コミンテルンに嵌められた大東亜戦争
大東亜戦争に突入せざるを得なかったのには多くの要因があるが、コミンテルンの謀略との視点から見ると、そこには現在にも通じる多くの教訓が見出せる。
戦前の大東亜共栄圏、更に現在進められている東アジア共同体構想等について、京都大学の中西輝政教授と元海上自衛官(海将補)の平間洋一元防衛大学校教授に山田惠久本紙主幹が聞く。
「近衛らは左翼の敗戦革命にやられた」-中西輝政氏 「コミンテルンに踊らされた政府」-平間洋一氏
●Takashi
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世界共産主義から一国共産主義へ
山田 先ず歴史的経過の実証説明から入りたい。
戦争に反対していた第二インターナショナルを構成していた各国の社会主義政党(当時、共産党はなかった)は、第一次世界大戦が勃発すると、党員が自国の戦争を支持したため瓦解してしまった。このようなことから1918年の十月革命でレーニンの率いるボリシェヴィキ政権が成立すると、ボリシェヴィキ政権は19年3月に21カ国の代表者を集め第三インターナショナル、所謂コミンテルンを設立した。
革命早々にこのような組織を創設したのは、武力革命により政権を奪取したことから資本主義諸国から干渉や反撥を受けたため、「ロシアの偉大なるプロレタリア革命を全面的に支持し、資本主義体制を打倒し、全ての階級を完全に廃止し、プロレタリアート独裁とソ連を盟主とした国際ソビエト共和国を樹立しよう」と呼び掛けた。
中西 当時はロシア革命の成否がドイツ革命にかかっていた。
1920年3月、ドイツ共産党はコミンテルンの指導の下に武装蜂起をしたが、完全に失敗し35万人の党員が二週間で15万人に激減。
ここにドイツ革命の展望は全く失われた。
ドイツに次いで革命情勢が切迫していたイタリアでも敗北し、その後新しいソビエト共和国が生まれないという条件の下では、唯一つ残ったソ連を全世界の共産党員が献身的に支持するということに変えられた。
コミンテルンは世界革命を遂行するための組織から、ソ連を擁護するための国際組織に変貌したのである。
レーニン歿の1924年から、世界革命を志向するトロッキーと、一国社会主義者のスターリンの間で党内闘争が始まり、1927年にトロッキーが除名され、この変貌がいよいよはっきりしていく。
第六回コミンテルン大会のブハーリン議長の基調報告では、「世界プロレタリアートの三つの本質的任務は来たるべき帝国主義戦争の危険に対する闘争、中国革命の防衛、ソビエト連邦の防衛である」と述べるまでになった。
世界のプロレタリアにとって自国の革命は「本質的任務」に入らなくなってしまったのである。
平間 19年10月にボリシェヴィキ政権から、帝国主義打倒、民族自立等を支援する「ロシアと東洋の全労働者と回教徒へ」の宣言が発せられると、これに応じて朝鮮では三・一独立運動、中国では五・四運動等の反日運動が活発化した。
一方、ドイツやポーランド等の革命が挫折すると、コミンテルンは軍閥が割拠し、四分五裂(しぶんごれつ)の中国を革命の輸出先として重視し、20年にはコミンテルンの東方部長のヴィオインスキーを派遣し、中国各地に共産党支部を結成させ、21年には民族植民地担当のヘンドリック・G・マリーンを派遣し、七月には上海で陳独秀に第一回中国共産党大会を開催させた。
更に22年3月に孫文の合意を得ると、10月には政治顧問のミハイエル・M・ポロジンを派遣、24年1月の国民党大会ではソ連と連携する「連ソ容共」方針を採択させ、共産党員を国民党政権内に入れ、内部から国民党を乗っ取ることとした。
