『ハピネスチャージプリキュア』。強化フォームやら誕生日会やらで、登場人物がメイクする分には別に構わないのだが、メイクするにしても色の載せ方が下品で、メイクをしても「化粧が濃いだけにしか見えず、全然可愛く見えない」というのはどうにかならないものなのだろうか。
いや「化粧している」と「可愛く見える」の中間ラインを探るのが難しいことも、子供に「化粧している事」が分かる用に調整しなければならない事も理解しているのだが、アイシャドウ一つとってみてもあの色の載せ方は「老けて見えるメイク」にしかなっていない。そもそも化粧した後に可愛く見えないのなら特に意味が無いと思うのだが、この辺りの化粧の扱いの雑さが必殺技のバンクで何度も見せられることもあって結構厳しいものがある。
でも俺は別に化粧自体を否定しているわけではなくてこれが例えばキュアブラックがそうだったように、「化粧をした後だと睫毛が増える」とかであればむしろ面白がっていたとも思うところで、結局は演出や色彩設定の問題と言い切ってもよいような気もする。
でもEDで3Dモデルで見せられると特に気にならないので情報量のコントロールにミスっただけな気がしないでもない。
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「自分が常識だと思っていたことは知らない誰かの犠牲によって成り立っていた事を、犠牲になる側に転落したことで思い知らされる」というストーリー展開はよく見られるが、「犠牲になる」ということを知ったからこそ「自分はどうしていくか」という決断は物語に強い意味をもたらす。
『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』はそんな自分の中での常識から転落した人々の犠牲があってこそ、社会が成り立っていた事を知った元皇女、 アンジュリーゼ・斑鳩・ミスルギが、最前線で戦う兵士、アンジュとして戦っていく物語だ。
この『クロスアンジュ』の社会は「マナ」と呼ばれる万能物質によって成り立っている社会だ。ほぼ全ての人間がマナを用いることで生活を送っているのだが、逆にマナを扱えずマナによって支配されない存在、ノーマは「社会を脅かす存在」として生きる権利を剥奪され、非人道的な扱いを受けている。
アンジュリーゼもまた教育によってそんなノーマ根絶の思想に染め上げられていたが、実兄の謀略によりノーマであることを全国民に暴露されて全てを失い、「アンジュ」と呼ばれる兵士に身を落として「ドラゴン」と呼ばれる謎の生物と戦う戦場へと放り込まれていく。
一種の貴種流離譚とも言える物語造詣だが、自身がノーマであることを受け入れずに周囲と衝突し、暴走し続けるアンジュの姿は見苦しいというしかない。一話アバンで既にノーマであることを受け入れ、最前線で戦って生きていく事を選んでいる姿を見せているとはいえ、二話では自分を慕い、助けてくれた十二歳の少女を見下している姿などは正直見ていて面白いものではないだろう。
アンジュのその「『ノーマは人間ではない』という教育を受けてきた人間だからこそ「人間ではないもの」であった自分を受け入れられない」という姿は、結果として自分を慕った少女を殺し、あまつさえ周囲から慕われる総隊長をも殺してしまうのだが、そうした流れを踏まえているからこそ墓を前にしてのマナが使えないというだけで、このような仕打ちをされてしまうノーマの理不尽さをぶつける姿がとても胸を打つ。
むしろこのノーマの「理不尽な扱いに対する怒り」のために、今までの「自分はノーマではない」ということを論拠にした暴走行為があったのだろう。
また死ぬことでしか親からもらった「名前」を手にすることが出来ないノーマ達の境遇を知ったからこそ、アンジュの世界の理不尽さに対して怒る姿は、アンジュが「自分はノーマである」ということを受け入れたともいえる。
そんな「ノーマの一人」として理不尽さをぶつけるアンジュの姿は彼女の変化として興味深いものだったのだが、「理不尽でも生きなければならない」と即座になったわけではないのがまた面白い。
自国は既に滅んで戻る場所もなく、そして家族も失ったからこそ、アンジュとして生きるのではなく「アンジュリーゼとして死のう」と考えるプロセスを一枚挟んでいる。
欠陥機に乗って特攻紛いの試みを繰り返すも、思いとは裏腹に体は自然と生きる事を選択してしまう。
そして戦いの中で死の恐怖と向き合ったからこそ生まれる「死にたくない」という思いが、彼女に「生きていく」という覚悟を固めさせている。
おそらく「理不尽に怒り嘆く姿」で決断していては「生きる」ということには強い意味を持たなかっただろう。「死にたい」という思いを抱き、何度と無く特攻まがいの突撃を繰り返し、それでもなお体は生きる事を選択してしまう。
その「無意識な生きることへの執着」とドラゴンと対峙したからこその「死にたくない」という思い、そして母親の最後の言葉が「アンジュが生への執着を自覚する=生きていくために決断する」という展開が非常に強い説得力を持つ。
またプロセスを一枚挟む事でアンジュの駆るヴィルキスの覚醒とアンジュのドラマをリンクさせて盛り上げている。
主人公機のお披露目ということもあって、非常に熱いものを感じさせる映像だ。
そして「泥を啜ってでも生きていく」という覚悟を固めたアンジュが最初に食べるプリンがちゃんとまずいのも面白い。
あのプリンには、「泥をすすっても、それでも生きていく」というアンジュの覚悟を示すものでもあるが、そもそもあのプリンは(結果から見れば)自分が殺した女の子からもらったものだ。そんなプリンだからこそ、「誰かを犠牲にしてまでも生きていこう」というアンジュの覚悟そのものに対する業があのまずさに現れている。
その業を食べ物に背負わせて食べさせる(=内に取り込ませる)ことで、「その業すらも自覚した上で生きていくことを決めたアンジュ」に強かさを感じさせる。
プリンがまずいことにも、ちゃんと物語として意味があるのだ。
『機動戦士ガンダムSEED』で監督を務めた福田己津央が参加していることもあって、『クロスアンジュ』では随所でSEEDっぽさを感じさせる。特に3DCGを用いたアクション面ではSEEDを目標としていることもあって、CGを担当するアニメーター全員にひと通り視聴していくように通知されていたようだ。
そんなSEEDらしい見栄えするアクションやポージングの格好良さを追求しているアクションパートは本作の魅力の一つでもある。
また物語自体も一話アバンでアンジュが生きていく覚悟を決めているシーンを出しておく事で、三話までのアンジュの言動から不安感を感じさせないようにしていたり、凄惨な戦場を演出するためのエログロバイオレンスな部分も演出で工夫することで、グロテスクさを感じさせないようにされていたりと、配慮が行き届いた作品となっている本作。
アンジュが過去と決別した今だからこそ、まとめて視聴したいと思わせる一作だ。
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