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    かけはし2013.年2月25日号

元号がもたらす時代錯誤


西暦2013年と平成25年の併用

「外部との関係を忘却させる」

 

(1)a25=b2013=c2673、(2)d25=b1950=c2610、この式においてa、b、c、dの値は? 連立方程式でもナンセンスクイズでもないこの正体不明の等式を解くことのできる人は、天才的な数学者でもなく想像力が豊かな人でもない。日本通であるか、あるいは日本「オタク」だ。答えはこうだ。aは平成、bは西暦、c皇紀、dは昭和だ。つまり平成25年は西暦2013年であり皇紀2673年であって、昭和25年は西暦1950年で皇紀2610年だ。皇紀は神話の中の人物である神武天皇以来の年度を意味するが、ほとんど使用されないので論外としよう。けれども平成、昭和のような元号(少し意味は異なるけれども、年号として理解してもよい)は、過去の歴史の中に存在しているのではなく、今も公的用語として使用されている。

1979年に復活した元号


 元号は本来、憲法と同一の効力を持っていたかつての「皇室典範」(1889年)に規定されていたが敗戦後、なくなった。ところが1979年、多くの反対を押しきって「元号法」が制定され再び法的根拠を持つこととなった。元号法は「元号は政令によって定める、皇位の継承があった場合に限り改める」という極めて簡単な規定にすぎない。
 すべての公文書に元号を表記しなければならない義務もなく、これに背いた時の処罰規定もない。政府も強制規定ではないことを繰り返し明らかにしてきた。けれども1999年に制定された「国旗国歌法」がそうであったように、この元号法の制定によってすべての公文書に元号の使用が義務化されたし、これに背けば他の規定を適用した処罰が伴った。理解のために手助けすれば、現在の元号は天皇が変わった時にはじめて変わることになる。これは日本では一世一元と言うが、1つの時代はすなわち1つの元号であって、すべてのものの「基礎」という意味が込められている。
 そうであればこそ元号は空間ばかりではなく、時間を統べて支配する言葉だ。明治維新以前には天皇が変わらなくても元号が変わる場合があった。これを明治維新以降に一世一元へと変えたのだが、前近代の文化的象徴である天皇を呼び出して近代国民国家の「核」とするためだった。

20世紀の終了と平成の継続

 実際、日本の書籍を読んだり、これをハングルに翻訳する時にぶちあたる困難さは1つや2つではないだろうが、その中でも最も頭を煩わすのが、まさに日本の年度表記をどう翻訳するのかだ。近現代だけ見ても、明治、大正、昭和、平成と連なる元号は、これに慣れていない人々にとっては極めて煩わしいことだ。インターネットを見ると、元号を西暦に変えるプログラムがあるほどだから、日本に暮らす人々にとっても、そんじょそこらの不便さではないようだ。
 もちろん簡単な方法がないわけではない。例えば明治元年は1868年、大正元年は1912年、昭和元年は1926年、平成元年は1989年なので、これを西暦に変える時には明治の年度には1867を、大正の年度には1911を、昭和の年度には1925を、平成の年度には1988をそれぞれ加えればよい。けれども何とも複雑なことか。
 さらに頭を痛めるのは時代区分を元号で書く場合だ。例えば「明治20年代」がどうの、「昭和40年代」がどうのなどと、このようなやり方で時代的背景を元号で表記してしまえば、これを特にハングルに移すのはほとんど不可能に近い。なぜならば明治20年代は1887年から1896年であり、昭和40年代は1965年から1974年なので、これをどう翻訳できようか! けれども煩わしいぐらいだけならば文化相対主義の次元から、知らないふりをしてやりすごすこともできる。だがこれが単純に数字の転換問題だけではないことは、すぐにも分かることになる。
 かつて日本のある大学で教授として働いていた時に経験したことだ。国立大学だったものだから(実際には私立大学だとてさして変わりはないけれども)、すべての公文書には元号表記が義務づけられていた。今でも同様だ。例えば生年月日を記載する欄には明治、大正、昭和の中の1つに○印を付け、その後に月日を書き入れるようになっていた。
 筆者の場合、1959年生まれなので昭和で言えば34年だ。従って昭和に○を付けて34年と書かなければならなかった。「外国人」と言えども例外ではない上に、名目は教育公務員の身の上なので書類を作成する時はいつも当惑を感じた。いくら文化相対主義で、ローマに行けばローマ法に従えという言葉もあるけれども、天皇制と直接つながる元号を私が自ら進んで書くことができないのは当然のことだった。窮余の策として昭和に×印をして1959年と書き込む「ささやかな抵抗」をした。大学院時代に出会った、ある日本人の先生の真似をしたのだ。私が作成した1959年と書き直した書類を、事務職員はおそらく再び昭和34年と書き直したことだろう。煩雑さを事務職員に押し付けたわけだ。その後、事務職員がとりたてて何も言わなかったので、おそらく私のように「ささやかな抵抗」をしている教授が少なくなかったのだろうと推測をしてみるばかりだ。昭和34年と1959年、同じ時間だ。けれども同じ時間の異なった表記という単純な問題ではない。時間と時代を何が支配しているのかの問題だ。