山田 コミンテルン第二回大会では、各国共産党はロシア共産党に服従させるなどのコミンテルン加盟条件の21力条の要求を決めている。
平間 日本での革命が難しいと判断したコミンテルンは、資金と指導者を重点的に中国に向け、25年には上海共同租界の日本の紡績工場で五・三〇事件を起こさせた。この事件はソ連領事館内に事務所を持つコミンテルンの工作員チェルカソフが仕掛けたもので、43万ドルの資金を投じたという。
続く27年には南京の日本領事館を襲い、8月の南昌蜂起、11月の広東蜂起を起こさせた。又、28年に斉南事件等の過激な行動や武力蜂起を強制したが、この年はスターリンとレオ・トロッキーの一国共産主義か世界共産主義かを巡る路線の対立や、蒋介石の反共クーデターがあり、更に蜂起したインドネシア共産党が完全に崩壊してしまうなどの不手際が続いたため、スターリンはトロッキーを中心とする反スターリン派に対して、第十五回全ソ連共産党大会迄に目に見える成果が欲しかったからであった。
中西 関東大震災後の大量逮捕で打撃を受けた日本共産党は1926年に再建され、27年には「日本に関する決議」がなされたが、この27年テーゼでは革命という大義のためにはブルジョア道徳には捉われない、革命のためなら強盗も殺人も許されるというものであった。
32年には天皇制打倒、寄生地主と財閥の打倒、戦争反対の32年テーゼが指示されたが、32年テーゼで注目されるのは、戦争反対を掲げた。
それはソ連に刃向かう戦争であり、ソ連との戦争が始まれば各国の共産党員はソ連のために銃をとって反動的な政府と戦い、赤軍を解放軍として迎い入れよ。又、資本主義が資源や利益を巡って戦争をするので、反動的な資本主義の政府に対する反乱戦争は平和のための正義の戦争であるとしていた。
しかし、スターリンが「社会ファシズム」論を採用し、社会民主党を共産党に対する最大の敵としたため、ドイツ共産党がナチス党と協力し、社会民主党を攻撃、ヒトラー政権を誕生させてしまった。
平間 一方、東アジアでは日本が満洲国を建国し関東軍が増強されると、1935年夏の第七回コミンテルン大会では、社会主義派から民族独立派、更には保守層迄を含むあらゆる勢力と共闘する方針に変え、世界に共産主義を拡散するのではなく、共産主義者の祖国ソ連を守ることに改められた。
この頃にはスターリンの独裁体制も確立し、世界の共産主義者はソ連の防衛を最大の任務とする一国共産主義が更に強まった。
この時に有名になったのが、「ドイツと日本を暴走させよ。しかし、その矛先を祖国ロシアに向けさせてはならぬ。
ドイツの矛先はフランスと英国へ、日本の矛先は蒋介石の中国へ向けさせよ。
そして戦力の消耗したドイツと日本の前に、最終的に米国を参戦させて立ちはだからせよ。
日独の敗北は必至である。
そこで、ドイツと日本が荒らし廻わって荒廃した地域、つまり、日独砕氷船が割って歩いた後と、疲弊した日独両国をそっくり共産主義陣営に頂くのだ」という砕氷船理論です。
山田 所謂「砕氷船テーゼ」だ。コミンテルンの28年テーゼ発表の年、昭和3年10月に石原莞爾が満洲に赴任し、その11月に東京朝日新聞社はゾルゲスパイ事件の主役、尾崎秀實記者を上海に派遣する。
昭和7年、32年テーゼは先ず天皇制打倒、万国労働者の祖国ソ連を防衛、帝国主義戦争の反対を詣謳う一方で、日米英独伊の列強をそれぞれ対立させる方針を決めた。
翌年、満洲介入を阻止された米ソは国交を回復し、両国の当面の敵は日本となった。米国は満洲に魅力を感じており、日本の満洲国経営に反感を持っていた。実際、昭和20年2月の米ソのヤルタ密約で中国を分割支配することを決めている。
