近衛上奏文の謎
(掲載文は紙面の関係から短縮されているので、ここに全文を掲載した)

日本を席巻した共産主義と郡部への浸透
コミンテルンから見た近衛文麿と革新官僚と陸軍統制派


 近衛文麿は1937年6月に45歳の若さで初めて内閣を組織して以来、1941年12月の太平洋戦争に至る寸前まで、わずか4年5ヵ月の間に3度、2年9ヵ月の長期にわたり首相として国政や対外関係に重大な役割を演じた。国内的には大政翼賛会政治の独裁国家の政治体制や経済の国有化などの総力戦体制を確立し、対外的には1938年1月の第1次近衛声明の「爾後国民政府を対手とせず」で日中戦争の処理を誤り、11月の第二次声明では「東亜新秩序建設」を宣言して世界から孤立化し、40年9月には日独伊三国軍事同盟を締結し、41年7月には南部仏印に進駐し「対英米戦ヲ辞セズ」の国策を決定した。1941年9月には10月上旬に至るも交渉成立の目途なき場合は「直チニ対米(英蘭)開戦ヲ決意ス」との「帝国国策遂行要領」を決定するなど、太平洋戦争への道を開いたが行き詰まると、南部仏印からの撤兵を「哀情ヲ披瀝シテ」東条陸軍大臣を「説得スベク努力」したが、「開戦ヲ決意スベキコトヲ主張シテ已マズ」。「懇談四度ニ及ビタルモ終ニ同意スルニ至ラズ」。「輔弼ノ重責」を全うすることができなくなったと辞職してしまった。
 これほど先の戦争に至る重要な局面で日本の運命に影響を与えた総理大臣はいない。その近衛が衆議院議員の三田村武夫が戦局が不利となった1943年4月に荻外荘を訪ね、近衛に「この戦争は必ず敗ける。そして敗戦の次に来るものは共産主義革命だ。日本をこんな状態に追ひ込んできた公爵の責任は重大だ!」といつたところ、「彼はめづらしくしみじみとした調子で、なにもかも自分の考えていたことと逆な結果になってしまった。ことここに到って静かに考へてみると、何者か眼に見えない力にあやつられていたやうな気がする」と語った。そして、それから1年半後、敗戦半年前の1945年2月14日に、近衛は昭和天皇に次の「上奏文」を提出した。

「少壮軍人の多数はわが国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く」、これら軍人を「共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候」。「満州事変、支那事変を起こし、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは是等軍部内の意識的計画なりしこと今や明確なり、満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候」。支那事変当時に「事変永びくがよろしく、事変解決せば国内革新が出来なくなる」と公言せしは、此の一味の中心的人物に御座候」。是等軍部内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部新官僚及民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は、意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人之に踊らされたりと見て大過なしと存候。此事は過去10年間軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り交友を有せし不肖が最近静かに反省して到達したる結論」なり。

 このように近衛は日本の政治の最高責任者として静かに反省して到達した結論は、日本はいまや共産革命に向かって急速度に進行しつつあり、この共産主義者の意図を十分見抜くことができずに、「革新論者の主張を容れて挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、彼らの背後に潜める意図を十分看守する能はざりしは、全く不明の致すころにして何としても申訳無之深く責任を感ずる次第に御座侯」と昭和天皇に謝罪した。
この近衛上奏文について、朝食会のメンバーがゾルゲ事件で逮捕されたことや、支配階級に属する公家の近衛が「共産主義の妖怪に怯え」、共産主義の脅威を過大視しているとの見解、マルクス主義者であった近衛がマルクス主義者ではないとの「偽イメージ」を作る近衛独特の自己弁護の文書とか、天皇に事態の重大性を訴えるための誇張など多様な解釈がある。しかし、近衛は大学時代に治安維持法違反で懲役5年の刑を受けた京都大学の河上肇助教授に学ぶため、東大をわざわざ中退し約1年間にわたり社会主義思想を学び、オスカー・ワイルドの『社会主義下の人間の魂』を翻訳出版し、発禁処分を受けるなど社会主義に傾倒していた。また、近衛は第一次大戦終結直前の1918年12月に「英米本位の平和主義を排す」の論文を書き、「正義人道の観念」に基づく国際連盟は評価したが、英米等の先進列強が植民地を独占し、有色人種を差別しているのは「正義人道」に反している、領土・資源の乏しい後進国の日本は「事勿れ主義」の現状維持を唱えるのではなく、「日本人の正当なる生存権を確認し、此権利に対し不正不当なる圧迫をなすものある場合には、飽く迄も之と争うの覚悟なかる可らず」と、現状維持に反対し植民地再分割など世界新秩序の建設を主張する現状打破論者であった。そして、総理となると書記官長(官房長官)に戦後はソ連のフロント組織「世界平和評議会」の評議委員、日ソ協会副会長となった共産主義者の風早章を選んだ。