西暦と元号、ある学者の場合


 例を挙げてみよう。1899年は19世紀が幕を下ろす年だが、明治32年は継続されている明治時代の中にある。1989年は冷戦が解体される時期だけれども、ヒロヒトの死によって昭和が終わった時期だ。1999年は20世紀が終わる年だが、平成11年は今も続いている平成時代だ。また1968年と言えば世界的な反乱の年として記憶される。だから「68革命」だのと言う言葉も生まれた。日本でも「全共闘」と呼ばれる学生運動が全盛期を迎えていたし、翌年東京大学の安田講堂占拠籠城の事態まで起きていた。東大の入試が中止されたのだから韓国式に言えば東京大学には69学番がいない。韓国で「学番」と言えばエリート主義や序列化の側面もあるけれども、学番を聞いただけでその学生がいかなる時代を過ごしたのかを思い浮かばせる一種の記号でもある。さればこそ数字は時代だ。
 ところが昭和43年と言えば意味がまるっきり変わる。特にこの年は「明治100年」に該当する。もちろん西暦がそれ自体として抵抗や革命を、元号がそれ自体として天皇制国家との親和性を表わすものではないとしても、元号を通じて時代を思い浮かべる人はこの年を明治100年の年として、西暦を通じて時代を思い浮かべる人は革命の可能性があった年として記憶する。
 日本の有名な社会学者であり平和運動家(後に核武装論者に転向)だった清水幾太郎(1907〜88)は1907年生まれだが、彼は1951年に書いた文章で「20世紀初めに生まれたこと」を誇りだと考えたと語ったことがある。理由はピカソの〈アビニヨンの少女たち〉という絵が1907年に描かれたからだった。そして20世紀初めのピカソのような西洋の「天才」たちによって開始された「精神的冒険」が現代思想の出発点だと言う。その「天才」たちの冒険と何の関係もない東洋の果てで生まれた自身が、この冒険を自らのものとして受けいれることによって初めて20世紀という時代感覚を獲得することになったとも言う。彼は明らかに20世紀という時代感覚の伝播者だった。
 戦争が終わった1946年に「20世紀研究所」を作ったほどだ。けれども彼が自分が生まれた1907年を20世紀の初めと認識したのは、後になってのことだ。なぜならば彼は13歳になった1919年まで西暦の存在を知らなかったし、従ってずっと明治40年生まれとして暮らした。つまり元号が支配している時代に、そしてその元号が支配している価値の中で暮らしていたわけだ。彼は1980年に書いた〈日本よ、国家たれ!〉という日本核武装を主張する本で、1980年を「昭和55年の敗戦記念日」だと書いている。西暦を、現代思想を、20世紀を捨てて再び元号に回帰したわけだ。元号と西暦の間の往復運動は彼の思想的遍歴と共に、彼が生きていた日本の近現代の思想的「ねじれ」を見せつけるものでもある。
 元号使用が時代錯誤だという元号反対陣営の主張は正しい。情報化だの国際化だのという時代には一層そうだ。そればかりか天皇制と結び付いている。このために少なくとも日本では元号と西暦は、それ自体として保守と革新のもう1つの名前だ。日本の各新聞は大体にして西暦を使い、かっこの中に元号を書くか、あるいはその反対に使う。併記であり妥協ならざる妥協だ。けれども元号の使用は技術的な問題ではない。
 柄谷行人は2004年に著した本で、1975年に米国エール大学で講義を行った時、日本の近代文学が成立したとされる明治20年代と明治30年代が19世紀末だったということを考えてみたことがなかったと告白する。そうして元号がどれほど「外部との関係を忘却させているか」という考えに至ったことと共に、スラボイ・ジチェクが語った「視差」(Parallax View)に縛られていることを告白する。
 けれども彼は明治、大正、昭和に出てくるイメージが必ずしも天皇の生存期間に対応しているわけではないし、むしろ特定の時代の歴史的構造と叙事を反映しているから、元号を廃棄することは日本固有の談論の空間や時代区分を失うものだと語る。しかも西暦は数字を時間の順にそって羅列したように見えても、その中にはキリスト教的叙事のような特定地域の価値や志向が盛り込まれているとも語る。だから柄谷は文章において元号と西暦を分けて使っているようだ。