続いて昭和10年(1935年)7月から8月に掛けて、第七回コミンテルン大会がモスクワで開かれ、日本を対象にした「反ファッショ人民戦線戦術に関する決議」を採択し、赤色革命を各国に輸出することになる。
人民戦線戦術とは共産主義者でない者を上手く取り込んでいくというもの。
中西 又、この人民戦線戦術によりフランスやスペイン等に人民戦線政府が樹立されるが、この人民戦線戦術により、治安当局がコミンテルンの指示を受けている共産党員か、騙され踊らされている、或いは踊っている共産党員以外の社会主義者、それにシンパ等が区別出来なくなり、共産党以外の社会主義者やシンパ等を逮捕したため、現在では、「思想弾圧であった」と強い反撥を受け、コミンテルンをタブー視しコミンテルンの謀略の告発が逆に「謀略史観」として日本では葬られてしまった。
中国共産党も人民戦線戦術を受けて「抗日救国宣言」と言われる「八・一宣言」を発布している。これに基づき成都、漢口、北京、上海で日本人が次々と襲われ多数殺害された。そして、昭和11年12月12日には西安事件が起き、国共合作が成立した。
平間 西安事件で蒋介石が監禁されたとの知らせを受けると、スターリンは周恩来に電報を打ち、「張学良では器量不足だ。張学良では抗日戦を指導出来ない。
蒋介石は憎むべき敵ではあるが、抗日戦ならば中国共産党も合作者として容れるだろう」と国共協力を指示した。
そして、第二次国共協力体制が構築され、その半年後の一九三七年七月七日には劉少奇が抗日救国学生を使って日支両軍に発砲させ、盧溝橋事変が発生、共産軍と蒋介石軍とが共に抗日戦争を戦うことになった。
山田 コミンテルンは翌8日、日支の全面衝突を指令している。驚くほど早い反応だ。ほかに14日説もあるが、いずれにしても早い。近衛は「爾後、国民政府を対手とせず」と発したが、実際は泥沼化を避けたく日本は休戦交渉を重ねるが、その都度、コミンテルンの妨害を受け中断させられている。
茅野長知と国民政府の孔詳煕行政院長との間で休戦の締結寸前迄いくが、尾崎や朝飯会の松本重治同盟通信社上海支局長によって妨害されてしまう。休戦については、板垣陸相も賛成していたが。
中西 コミンテルンが盧溝橋事件を演出したこともほぼ間違いない。明らかに、共産勢力は国民政府軍と日本軍を相討ちさせ、共倒れを狙った。20年代、上海でのコミンテルンの動向は英情報部MI6による「マスク作戦」でかなり判明しているので、この時期の英情報史料の研究も必要ではないか。
平間 共産勢力はその後もパルチザン的行動を繰り返し、7月末には通州事件等で日本人を虐殺したが、32年1月には日蓮宗の僧侶襲撃事件から第一次上海事件、次いで37年8月には、今度はドイツの武器で軍事顧問団に教育され自信をつけた蒋介石側から大山勇中尉虐殺事件を起こし、第二次上海事変、南京攻略へと連なって行った。
中西 大山大尉事件は上海南京軍区の張治中司令官の命令で射殺されたが、ユン・チアン共著の『マオ』によると、張治中は共産党への入党を申請したが、蒋介石軍内に留まることを命じられ、張が共産党に入党したのは蒋介石が台湾に脱出した後であった。
37年6月4日に近衛文麿内閣が発足する。この内閣の組閣に参画したのが昭和研究会を主宰した後藤隆之助。特に左翼の風見章は内閣書記官長に抜擢され、尾崎秀實は内閣嘱託に就任した。この風見は戦後に左派社会党に入党し、護憲運動、日中・日ソ国交回復運動の推進者として活躍している。
米政府にもコミンテルンが潜入
山田 コミンテルンを考える場合に、米国、特にルーズベルトやルーズベルト政権への影響をも考慮すべきではないか。
