にはアトリエにはAbdul Haqqがいた。事務所ではNeil Ollivierra(The Detroit Escalator Company)が働いていて、部屋のなかではGlobal Communicationのアンビエントがかかっていた。10日弱の滞在だったけど、とても忘れられない。
May:東京とデトロイトは全然違う。デトロイトに行って最も驚いたことは?
野田:街が、本当に廃墟ばかりだったこと。東京の日常的な消費生活とは別世界。文化、人々の暮らしなど、すべてにおいて違いすぎるので、驚きばかりだった。
May:2001年に『ブラック・マシン・ミュージック』という本を出したが、デトロイト・テクノの本を書くという構想はいつからあったんだ?反響はどうだった?
野田:書こうと思ってから半年で書いたんだよね。ほとんどの時間を下調べに費やして、一気に書いたね。音楽には背景があるので、それを描きたいと思ったんだけど、いろんな人からとても良いリアクションをもらった。テクノやハウスを知らなかった人たちが面白がってくれたことも嬉しかった。
May:日本はテクノの最も熱心なサポーターだ。たくさんのデトロイトのアーティストが、日本に対して特別な感情を持っている。この関係作りに自分は寄与したと思うか?
野田:信じられないかもしれないけど、90年代、日本でデトロイト・テクノはそんなに人気があったわけではないんだよね。1993年のURのライヴだって「Hi Tech Jazz」と「Star Dancer」が出た後だったのに関わらず満員ではなかったし、Carl Craigが初めてライヴをやったときなんかはガラガラだった。Theo Parrishが来たときも100人ぐらいの規模だった。ディスクユニオンにデトロイトのコーナーもなかった。自分の本や文章がデトロイト・テクノの人気を促す契機になったなら光栄だと思う。
May:テクノ全般については?日本におけるテクノ・ミュージックの普及に貢献したと思うか?日本には元々電子音楽を愛する土壌のようなものがあったか、それとも世界的なブームの一環だったと思う?
野田:最初、80年代のシンセ・ポップを好きだったリスナーはハウスやテクノを嫌悪していた。彼らはどんなことがあってもハウスやテクノの世界には入らなかった。そういう意味では、日本がテクノ全般を好きだというのは海外から見たときの幻想で、YMOと工業製品から来るエキゾティズムのひとつだと思う。とはいえ、実際に、それがデトロイトのものであろうが、UKやドイツのものであろうが、テクノの人気は日本ではつねに根強い。『ele-king』の創刊の謳い文句も「世界初のテクノ雑誌」だったので、自分がその文化の一部になれたことはとても幸せに感じるね。
May:『ele-king』を休刊した理由は?
野田:休刊してないよ。今も作ってるよ!確かにしばらく休んでいた時期があって、自分が『remix』を辞めたときに、宇川(直宏)君が『ele-king』の復刊を提案してくれた。最初はものすごく抵抗があったけど、今では宇川君に感謝しているよ。彼がいなかったら、間違いなく、現在の『ele-king』は存在しなかったから。
May:じゃあ、今後のプランはどうなんだ?最初の質問に戻るけど。時間がなくてできてないと思ってることはなんだい?(笑)
野田:もともと僕はライターになつつもりはなくて、エディターだから、誰かに書いてもらう立場。本当は自分が書くことよりも、メディアを作ることの方が好きなんだよ。そういう意味で、今また 『ele-king』でWebをやったり、本を出したりしている。雑誌よりも本を出しているのは、やはり「残る」ものを出していきたいから。あとは、今90年代に比べて、音楽シーンの状態があまり良くないと思う。それを少しでもいい状態に戻したいという想いはある。何が良くないかというと、文化と市場のバランス。売れるものが悪いというわけではないんだけど、例えば90年代は売れるものと、売れないけどおもしろいものとの調和がとれて、共存していた。でも今は売れるものだけが店頭などにも並んでいて、文化という側面が弱くなっている。「文化」と言うと語弊があるかもしれないけど。一番健康的なのは、2つの調和が取れていることだと思うので。
May:今はインスタントコーヒー社会だ。カプチーノでもボタン一つ出てくるし、お腹が空いたら電子レンジでチンだ。でも、今の若い世代の日本のジャーナリストについてはどう思う?今の人の文章はチェックしている?有望な若手は育ってきているか?
野田:オンライン『ele-king』で書いているのは若い子たちばかりで、みんな20〜30代なんだよ。有望な奴も結構いる。でも1つガッカリしたのは、オンライン『ele-king』でクラブ・ミュージックのライター募集をしたんです。そしたら、何十人来たのかな?応募がけっこう来たんだけど。その9割がインディ・ロックの原稿を送ってきた。残りの1割がヒップホップで、クラブ系がいなかったんだよね。今のエディターとしての目標は、クラブ系のいいライターを発掘して育てることかな。メディアはライターによってつくられるものだから。
May:ノダが、教育してやるしかないな!
Photos: Yasuhiro Ohara