鉄甲を再びまとおうとする日本


 英国ロンドンへの留学から帰ってきた夏目漱石(1867〜1916)は、明治国家は城郭を板材で積み上げたように、ごたごたと急いで作った国家だからこのままではすぐにもダメになるだろうと語った。そして、医者にして軍人、かつ作家である森鴎外(1862〜1922)は晩年に〈元号考〉を書いた。明治と大正という元号がそれぞれ中国とベトナムのものだという理由からだ。それで西暦に元号を対峙させるが、中国から由来した元号を中国と分離させ日本固有のものと見なそうとした。日本という国家の板材の城郭をしつかりした鉄甲でまとおうとしたのだ。あえて飛躍するならば、今日の日本は森鴎外がまとった鉄甲を今一度まとおうとしている。時代は西暦で駆けていっているのに、政治は元号へと回帰しているわけだ。韓国の今年は2013年だ。米国も2013年だ。もちろん韓国と米国の2013年は同じでありながらも異なる。ところが日本は2013年でありながらも平成25年だ。(「ハンギョレ21」第947号、13年2月4日付、クォン・ヒョッテのもう1つの日本/聖公会大・日本学教授)

コラム

「日本のみなさんも……」
 
  昨年末、『ラブ沖縄@辺野古・高江・普天間』を観た。沖縄の反基地闘争を八年にわたって追ってきたドキュメンタリー映画だ。
 カメラは、怒り、悔しさをぶつけ、たがいに労わり合う沖縄の人たちを写し撮り、時にカメラ自身がその「ひとり」になって仲間や弾圧する者たちを見つめる。観る者は、沖縄現地にいるかのように理不尽の横行に憤りをこみ上がらせながらも、その現実の中に飛び込んでいけない自分自身にもどかしさをおぼえる。
 映画は、美しい海を埋め立てて進められようとする辺野古基地建設に反対する闘いから始まる。そこで生活する人たちの、連日のようにカヌーや漁船で海に出る、胆のすわった粘り強く創意をこらした闘いの映像が淡々と重ねられていく。
 つづいて場面は、高江のヘリパット建設資材搬入を阻止しようとする座り込みに移る。ヤンバルの深い緑の中、米軍ヘリが轟音とともに旋回する。警察機動隊と防衛施設局の職員たちが、問答無用とばかりに無機質な対応を繰り返す。「オスプレイが来たら、私たちはもうここでは暮らせません」という悲痛な訴えは、まるでかれらの耳には届かない。
 さらに、オスプレイ配備に反対する普天間基地封鎖闘争。基地ゲート前に人びとが座り込み、米軍はゲートを閉じる。その場所は米軍施設内であり、日本の施政権が及ばないはずなのに、警察機動隊によって一人ひとり暴力的にゴボウ抜きされる。カメラもその「ひとり」となり、観る者もゴボウ抜きされているような気持ちになる。そうであっても、一時的に基地は封鎖されたのだ。
 そして、今年の一月二七日。沖縄のすべての市町村長、市町村議会議長などが東京の日比谷野音で集会をもった。自民党を含めた沖縄のすべての政党の署名・捺印もされた「建白書」を携えてやってきた人たちの決意のほどが重く伝わる。
 登壇する人たちは、異口同音に語る。「沖縄は闘っている。今はオスプレイを配備しないよう求めているだけだが、このままではすべての米軍基地の封鎖にまで進むかもしれない。だから、日本のみなさんも……」。「本土のみなさん」ではなく「日本のみなさん」なのだ。
 今から四〇年ほど前、「本土復帰」という形をとって、沖縄はアメリカ帝国主義の軍事植民地から日米両帝国主義の軍事植民地へと移行した。沖縄の人びとの止むことのない激しい反米闘争に手を焼き、「日本」という「代官」が連れてこられたのだ。
 一方、沖縄の人びとにとって、「日本」とは、アメリカ帝国主義の軍事植民地支配の重圧を取り除く「平和憲法」のはずだった。だが、四〇年にわたって経験しなければならなかったのは、日米安保条約に忠実な「代官」、「日本」だった。
 今や、沖縄の人びとは、「自分たち」と「日本」を区別するようになっている。それを強制してきたのは、「日本」だった。しかも、ヤマト・ナショナリズムは、沖縄を軍事植民地支配下におしとどめようと、さらにうごめきを強めている。
 生きるためには反軍事植民地闘争のきびしい道を進まざるをえない沖縄の人びとからの、「日本のみなさんも」という問いかけが、鋭く胸に突き刺さって、痛い。 (岩)
 


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