中西 最近、米英露ではコミンテルンの内情を暴露した「ヴェノナ文書」や「ミトローヒン文書」等の秘密資料が次々と公開されている。「ヴェノナ文書」によるとルーズベルト政権内に二百人以上のソ連スパイがいたことも分かった。
米ソ関係に大きな影響を与えたルーズベルト側近のアルジャー・ヒス、対日参戦に大きな影響を与えたモルゲンソー財務長官のハリー・ホワイト補佐官、米中関係ではウデマイヤー軍事顧問団長の政治顧問ジョン・ディヴィスやジョン・サービス等がいた。
ウデマイヤーはこれらの人物は共産主義者、或るいはシンパで「中国の共産主義者に共鳴していたのみならず、あらゆる方法で米国と中国の間に不信の念を起こさせようと努め、国民政府に関しては誇張された偽りの共産主義者の息の掛かった報告書を意識的に、或るいは無意識に播き散らしていた」と書いている。
我国の場合、獄中転向組を含め擬装愛国者は口を開くと「天皇陛下万歳。鬼畜米英を排撃する聖戦を」と言うが本心は全く別である。現在もこれに似た動きもあり警戒を要する。
山田 ルーズベルトは容共的であったが、特にエレノア夫人は上海で尾崎とも関わっていた米国共産党書記長アール・プラウダーの保釈に動くなど容共派として有名だ。又、スパイ容疑で五年間の刑に服したアルジャー・ヒスは代表的なスパイだが、この他にピンコと呼ばれるモスクワ派のシンパも多く、三〇年代には擬装して人民戦線的な役割を果した。
後に、ジョージ・ケナンや進駐軍情報部長のチャールズ・ウィロビー少将は強く懸念した。
中西 この他に米国の世論を動かしたのに多数のジャーナリストがいたが、フランクフルター・ツァイトング紙の記者を称したアグネス・スメドレーは、朱徳の伝記『偉大なる道』、『中国紅軍は前進する』、『中国は抵抗する』、『大地の娘』を書いている。
尾崎はスメドレーと上海で知りあい、彼女の紹介でリヒャルト・ゾルゲを知るが、スメドレーの周りには後に米国共産党書記長になるアール・プラウダーもコミンテルンから派遣されていた。いずれにせよ、日米両国の政府中枢にソ連のスパイが大量に入り込んでいたことは事実だ。
平間 エドガー・スノーは西洋人として初めて毛沢東と会見し、『中国の赤い星』を書き中国の共産主義はソ連の共産主義とは全く異なる。支那の共産主義者は大衆を貧困から救う為に、単に大土地所有制度を改革しようとしている近代化論者に過ぎない。
毛沢東はジェファーソンのような人物であるなどと毛沢東を讃美したが、ユン・チアンの『マオ 誰も知らなかった毛沢東』によると、スノーは毛沢東から総ての資料を提供され、原稿は総て点検を受け修正させられていたという。
山田 『極東戦線』や『中国の赤い星』を書き、毛沢東の茶坊主だったエドガー・スノーについて、最近、未亡人は低い評価をくだすなど批判している。
平間 尾崎は上海でスメドレーと知りあう。彼女の裏に、ゾルゲがいた。
中西 スメドレーがソ連・コミンテルンの工作員だったことは、近年の史料で百パーセント確証されました。しかし生きている間は最後までシラを切り続けた。一九五〇年五月六日にイギリスでの手術が成功せず急逝した。
遺書には「私は米国のファシズムを呪い、米国の国会、軍事力、その他あらゆる官僚代表に向かって、崇りあれと唇にしながら死にます」と。
「総ての財産と遺骨を中国人民解放軍最高司令官朱徳に届け、財産は自由で強力な中国の建設に寄附します」。
「遺骨は中国革命のために倒れた人々と共に埋葬されることを願います」と書かれていた。