ロシアの影 陸軍統制派と革新官僚
 ところで上奏文の「何者」かの「眼に見えない力」とは何であろうか。「何者」とは近衛の政策集団の昭和会や朝食会のメンバーであり、「眼に見えない力」とは共産主義者(あるいはシンパ)を通じたコミンテルンの影響力であった。また、「国体の衣をまとった共産主義者」とは、国家総動員体制や大東亜共栄圏の確立に協力した政策集団の昭和会や朝食会のメンバーたちであった。昭和研究会は「新しい政治、経済の理論を研究し、革新的な国策の推進に貢献する」ことを目的として36年に発足したが、この会が革新的国策を案出し理念の裏付けをし、大政翼賛会という一党独裁の近衛新体制を確立するのに大きな働きをした。しかし、この会には企画院事件や横浜事件などで共産党員として逮捕された革新官僚の和田博雄、稲葉秀三、勝間田清一、和田耕作などがいた。朝食会にはゾルゲ事件で逮捕された尾崎秀実、西園寺公一、犬養健などがいた。また、高度国防国家の建設をめざし近衛を支えたのが、陸軍では東条英機、武藤章、佐藤賢了などに代表される統制派、近衛外交を主導したのが松岡洋右や白鳥敏夫に代表される革新外務官僚であり、それらを支えたのが革新派と呼ばれた政治家や経済官僚、財界人であった。朝食会のメンバーでゾルゲ事件で逮捕された尾崎秀実は、次のような世界像を実現しようと動いていた。この尾崎の獄中の書を読むと、日本は尾崎の描いたシナリオに踊らされアジア解放を夢見て、大東亜戦争にのめり込み昭和の悲劇を招いたと言えないであろうか。

 「私が頻りに心に描いたところは……われわれはソ連の力を借り、先ず支那の社会主義国家への転換を図り、これと関連して日本自体の社会主義国家への転換を図ることでありました」。「日本は南方への進撃においては必ず英米の軍事勢力を一応打破し得るでありましょうが、その後の持久戦により消耗がやがて致命的なものとなって現はれて来るであらうと想像したのであります」。「英米帝国主義との敵対関係の中で日本がかかる転換を遂げる為には、特にソ聯の援助を必要とするでありましょう。さらに、中国共産党が完全なヘゲモニーを握った上での支那と、資本主義機構を脱した日本とソ連の三者が緊密な提携を遂げることが理想的と思われます」。「英米仏蘭等から解放された印度、ビルマ、タイ、蘭印、仏印、フィリッピン等の諸民族を各個の民族共同体として、……前述の三中核体と……密接なる提携に入る」。

 五・一五事件や二二・六事件、三月事件や十月事件などにより皇道派の影響力が低下し、統制派が陸軍部内の主流となると、軍事優先の国防国家の建設を提唱し、統制経済を確立するなど日本を徐々に全体主義国家へと導いて行ったが、多くの青年将校が影響を受けたのが「日本改造法案大綱」を執筆した北一輝であった。北は「支那ヲ自立セシメタル後ハ、日本ノ旭日旗ガ全人類ニ日ノ光ヲ与フベシ」と、日本が有色人種のリーダーとしてオーストラリアやシベリアを「将来取得」し、これらの「新領土」では「異人種異民族ノ差別ヲ撤廃シテ、日本自ラ其ノ範ヲ欧米ニ示スベキ」であると論じた。また、北は上海で共産主義者との交流で共産主義の影響を受けたのであろうか、国内改革については戒厳令を敷き憲法を停止し、強力な政権を樹立して産業の国有化や国有財産の国民への分配、階級制度の打破など、北が改造しようとしていた国家像はヒトラーの国家社会主義体制、あるいはスターリンの共産主義独裁体制であった。これは北の影響を受け32年5月に海軍中尉三上卓以下(海軍士官6名、陸軍士官学校生11名、民間人8名)が起こした五・一五事件の次の檄文を読めば一層理解できるであろう。

 「刻下の祖国日本を直視せよ。 政治、 経済、 外交、教育、思想、 軍事、何処に皇国日本の姿ありや。 党利に盲いたる政党、 之と結託して民衆の膏血を搾る財閥と、 更に之を擁護して制圧日に長ずる官憲と軟弱外交と堕落せる教育、 腐敗せる軍部と悪化せる思想と塗炭に苦しむ農民労働者階級と、 而して群処する口舌の徒と。 日本は今や斯の如き錯綜せる堕落の淵に死なんとしている」。

