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 古い話を蒸し返そうと思っている。
 小渕優子氏の経済産業相辞任についてだ。

 更迭に異議を唱えようとしているのではない。
 辞任は当然だ。

 これまでにも、よく似た経緯で職を追われた閣僚はたくさんいたわけだし、そのことを思えば、小渕さんだけが特別扱いにされるべきいわれはない。

 個人的な考えを述べるなら、この種の「脇の甘さ」(政治資金の処理や選挙の手法が杜撰だったりすることや、答弁での言葉の使い方が稚拙なこと)を理由に大臣のクビを獲りに行くタイプの報道や議会戦術が慣例化していることは、わが国の政治にとって、あまりプラスになっていないと思う。

 が、それは、今回の問題を考える上では、別の次元の話として、脇によけておかなければならない話題だ。
 ルールが設定されている以上、あるラインを超えた者が処分されるのは仕方のないことだ。

 ただ、「うちわ」にしても「ネギ」にしても、このたびの出来事の一連の経緯の、流れ作業じみたいきさつには、定例処理につきものの腐敗と思考停止が感じられる。

 ネギの代金をめぐる帳簿の不整合が、「政治とカネ」という常套句に回収される流れは、どうにもくだらないなりゆきだった。
 芝居のチケットを発端にはじまった疑惑が、「政治とカネ」というキーワードで告発され、問題視され、追及され、報道され、説明されたことについても同様だ。

 今回のケースで使われ、記録され、ごまかされ、あるいは無視された「カネ」のどの部分がどんな意味で辞任に値するスキャンダルであったのかについて詳しく解説する以前の段階で、本件は、「政治とカネ」というタグが付けられた瞬間に、自動的に事実上の「辞任事案」として扱われた。これが思考停止でなくてなんだというのだ?

 「政治とカネ」という言葉が使われる場所では、「政治」が悪でなくても、「カネ」が悪でなくても、その二つが同じ空間に併存すると「悪」が生成されることが前提になっている。まるで、「政治とカネ」という二つの言葉のセットが「カレーライスと便器」のような、あってはならない組み合わせであるといった調子で、だ。

 でもって、「政治とカネ」という言葉を使う人々は、まるで政治家がカネにかかわること自体が悪徳であるみたいな前提で議論を進めている。

 実際には、カネの回収と、カネの使い場所と、カネの分配が政治であり、カネに伴う人々の感情を調整し、カネによって事業を動かし、カネを通じて利害を調整し、カネの通り道を円滑にすることで国庫の運営を健全たらしめることが、政治家に課せられた最も大切な仕事であるにもかかわらず、だ。

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