避難区域、仕事黙々と/町工場周辺人往来なく/現場へ・フクシマの素顔
福島第1原発事故の避難指示が続く南相馬市小高区。中心部の一角に小さな町工場がある。原発から約16キロ。従業員5人のモーター部品製造の「新和電機」。周囲の住宅に人の気配はない。
日が落ちると静寂が支配する。ラジオを止めるとなおさらだ。時折、コイルを巻く機械がブーンと低い音を立てる。
工場に残っていたのは経営する本居巳起男さん(68)、恭子さん(63)夫妻。午後7時すぎ、工場を閉め、車で無人の通りを抜けて同市原町区の自宅に戻る。かつて立ち寄ったスーパーや商店は営業していない。
<市対応に憤り>
夫妻は原発事故の後、自宅を離れ、仙台市内の長男宅に避難。その後、部品を納めている福島県川俣町の会社から声が掛かった。事故から1カ月もたたないうちに、会社の寮に夫婦で住み込み、会社の一角を借りて仕事を再開した。
復興需要もあって仕事はあった。「事故前とさほど変わらない売り上げだった。だから営業補償は最低額だけ」と巳起男さんは笑う。そこで1年以上、仮住まいの生活をした。
休日が続くと落ち着かない。働くことに喜びを感じる「昭和の男」だ。「だれも帰ってこないのなら戻ってやろう」と、小高区への立ち入りが自由になったのを契機に古里の工場の再開を決めた。
自宅に戻り、2012年7月から再び工場で仕事を始めた。当初は、水道もトイレも使えなかった。仮設トイレを置き、水は家からくんできた。そこまでして戻ったが、「いいことはない」と少々おかんむりだ。
夫婦で計7回も警察の職務質問を受けた。「嫌ねぇ」と恭子さん。避難区域の不審者を取り締まる意図だろうが、いい気持ちはしない。巳起男さんは、区役所に住民向けの立ち入り証明書を発行するよう求めたが、なしのつぶて。「本当に住民に戻ってきてほしいのか」と憤る。
<見通し懐疑的>
正午前には、区役所で営業する障害者支援のNPO法人が作る弁当が届く。この日のおかずは鶏の空揚げ。「店がやっていないからありがたい」。作業台をテーブル代わりにして食べる。
食後の昼休み。巳起男さんが工場の窓を開けた。建てたばかりの主のいない住宅群が目に入る。窓ガラスにシールが貼られたままの家もある。
事故前の小高区の住民は約1万3000人。16年4月の避難指示解除を目指す市は6000人程度が戻ると見ているが、巳起男さんは懐疑的だ。
「税金をただにするとか、よほどのことをしないと人は戻ってこないと思う。戻ったとしても若い人は来ないだろう。年寄りの街になる」
500近くあった事業所のうち、小高区内で再開したのは40余り。大半が製造業や建設業だ。
「人がいないから小売りは難しい。いっそ工場を集めたら。俺たちのように日中働きに来て、夜は自宅に戻る。それならいいかもしれない」。そう言うと、巳起男さんは作業台で仕事を始めた。
(随時掲載)
◎記者の一言/未来図想像できず
工場の中だと避難区域にいることを忘れてしまう。未除染でも周辺の空間線量は毎時0.15〜0.3マイクロシーベルト程度。年間換算で1ミリシーベルト前後だが、外には人けのない住宅が並ぶ。事故から3年半。この街がどう復興するのか今は想像がつかない。(南相馬支局・大場隆由)
2014年10月20日月曜日