 しかし、なぜ、若い陸軍将校が二・二六事件などを起こしたのであろうか。二・二6事件で殺害された内大臣斉藤実大将(元総理)に、山本英輔海軍大将が暗殺2ヶ月前に送付した手紙には陸軍内部に派閥が生まれ、下克上の風潮が強まり共産主義が浸透しつつある危機を次のように警告していた。政治が乱れ財閥が全盛横暴を極め、陸軍上層部までもが政争や権力闘争に明け暮れているのを見ている正義感の強い若い将校が、「ファショ気分トナリ」、これを「民間右翼、左翼の諸団体、政治家、露国ノ魔手、赤化運動」が策動している。これが「所謂統制派トナリシモノナリ」、表面は大変美化されているが終局の目的は社会主義で、昨年の陸軍の「パンフレット」は「其の真意ヲ露ハスモノナリ」。林前陸軍大臣や永田軍務局長等は「之ヲ知リテセシカ知ラズシテ乗ゼラレテ居リシカ知ラザレドモ」、その「最終ノ目的点ニ達スレバ資本家ヲ討伐シ」、あらゆる組織を「国家的ニ統制セントスルモノ」で、それは「『ソ』連邦ノ如キ結果トナルモノナリ」。しかるに重臣や政府は天皇に忠実を尽くすべしとする皇道派を支援せず統制派を援助している。民間各種団体も「自己ノ欲望又ハ主義野望ヲ達セソガ為メ仮装偽装シテ」取り付き、このため「血気ノ将校ハ一刻モ早ク」祖国を救おうと、「無我夢中ニ飛ビツクコトモアルベク赤化運動ノ乗ズル所此ニアリ」。

 革新閣僚であり戦後に総理になった岸信介は『戦争と共産主義』の序文に「近衛文麿、東条英機の両首相をはじめ私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなればスターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる。私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、今、思うに東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人は、スターリンでなければならない。然るに、このスターリンの部下が東京裁判の検事となり、判事をつとめたのだから誠に茶番というほかはない」と書いている。

反コミンテルンからの日独接近
 国境を接しソ連と対峙しコミンテルンの干渉を受けた日独と、海を隔てた他民族国家の米国とは異なる対応を示した。第一次大戦末期にウラジミール・レーニンはロシア革命を起こして共産主義政権を樹立したが、西欧先進諸国などから警戒され干渉を受けると、各国の共産党を支援し世界に革命を輸出した。この革命の輸出はポーランド、次いで18年11月4日のキール軍港の水兵の反乱となり、ウイルヘルム皇帝が退位しワイマル共和国を誕生させた。しかし、キール軍港から始まった革命が鎮圧されると、コミンテルンは21年にハンガリー革命を指導したベラクーンをザクセンに派遣しドイツ共産党に武装蜂起を強要し、21年3月のマンスフエルトの蜂起、23年9月のハンブルグの蜂起と武装闘争が続いた。

 この共産党の武装闘争の前に立ち上がったのが、ヒトラーの率いる国家社会主義ドイツ労働者党(通称ナチス)であった。ナチス党の前身であるドイツ労働者党は共産党を嫌う国民からある程度の支持を得ていたが、ヒトラーがミューヘン一揆で逮捕投獄されると党勢は低迷した。しかし、ヒトラーは釈放されると合法的な手段による権力獲得に方針を転換し組織や党勢の拡大に努め、突撃隊(SA)や親衛隊(SS)を組織し、1929年には党員も17万8000人に増加し、30年9月の総選挙では107名、33年3月の総選挙では288名を確保し、33年1月にはヒトラーが首相に任命された。このようにソ連共産党(コミンテルン)による革命の危機を肌に感じたドイツ国民は、ヒトラーを国家指導者に選んだのであった。
 