中国共産党はこの遺言通りにスメドレーの遺骨を北京郊外の八宝山革命公墓に埋葬した。最後は「チナミンテルン」つまり中共の重要なスパイ工作員だったということです。
山田 孫文の未亡人、宋慶麗がスメドレーと親しく、スメドレーがルーズベルト米大統領の復心でスパイ仲間のカールソンに告げた。
カールソンは宋慶麗やエドガー・スノーの協力を得て毛沢東のいる延安を訪ねる。
そしてルーズベルトに「中国共産党こそ、孫文の三民主義を継いでいる。武器を国民政府軍に供与すべき」とのレポートを出した。そのまま次のトルーマン大統領にも申し送りされた。
それには宋子文の妹で蒋介石の妻の宋美麗や張学良、周恩来からの強い働き掛けがあった。特に上海浙江財閥の宋子文の功績が大きく、宋家は国民党軍の莫大な戦費の殆どを提供していた。
西安事件で蒋介石が監禁された際、国民党内で王精衛を新しい指導者にしようとするが、王が日支独三国防共同盟の結成を考えていることがスターリンに知られ、流産となった。
平間 東京裁判で日本側弁護団がゾルゲ事件やコミンテルの謀略等を主張し、証拠書類を提出し、特にゾルゲについては八回も提出しようとしたのだが、その都度、ソ連の検事の強い反対に遭い取り下げられている。
ゾルゲのスパイ行為が明らかになるとコミンテルンの政治工作が明らかになるので秘匿し、ゾルゲの名誉回復が行われ、国民英雄とされたのは一九六〇年以降、冷戦末期になってからでした。
山田 米国ではスメドレーの朱徳将軍の伝記『偉大なる道』を引受ける出版社がなかったが、日本では岩波文庫が引受け、石垣綾子は『回想のスメドレー』を書き、スメドレーを言論弾圧に立ち向かった勇気ある女性と讃えている。
又、スメドレーの自殺を白井久也は「米ソ冷戦下の戦略的な宣伝攻勢の一環として、進行中の赤狩りと歩調を合わせ、共産主義者や同調者はいつでも国際スパイになる」と、「一般市民のスパイに対する恐怖心を利用して、反ソ反共の敵愾心を煽り立てる」ことに、大きな狙いがあった。
スメドレーのような人物に「ソ連スパイ」の烙印を押して、社会的に葬り去ることは、トルーマン政権の反ソ反共政策に合致していて、スメドレーは謂わば米ソ冷戦の恰好の「スケープゴートにされてしまった」と書いている。
平間 このように、日米はチャイナハンドと呼ばれる学者やジャーナリスト、宣教師等が、ある者は中国へ同情、ある者は金銭的利益から日米を分断したが、独ソ戦が始まると米国を対日戦争に引き入れようと、米国の共産主義者や同調者も加わり最後にはコミンテルンの息の掛かった「ハルノート」となってしまった。
ここにある平成七年十一月二十一日付の毎日新聞一面トップによると、「日米開戦直前の昭和十六年十一月、ハル米国務長官が日本に突きつけたいわゆるハル・ノートの原案作成者、故ハリー・ホワイト米財務省特別補佐官は、旧ソ連の協力者で諜報工作の対象者だったことが、ソ連国家保安委員会(KGB)の元対米諜報担当者の証言で分かった。
この担当者は当時、自ら米国に赴いてホワイトに接触、ハル・ノートの核心部分にあたる『日本軍の中国からの撤退』などを、メモの形で渡したとも証言した。
日米開戦の直接のきっかけとなったハル・ノートの背後に、旧ソ連諜報機関の関与のあったことが、ロシア側から具体的に明らかにされたのは初めて」とスクープ。
「毎日」の三瓶良一・前モスクワ支局長がKGB(当時NKVD)の担当者、ビタリー・パブロフ氏(81)を取材して判明した。
この米国の対日参戦工作は「白」を意味するホワイトの名を取って「雪作戦」と名付けられたという。
しかし、大東亜戦争で忘れてならないもう一つの視点は人種差別の視点です。
