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視点・論点 「集合知とネット民主主義」2014年10月22日 (水)
東京経済大学教授 西垣 通
誰でも自分の意見を発表できるインターネットの普及にともなって、集合知、さらにネット民主主義への関心が急に高まってきました。集合知とはいったい何でしょうか。専門家に限らず、一般のたくさんの人びとが皆で協力して問題を解く、ということです。昔から「三人寄れば文殊の知恵」と言いますが、アマチュアでも衆知を集めると、優れた知的活動ができるというわけです。
有名な例をあげましょう。二〇世紀初め、イギリスの家畜見本市で、太った雄牛の体重をあてるイベントが行われました。参加者は約八〇〇人、それぞれ雄牛の姿を眺めて体重を推定し、その値を書いて投票します。実際の体重は一一九八ポンドだったのですが、これにもっとも近い推定をした人が優勝するのです。このとき驚くべきことが起こりました。参加者の推定値の平均をとると、それは何と一一九七ポンド、誤差はわずか一ポンドだったのです。一人一人の個別の推定値はかなり誤差があっても、集団全体としての推定値は非常に正確だったのでした。
こういった集合知の応用例は少なくありません。チェスの世界チャンピオンに、各国からネットで集まった約五万人のワールドチームが挑戦し、互角の勝負をしたこともありました。さらに、いま大いに注目されているのは「オープンサイエンス」と呼ばれる活動です。これまで、科学研究に参加できるのは専門教育をうけたプロフェッショナルだけでした。しかし、すでに天文学や分子生物学などの分野では、アマチュアが研究にゲーム感覚で参加できるサイトが存在します。プロフェッショナルの適切なリードのもとで、一般市民がネットを介して自由に参加できるのがオープンサイエンスです。この運動は今後ますます盛んになっていくでしょう。なぜなら、アマチュアの発想はさまざまで、既存の枠組みや利害にとらわれない、新鮮なアイデアが期待されるからです。
さて、こういう集合知の応用には大前提があります。それは問題の正解があることです。
または、正解をみちびくための客観的な評価基準がはっきりしていることです。チェスの指し手には好し悪しがはっきりあります。科学の研究でも、科学法則にもとづく厳密な評価基準が存在します。だから、人びとの意見をまとめていく指針ができるわけです。では、評価基準がそれほど明確でない問題、価値判断が分かれる問題ではどうでしょうか。
たとえば、とるべき政策を決める公共的な問題はその典型例といえます。死刑を廃止するべきかとか、いま消費税を上げるべきか、とかいった公共的・政治的な問題では、多くの場合、正解を導くための客観的な評価基準などありません。誰もが納得する正解など存在しないので、議論は迷走しがちです。ではこれらの問題に対して、集合知はまったく無効なのでしょうか。
かなり多くの方が、ここでお気づきになったと思います。民主制とはそもそも、政策をはじめ公共的な問題を、一般の人びとが皆で決めていく、という制度です。それは広い意味の集合知の一種とさえ言えるかもしれません。実際、ネットを利用して一般の人びとが電子投票を行い、政策を決定すればよいという意見もよく耳にします。ネットによる直接民主制というわけです。
しかし、熟議もせずにいきなり電子投票を行うお手軽な直接民主制は、公共的問題にたいする集合知の応用として、決して適切なアプローチとは言えません。確かにネットやコンピュータを駆使し、素早く電子投票で意見集約をはかることは可能です。しかしそれはとかく、多数派の横暴、少数意見の抹殺につながりがちです。民主主義の柱は、熟議討論を重ねて意見集約をはかっていくプロセスにあることを、忘れてはならないのです。
問題はいかにして熟議を行うかということです。公共的問題に対し、集合知で意見集約をはかるためには、たとえ暫定的なものでも、多くの人びとが納得する、何らかの評価基準が必要となります。これに対しては、公共哲学の研究成果が役に立つでしょう。たとえば数年前、米国ハーバード大学の政治学教授であるマイケル・サンデルの著書『これからの「正義」の話をしよう』がベストセラーになりました。またその内容を講義したNHKの「ハーバード白熱教室」も、多くの視聴者を惹きつけました。サンデルの政治哲学をベースにして、公共的問題を解決するための、社会的正義に関する何らかの評価基準を設定することはできないでしょうか。そうすれば、政策決定などの公共的問題にたいして、ネット集合知を用いる可能性が開けてくるはずです。
サンデルは正義について三つの考え方を述べています。第一は功利主義です。一八世紀の思想家ジェレミー・ベンサムの唱えたこの正義原理は、「最大多数の最大幸福」という文句で知られています。ある集団全体についての幸福の度合いを向上させることが正義だというわけです。第二は自由主義です。この中には人権尊重や弱者の保護をめざすリベラリズムと、私有財産保護を最重視するリバタリアニズムとがありますが、いずれも、集団でなく個人の自由を守ることが正義だと考えます。第三は共同体主義で、地域や国家などの共同体で培われた美徳や共通善を正義の基準にするという考え方です。サンデル自身は共同体主義者なので、彼の議論は自然にこの方向に導かれていきます。
しかし私には、この三つの正義原理は、いずれも一長一短という印象があります。より正確には、正義原理を適用できる前提条件が異なるのです。共同体主義は集団メンバー数が比較的少ない小規模な集団で有効ですし、自由主義は逆に、グローバルな巨大規模集団で有効性を発揮します。そして功利主義はその中間であり、当事者集団での正義原理として機能するのです。このように、ネット集合知を用いるとき、三つの正義原理をゆるやかに統合した評価基準を設定することができます。これを私は「N-LUCモデル」と名付けました。このモデルを用いて、公共的問題についての集合知の活用が期待できるのです。
公共哲学の専門家からは、N-LUCモデルに対してさまざまな理論的反論が出てくるかもしれません。しかし、ネット集合知とはあくまでアマチュアの実践知なので、この点はご理解を頂ければ幸いです。いずれにせよ、科学技術や公共政策など、さまざまな問題をすべて専門家任せにしておける時代では、もはやありません。二一世紀には、ネット集合知による新たな知的活動が望まれているのです。