 日本とドイツを共産主義の脅威から結びつけたのが、第一次大戦で日本軍の捕虜となり、釈放されると日本に留まり日本海軍に武器を輸出するため「シチンガー&ハック」社を創設したハック博士であった。ハックは1923年6月に軍令部長ポール・ベーケン中将に日本との協力の重要性を説き、日本海軍に技術を供与する意向があることを伝える書簡を書かせ、帰国する海軍武官荒城二郎大佐に手交させた。この日独海軍の技術交流の調整者としてカナーリス少佐が24年夏に来日し、日本海軍に好意を抱き高く評価し、帰国すると日本海軍が強化され日独が緊密化すれば、英仏両国は背後の安全を確保するためドイツに融和的政策をとらざるを得ず、ドイツの国際政治力が強化されるであろうとの報告書を提出した。カナーリス少尉はキール軍港の水兵の反乱に直面し、共産主義に激しい憎悪観を抱いていたので、少将に進級し35年1月に国防省防諜部長となると、ソ連を第一の想定敵国視する駐独陸軍武官の大島浩大佐に接触し、さらに大島武官をナチス党外交委員長リッペントロップに紹介した。リッペントロップは駐英大使に任命されると、アングロサクソンとゲルマン民族で世界を支配しようとのヒトラーの夢を実現しようと動いた。しかし、失敗するとヒトラーにソ連と日本との同盟を説き、ドイツ外交を新欧米中路線から親日路線へと転換し、35年11月には日独防共協定、37年9月には日独伊三国同盟を締結するなど日独を結びつけた。

コミンテルンと日中15年戦争
 ソ連邦崩壊後に出版されたスラビンスキーの『中国革命とソ連』には、「ソ連は中国に大量の軍事援助を行い、中国が日本に降伏しないように画策した。日本が中国の泥沼に深くはまり、それによって日本の脅威がソ連極東から中国に向かうよう」策動したと記されており、日本はソ連(コミンテルン)の謀略によって中国にのめり込み、第二次大戦へと巻き込まれていった。例えば、25年5月15日に上海の日本の紡績工場のストライキ中に、労働者と警官が衝突し共産党員の顧正紅が警官に射殺される事件が起こると、共産党は1000名の学生や労働者を動員し、大規模なデモを繰り広げ13名の死者と数10人の負傷者を出す「五・三〇事件」を起こした。この警官による虐殺は中国全土に憤激の嵐を巻き起こしたが、これを指揮したのは中国共産党委員長の陳独秀で、その背後にはソ連領事館内に事務所を構えていたコミンテルンの工作員チェルカソフがいた。チェルカソフが北京駐在のソ連大使レフ・カラハンに送った報告には、綿糸工場の労働争議と、それに続くデモやストライキにコミンテルンは43万ドル投じたという。

 この五・三〇事件は日本の紡績工場から発生したが、攻撃の主対象は英国の上海警察であり、その後の香港の港湾労働者のストや漢口英国租界事件、九江事件なども主として英国が対象であった。しかし、上海事変が起きると英国は中国の不満を日本に向けようと、国王ジョージ六世やカンタベリー大僧正の対日非難、国際連盟での糾弾など国を挙げて日本を非難し、中国のナショナリズムの矛先を日本に向けた。このため中国民衆のナショナリズムの矛先が徐々に日本変わり、表に示すとおり権益の侵害、不法な立ち退きや事業中止要求、日貨不買の営業妨害、暴行傷害などが急増していったが、特に義憤を高めたのは幣原喜重郎外相の内政不干渉政策を守り、陸戦隊も無抵抗で応じた南京の領事館が襲撃された27年の南京事件、婦女子を含め239名が虐殺された翌年の斉南事件であった。   
        排日・利権侵害件数(1927年―1930年)

     権益の侵害 20 邦貨搬入阻止 軍隊・軍人の攻撃 18
不当課税  6 邦人の不当抑留・不当没収 33 艦船攻撃 11
邦船不法臨検  6 立ち退きや事業中止要求 10 営業妨害 15
邦人への暴行傷害 31

 一方、米国では親中国派の学者、ジャーナリスト、宣教師たちが、ある者はコミンテルへの忠誠心から、ある者は正義感や中国への同情、あるいは金銭的利益などから中国を支持し、中国のために反日活動を展開し米国の世論や政策を反日親中に変えていった。特にオゥエン・ラテモアは太平洋問題研究会(FPR)の機関誌『Pacific Affairs』の編集長として、中国を支援するために米国共産党が創刊した『アメレジア』の編集員として、「反日の巨頭」と言われるほどの活躍した。また、作家ではリシャルト・ゾルゲに尾崎秀美を紹介したアグネス・スメドレーは『中国紅軍は前進する』『中国は抵抗する』などによって、エドガード・スノーは『中国の赤い星』、『アジアの戦争』や『極東戦線』などの著書を通じて、「終生中国の誠実な友」として日本の侵略行為を世界に訴えた。
 しかし、最も日本の悪玉イメージを広め日本への増悪観を高めたのは、父が中国で宣教師をしていた中国生まれのヘンリー・ルースが社主の『タイムズ』と写真週刊誌『Life』であった。『タイムズ』は蒋介石を3度も「マン・オブ・ザ・イヤー」に選び、9回も蒋介石を表紙に起用するなど徹底した中国寄りの報道を続けた。しかし、日本に対する憎悪感を決定的にしたのは『Life』に掲載された上海南駅の線路上で泣き叫ぶ赤ん坊の写真であった。その後、この写真が「やらせ」であることが判明したが、この写真が世界中に中国への同情と日本への反感を生んだだけでなく、半世紀を過ぎた現在でも反日の象徴的写真として広く使われている。

