2013-10-20
中学生時代の話〜私がグレた理由〜
テーマ:暴露ネタ
小学生の時はか弱くて気も弱く、いじめられっこだった私。
先生と友達で、先生との良い思い出なら沢山あるのですが友達との記憶はほとんど無し。
いじめ。
無視。
ってやつですね、私の心には深い傷ができてしまいました。
それでも中学に入ると、他の学校から入ってきた子たちと仲良くなり、なんとか楽しく行ってました。
けど、それも中1まで。
中学1年まではなんてことない普通の子だったんだけど、中2の担任ととにかくぶつかりました。
先生のことが嫌いでした。
それでも小中高1貫だったため小学校の時に仲良しだった校長先生とはもちろん中学でも仲良しだったので、よく校長室に昼寝しに行ってました。
校長が居なかったらもっと早く学校をやめていたかも。
校長室は私にとってオアシスでした。
無理して授業に行かなくていい、私と話そう!
そう言って私の気持ちをわかろうわかろうとしてくれました。
それが嬉しくて、よく校長室へ行ってましたw
髪の毛を茶色くしたのは、茶色くしたかったからじゃなくて、先生に対する攻撃でしたね。
よく覚えています!
最初に髪を染めたのは、中学2年の時、オキシドールで髪の色を抜きました。
眉毛も剃って茶色くしちゃいました。
それが格好良いから、とかじゃなくて、単なる自己存在アピール。
自分の存在を主張したかったから。
段々学校はつまらなくなり、友達も声をかけてくれなくなり、本当に寂しかった!
寂しくて、『私はここだよ』ってアピールだったんだろうな・・・今思うと。
お父さんも忙しくて居なかったし、お母さんもいっつも夜遅くって、おばあちゃんと部屋でよく喫煙していたのもこの頃から。
戦前・戦中・戦後を生き抜いてきた祖母から聞く話は、とっても楽しかったんです♪
おばあちゃんの部屋も私にとってはオアシスだったなw
『愛する男をモノにするには』
『タバコはこうやって吸え』
『正しい酒の飲み方』
『人の気持ちはタライの水』
などなど。
本当に面白かったんですよー!!w
他にも、アメリカ兵を相手にしてきた話や、お金のありがたみの話、戦争や爆弾の話、とかね。
そして日本という国を愛してやまなかった男たちが戦争で死んでいった・・・という当時の私には衝撃的だった話。
私の愛国心は、これで生まれたんだと思う。
これが大人になった時の私の生きる知恵になっていったのは間違いない。
グレてはいたけど、家は嫌いじゃなかったのもおばあちゃんのお陰かな。
そんなおばあちゃんが亡くなったのは私が21歳の時。
涙が枯れるまで泣いて泣いて泣いて。
今でも思い出すと泣けます。
さて、話は戻りますが、とにかく先生は『敵』だと思っていた私は、先生にいかに反抗するか、だけを考えて学校生活を送りましたから、結局中学校2年生の時は学校を3ヶ月くらい休んだと思います。
それでもね、勉強は嫌いじゃなかったんですよね。
特に英語の勉強は好きでした。
通っていた英語の塾がめちゃくちゃ厳しくて、泣きながらでも悔しいから勉強していました。
先生がちょーーーーー恐い先生だったのですが、生徒への愛情は半端じゃなかった!!
結局、先生の生徒への愛情が大事ですよね。
愛情って、本当大事だね。
中学生の時は、校長先生と塾の先生とそしておばあちゃん。
この3人が居なかったら、もっと非行に走っていただろうし、学校ももっと早く辞めていただろうな・・・
そう思います。
お父さん、お母さん、ごめんね。
でも、私寂しかったんだーあの時は。
中3には立ち直り、無事に高校進学を決めた私。
でも、、、高校ではもっと大変な少女へと、変貌していくのでした。
つづく・・・(笑)
先生と友達で、先生との良い思い出なら沢山あるのですが友達との記憶はほとんど無し。
いじめ。
無視。
ってやつですね、私の心には深い傷ができてしまいました。
それでも中学に入ると、他の学校から入ってきた子たちと仲良くなり、なんとか楽しく行ってました。
けど、それも中1まで。
中学1年まではなんてことない普通の子だったんだけど、中2の担任ととにかくぶつかりました。
先生のことが嫌いでした。
それでも小中高1貫だったため小学校の時に仲良しだった校長先生とはもちろん中学でも仲良しだったので、よく校長室に昼寝しに行ってました。
校長が居なかったらもっと早く学校をやめていたかも。
校長室は私にとってオアシスでした。
無理して授業に行かなくていい、私と話そう!
そう言って私の気持ちをわかろうわかろうとしてくれました。
それが嬉しくて、よく校長室へ行ってましたw
髪の毛を茶色くしたのは、茶色くしたかったからじゃなくて、先生に対する攻撃でしたね。
よく覚えています!
最初に髪を染めたのは、中学2年の時、オキシドールで髪の色を抜きました。
眉毛も剃って茶色くしちゃいました。
それが格好良いから、とかじゃなくて、単なる自己存在アピール。
自分の存在を主張したかったから。
段々学校はつまらなくなり、友達も声をかけてくれなくなり、本当に寂しかった!
寂しくて、『私はここだよ』ってアピールだったんだろうな・・・今思うと。
お父さんも忙しくて居なかったし、お母さんもいっつも夜遅くって、おばあちゃんと部屋でよく喫煙していたのもこの頃から。
戦前・戦中・戦後を生き抜いてきた祖母から聞く話は、とっても楽しかったんです♪
おばあちゃんの部屋も私にとってはオアシスだったなw
『愛する男をモノにするには』
『タバコはこうやって吸え』
『正しい酒の飲み方』
『人の気持ちはタライの水』
などなど。
本当に面白かったんですよー!!w
他にも、アメリカ兵を相手にしてきた話や、お金のありがたみの話、戦争や爆弾の話、とかね。
そして日本という国を愛してやまなかった男たちが戦争で死んでいった・・・という当時の私には衝撃的だった話。
私の愛国心は、これで生まれたんだと思う。
これが大人になった時の私の生きる知恵になっていったのは間違いない。
グレてはいたけど、家は嫌いじゃなかったのもおばあちゃんのお陰かな。
そんなおばあちゃんが亡くなったのは私が21歳の時。
涙が枯れるまで泣いて泣いて泣いて。
今でも思い出すと泣けます。
さて、話は戻りますが、とにかく先生は『敵』だと思っていた私は、先生にいかに反抗するか、だけを考えて学校生活を送りましたから、結局中学校2年生の時は学校を3ヶ月くらい休んだと思います。
それでもね、勉強は嫌いじゃなかったんですよね。
特に英語の勉強は好きでした。
通っていた英語の塾がめちゃくちゃ厳しくて、泣きながらでも悔しいから勉強していました。
先生がちょーーーーー恐い先生だったのですが、生徒への愛情は半端じゃなかった!!
結局、先生の生徒への愛情が大事ですよね。
愛情って、本当大事だね。
中学生の時は、校長先生と塾の先生とそしておばあちゃん。
この3人が居なかったら、もっと非行に走っていただろうし、学校ももっと早く辞めていただろうな・・・
そう思います。
お父さん、お母さん、ごめんね。
でも、私寂しかったんだーあの時は。
中3には立ち直り、無事に高校進学を決めた私。
でも、、、高校ではもっと大変な少女へと、変貌していくのでした。
つづく・・・(笑)
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