 また、大きな影響を与えたのが次ぎに示す田中上奏文で、この上奏文には各種のバージョンがあるが、秦郁彦氏によると、張学良政府の外交秘書主任から国府政府、次いで中国共産党政権に仕えた王家驍ェ、張政府の対日政策の研究文書として作成したものであったという。この文書が表面化したのは29年に京都で開かれた第3回太平洋問題調査会であったが、活字化されたのは同年12月に南京で発行された月刊誌『時事月報』であった。本文は4万字の長文であるが最も有名なのは「支那を征服せんと欲せば、まず満蒙を征服せざるべからず。世界を征服せんと欲せば、必ずまず支那を制服せざるべからず」。これは「明治大帝の遺策」であるとの部分である。日本政府は直ちに偽造文書であると中国政府に抗議し、新渡戸稲造は太平洋問題研究会で論理的に偽造文書であることを説明した。しかし、満州事変や日中戦争が起こり日米の対立が高まると、「日本の『我が闘争』(Japan’s Mein Kampf)」や日本の「世界征服の極秘戦略」などとされ、中国語、英語、ロシア語などに翻訳され、世界中に「世界征服を目指す日本」とのメージを定着させてしまった。

 特に米国では第二次大戦が勃発すると、反日感情・対日警戒心を高めるために「チャイナハンズ」と呼ばれる中国の代弁者が利用し、44年に米国陸軍省が作成した「中国の戦い(Battle of China)」では、中国兵の勇敢さを描いたシーンに続き、「なぜ、日本は中国を侵略するのか」というナレーションでは田中義一首相がクローズアップされ、田中上奏文が大写しになり、その表紙には「世界帝国への日本の野望」と書かれ、日本が中国、オーストラリアなどを征服し、最後には米国に魔手を延ばすという説明が続いていた。この映画は陸軍省が兵士の戦意向上のために作成したものであったが、ルーズベルトがホワイトハウスの映写室でこの映画を見ると一般公開を命じた。ジョン・ダワーによるとこの映画はハリウッドの戦争活動委員会から全米に配信され、終戦までの1年余りの間に400館以上の映画館で上映され、日本の侵略国家のイメージを植え付け、それが東京裁判へと連なっていた。

 一方、「産経新聞」によると、米下院情報特別委員会スタッフでソ連の謀略活動を研究しているハーバート・ロマーシュタインは、25年夏ごろレオン・トロツキーが、国家政治保安部長(ソ連国家政治保安部(のちのKGB)ジェルジンスキーから「東京にいるスパイが大変な秘密文書を送ってきた。日本は世界制覇のために中国を征服し、さらに米国との戦争も想定している。これが明らかにされれば日米関係がこじれて戦争にいたる可能性がある」との説明を受けた。トロッキーは「単なる文書だけで戦争は起こらない。天皇が直接、署名するとは考えられない」と否定したが、内容が日本の好戦性と帝国主義的政策を示すセンセーショナルなものだったため、政治局で協議されソ連が公表すると疑惑の目で見られるので、米国共産党からリークすることにされたという

コミンテルンから見た米国
 不況に陥るとルーズベルト大統領は社会主義的なニューディール政策を採用し、自由競争が過剰生産を招くと価格統制などの計画経済を推進し、また失業者を救済するために大企業を締め付けて社会の公平を目的とした政策を推進した。このようなことからニューディールは「ファシスト運動か」とか、「共産主義運動か」と云われるほど、米国産業界は自由競争から統制経済へと転換され、共産主義への警戒心が薄れた。特にエレノア・ルーズベルト夫人などは、貧者救済に熱心なことから共産党と深く関わり、世界学生大会でソ連の残酷なリトアニア併合を訴えようとした学生の発表を阻止し、共産党全米書記長アール・アール・ブラウダーの釈放に動いた。また、ルーズベルト自身もエレノアによれば「米国も戦後は社会主義的な国になり、ソ連と立場を同じくする」と話すなど容共的であった。このため大統領となると周囲の反対を排してソ連を承認するなど容共的政策を実施したため、ニューディール左派の知識人などが共産党に入党し、30年には7500人に過ぎなかった党員が38年には7万に増加した。この結果、ニューディール政策を推進したルーズベルト政権には多数の共産主義者が採用され、それは単に政府職員にとどまらず側近ナンバーツウのハリー・ホプキンズ、大統領補佐官ロークリン・カリー、国務省のアルジャー・ヒス、財務省のハリー・ホワイト、など200名近い共産主義者やシンパが採用され、ソ連に情報を提供したがけでなく、ルーズベルトの政策に影響を与えていたことが96年に公開されベノラ(VENONA)文書(ソ連公館やアジトとモスクワとの通信傍受文書)から明らかにされた。

 この傍受電報によると大統領補佐官ホプキンスはGPU(KGBの前身)の米国責任者イサク・アフメーロフに貴重な情報を提供し、モスクワでは「役立つ間抜け」と云われていた。また、ヤルタ協定の原案を作成したヒスは暗号名「アリス」と呼ばれ、ルーズベルトやトルーマン政権内の情報を流し続け、ヤルタ会談時にソ連政府から勲章を授与されたが、49年にスパイ行為が発覚し逮捕されたがスパイ罪の時効が10年であったためスパイ罪は適用されず、偽証罪で実刑5年の判決を受けた。また「ハルノート」は上院議員で歴史家のハルミトン・フィィッシャーやロマーシュタイ研究員によれば、「ハルノート」の原典となった「ホワイト案」を示唆したのは、財務長官補佐官で戦後に国際通貨基金(IMF)の米国代表に指名され、初代理事長まで栄達したリトアニア出身の共産党員ハリー・ホワイトであった。ホワイトは国家保安人民委員部の在米責任者ボリス・バイコフ大佐の指揮下の工作員で、48年の夏に下院の非米活動委員会に喚問されると、その3日後に大量のジキタリスを服用し自殺した。

 元KGB退役中将ヴィタリー・パヴロフは96年に『スノー作戦』をモスクワで出版したが、その中で日本に厳しい最後通牒を突きつけるアイデアは内務人民委員部で生まれ、ラブレンティ・ベリア長官の了承を得て実施され、ホワイトにちなんで「雪作戦」と命名され「作戦は見事に成功し」たと書いている。終戦2ヶ月前の45年6月に中国を支援するために創刊した『今日の中国』の後継誌『アメレジア』の編集長以下6名がソ連のスパイとして逮捕された。一方、東京でゾルゲの連絡印であった中国共産党員の陳翰笙は、36年にコミンテルンの指示で米国に渡り、太平洋問題調査会の機関誌『Pacific Affairs』の編集をラティモアの下で手伝っていたが、その後にルーズベルト政権のカリー中国問題特別補佐官の推薦で蒋介石政権の経済顧問となった。しかし、49年に中華人民共和国が成立すると毛沢東の元に走り、共産党の秘密工作員であったことを告白し英雄となった。一方、ラテモアが共産党員あるいはスパイということは確定されなかったが、カリーの推薦で蒋介石の特別顧問、さらには米国戦略局の極東担当者となり、天皇一家を中国へ引き渡すことを主張するなど日本の占領政策形成に大きな影響を与え、その後はジョン・ホプキンス大学の教授となった。しかし、上院の非米委員会に喚問されると、その後にリーズ大学の教授となって米国を去った。

コミンテルンに2回敗北した日本
 1930年代は資本主義が行き詰まり、米国はニューディール政策を推進したが、ヒトラーは国家社会主義ドイツ労働党(ナチス党)、近衛文麿は大政翼賛会を結成するなど、日独両国は異なる社会主義を掲げ「防独防共協定」を締結し共産主義と戦ったが、世界共産化を企むコミンテルンに踊らされて敗北した。この共産主義との戦いをローマ法王やカトリック教団などが、日中戦争は共産主義との戦いと認識し支持していたが、日中戦争を共産主義との戦いとして評価する国も組織もなかった。一方、日本国内では尾崎秀実などの共産主義者たちが近衛首相や革新軍人や官僚を操って「南進・対米開戦」へと仕向けた。また米国では「ピンカーズ(ピンク色の連中という共産主義者やシンパ)」が容共的なルーズベルト政権に潜り込み、親中国的で海軍主義者のローズベルトやコーデル・ハル国務長官、対日強硬者スチムソン陸軍長官などを操り、日米開戦への「裏口参戦」の陰謀を推進した。

 このように日米は最終的にはルーズベルトの英国を救いたい、次いでソ連を助けたいと日本を裏口から参戦させることに成功した。しかし、長期的に見るならば日米はコミンテルンの「資本主義国同士を戦わせ共倒れさせる」という陰謀に踊らされ戦ってしまったのではないか。これに加え日本には米国の日本人に対する黄禍論が加わり、レン・トロッキーの「日本を打倒するには米ソ両白色人種が協力しなければならない。いかに日本が固い殻にこもっていても、白色人種の米ソ両国が協力しクルミ割りのテコのように両方から圧縮すれば押し割ることができる」と、共産主義を忌避する米国人に人種問題をからめ米ソ協力を説いた言葉のとおり、米国の「海軍モンロー覇権主義」と人種的偏見、世界共産化というコミンテルン(ソ連)に挟撃されて敗北したと言えないであろうか。開戦時の連合艦隊参謀長・宇垣纏中将は、ヒトラーが死亡したとのニュースを聞くと、日記に次のように書いた。

 「ボルセビーキの災禍より全欧州を救はんとして、一生の努力を傾注せる英傑は反りて赤軍の為に返り討の悲  運に会せ  り。其の無念や知るべし。然れども其の精神は長くドイツ国民の享受する処多かるべく、また英  米も不日赤禍に悩み強  力なる支檣ヒトラーを斃したるを悔やむべし」。

 また、ルーズベルトが死亡するとドイツのラジオは、「彼が今次戦争を第二次世界大戦に拡大した扇動者であり、さらに、最大の対立者であるボリシェビキ・ソビエト同盟を強国にした大統領として歴史に残るだろう」と放送した。

 日本が敗北すると国家安全保障会議はダグラス・マッカーサー連合軍司令官に、「日本占領後の初期対日政策」を指示し、日本が再び米国や連合国の脅威にならないように、武器だけでなく精神的な武装解除を行うことを命じた。この日本の精神的武装解除を推進したのがニューディール左派の「ピンカーズ」たちであった。日本にとって不幸なことはルーズベルトが共産主義を民主主義の一変形と誤解し、政権に「ピンカーズ」を多数採用していたが、日本の敗戦直前にルーズベルトが死去したため、職を失った「ピンカーズ」達が占領軍司令部の民政局員などとして来日し、民主化という美名のもとに社会主義国家日本を作ろうと米国でかなえられなかった夢の実現に情熱を傾けたことであった。

 連合軍司令部では民政局長ホイットニー少将、チャールズ・ケーディス大佐などの民政局が新憲法の起案をはじめ、公職追放から財閥解体や政党間の離合集散に至るまで、日本の国内政治に介入し革新政権を誕生させようと動いた。また、民間情報教育局長ケン・ダイク准将は治安維持法の撤廃、神道指令の発出、教育基本法の制定、皇室典範の改訂、天皇の人間宣言の草案などを作成し、日本の左傾化や国家解体を強行した。延安で野坂三造と日本の今後の政体を延安で語り合い、野坂が中国から帰国すると「まるで英雄のように迎えた」対敵防諜部長のエリオット・ソープ准将は、梨本宮を逮捕し投獄中のすべての共産主義者やゾルゲの通信を担当していたマックス・クラウゼンまで保釈してしまった。また、GHQ民政局は日本を総て悪者とする『太平洋戦争史』を作成し主要新聞への掲載や、「真相はこうだ」などのラジオ放送を強制し、反論は検閲や公職追放令で封じ、5年間の占領時代に日本の戦争は総て悪かったとの「懺悔史観」を刷り込んでいった。

 日本解体の最終劇は東京裁判であった。裁判の冒頭陳述でジョセフ・キーナン検事は日本の指導者は満州事変以来、世界征服の「共同謀議」により侵略戦争を行ったと田中上奏文に沿って裁判を進めた。東洋史などを知らない裁判官は第二次大戦にいたる日本の行為は総て日本の野望達成への一環だったと、スノーなどが広めた田中上奏文のイメージで裁かれてしまった。この裁判で日本の正義を堂々と主張し、昭和天皇を守ったのは東条総理1人であった。このため占領軍に「日本の侵略と超国家主義を正当化しようとしている分子のあいだに、東条は自分の立場を堂々と説得力を以て陳述したので、その勇気を国民に賞賛されるべきだという気運が高まりつつある。この分で行けば東条処刑の暁には殉国の志士になりかねない」との危機感を高めた。そして「今一度繰り返し日本人に日本が無法な侵略を行った歴史、特に極東において日本軍の行った残虐行為について自覚させるべきだ」と、48年2月には日本人に贖罪意識を植え込むための「贖罪意識教育計画(War Guilt Information Program)」の第3段階が開始された。この贖罪意識教育計画では占領政策のテクニックから国民と軍閥を分離し、総て軍閥が悪いと悪者の代表として東条への攻撃を集中し、東条は昭和天皇の誕生日に絞首台に送られた。

 東京裁判で起訴され懲役3年の刑を受けた元革新官僚で、戦後に総理大臣になった岸信介は東京裁判について「近衛文麿、東条英機の両首相をはじめ私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなればスターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる。私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、今、思うに東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人は、スターリンでなければならない。然るに、このスターリンの部下が東京裁判の検事となり、判事をつとめたのだから誠に茶番というほかはない」と東京裁判を批判している。しかし、この贖罪意識を擦り込まれた東京裁判史観は教科書として採用され、さらに中国や韓国に外交上の「歴史カード」として効果を発揮している。

 
一方、ニューディール派「ピンカーズ」の日本の左傾化に歯止めをかけ、共産主義者やシンパの危険性を惹起したのが三田村武夫の『戦争と共産主義』の英訳本であった。本書でゾルゲ事件を知ると情報部長チャールズ・ウィロビー少将は、46年初頭にゾルゲ事件の第1報、47年12月には「ゾルゲ諜報団―極東に於ける国際陰謀の実例研究」をワシントンに送った。しかし、この報告書から上海でゾルゲを尾崎に紹介したアグネス・ソメドレーがスパイとして報じられると、スメドレーは報告を発表した国防省や報告書を送ったマッカーサーを名誉毀損で告訴すると猛反発した。このスメドレーの抗議にニューディール派やニューヨークタイムズ、さらには1946年まで国務長官であったハロルド・イッケスまでもが「スメドレー女史を知っている者なら、だれ1人として、この勇気ある知的なアメリカ市民が、どの国のためだろうと、……たとへ最愛の祖国アメリカのためだろうと、…スパイ行為をするほど下劣になりうるとは考えられない」などと支持したため、報告書を公表したケネス・ローヤル陸軍長官は謝罪した。しかし、1950年5月6日に非米活動委員会から召喚されると、奇妙な一致ではあるががその日の夕刻に手術が失敗し急逝した。遺書には「私は米国のファシズムを呪い、米国の国会、軍事力、そのほかあらゆる官僚代表に向かって、祟りあれと唇にしながら死にます」。総ての財産と遺骨を朝鮮で米軍と交戦中の中国人民軍最高司令官朱徳に届け、財産は「自由で強力な中国の建設に役立つことになります」。「遺骨は中国革命のために倒れた人々とともに埋葬されることを願います」と書かれていた。

 さらにウィロビーは1947年4月23日には、「総司令部への左翼主義者の浸透状況」という報告書を提出し、占領軍司令部内に多数の「ピンキー」がいることを明らかにし、徐々にニューディール派が排除されていった。このように日本はウイロビーや冷戦の激化に助けられ、共産主義国家となることが救われた。しかし、現在も日米ともにニューディラー派の歴史観が強く、米国ではソ連のスパイとして5年の刑を受けたヒスを民主党や、『ニューヨークタイムズ』などの新聞は「反共主義と戦ったリベラルの英雄」とし、日本でも「共産党員だとの噂も流れたダイクは民政局長ケーディスと共にGHQで最もリベラルな人物だったといわれ、日本の民主化の基礎づくりの上で大きい役割を果たした」と称えられている。

 そして、48年にケーディスが帰国すると「かれの離日は改革派の低落をいよいよはっきりさせる。日本は『逆コース』の時期にはいるのである」。「反共の国内体制のための心理的準備はこうして着々とととのえられ、アメリカが偉大な自由の伝統を自ら骨抜きにし、城塞国家の病的なメカニズムに自らの運命を任してゆく一コマがここに見えるのである」と書かれた。また、世界革命を夢見て日本を大東亜戦争に誘導し、国を売ってソ連に情報を送り、日本に悲惨な敗戦をもたらした尾崎秀実は反戦運動や反体制運動の英雄とされ、2003年には尾崎を平和の戦士と称える映画が作ら、多摩のゾルゲの墓には「戦争に反対し世界平和のために生命を捧げた勇士ここに眠る」と書かれている。また、米国では引き受ける出版社がなかったスメドレーの朱徳将軍の伝記『偉大なる道』は、岩波文庫が引き受け世界で初めて出版され、さらに石垣綾子は『回想のスメドレー』を書き、スメドレーを言論弾圧に立ち向かった勇気ある女性と称えている。
祖国日本はコミンテルンの歴史の闇夜で冬眠中、春の目覚めは未だ遠い。