スターリンに追われて亡命したレフ・トロッキーは、米国人に「なぜ、共産主義を嫌うのか。我々は同じ白色人種ではないか。黄色人種の日本を打倒するには、米ソ両白色人種が協力しなければならない。いかに殻が固い日本でも、米ソが協力し両方から押し潰せば割ることが出来る」と、共産主義を忌避する米国人に人種問題を搦めて米ソ協力の必要性を説いた。
日本はトロッキーの言葉のとおり、白色人種米国の「神の摂理」のモンロー主義の力による覇権と、謀略を絡めたソ連・コミンテルンの両国陣営から挟撃されて敗北したという人種的偏見の視点も忘れてはならないでしょう。
ゾルゲ・尾崎秀實事件
中西 愈々、リヒャルト・ゾルゲと尾崎秀實の登場だ。
尾崎はソ連邦防衛のために日本を中国大陸に引き入れようと、昭和十三年五月の「改造」誌に「長期抗戦の行方」という論文で、日中和平否定論を強く唱えた。
平間 ソ連に対するゾルゲの最大功績は日中戦争を最期化して、ソ連の極東の安全を守り、更に日本の北進を阻止してソ連を敗北から救ったことだ。
尾崎はモスクワから政治的活動やソ連邦の宣伝など、諜報活動以外は固く禁じられていた。
しかし、独ソ戦が始まると尾崎はゾルゲに、近衛グループ内で対ソ戦反対を唱えれば、日本の拡大政策を南方に向けることが可能であるとの強い自信を示し、再びモスクワに政治的動きをしたいと許可を求めたが、モスクワの回答は政策に関与することは摘発に連なると否定的であった。
しかし、尾崎はこの制限を破り北進は「近視眼的な誤った行動である。なぜなら日本はそのような戦争をしても、東部シベリアで獲得出来る政治上及び経済上の利益は何一つない」。
「もしドイツがソ連を破れば日本は指一本挙げないでも、シベリアは日本の懐にころがり込むかもしれない」。
「南方こそは進出の価値ある地域である。南方には日本の戦時経済になくてはならない緊急物資がある」。「南方にこそ日本の発展を阻止しようとしている敵がいる」と南進を要路に説いて廻った。
山田 この尾崎の主張に動いた松岡洋右外相はしつこく即時参戦を繰り返し、単独で天皇にまで上奏した。
又、尾崎と密接な関係があった軍務局長武藤章少将や軍務課長佐藤賢了大佐等の陸軍統制派も活発に動いた。
六月六日に大島大使から独ソ開戦概ね確実との電報を受けると、佐藤軍務課長はその夜に省部関係課長を集め南方への武力進出を強硬に主張した。
平間 即時参戦は連絡会議等で認められなかったが、極東のソ連軍が西部戦線に送られ減少する情勢になったならば、北進しようと考える参謀本部は関東軍特殊動員演習、所謂「関特演」を実施し、七月七日に第一次、十六日に第二次動員を行い、普通師団十六、戦車師団二(九月以降)、騎兵旅団一、人員六十五万、戦車六百七十五台、装甲車百五十五台、航空機七百五十機を満洲や朝鮮に集中した。
中西 もし、この時に日本が直ちに対ソ参戦に踏み切っていたらどのようになっていたであろうか。
多くの史家は日本軍の進撃は冬を迎えて止まり、持久戦となって最終的には敗北したとしている。
しかし、サンデイゴ大学のアルビン・クックス教授は四一年にシベリヤの第一線に駐屯していたペトロ・グリゴレンコ司令官の「もしドイツの要請に応じて日本軍が進攻して来たならば、明らかに一大危機に直面したであろう」と。
極東方面軍作戦部長のカザコフステフ少将の「日本がヒトラーに与して参戦していたならば…我々は絶望的だった」との回想を根拠に、四一年夏から秋に日本が対ソ戦に踏み切り、「ソ連が同時に二正面作戦を強いられたらスターリン政権は崩壊し、ドイツが東都戦線で勝利を収めたであろうことは恐らくほぼ間違いないであろう」と述べている。
平間 ドイツ軍の攻勢の前にモスクワは陥落寸前であったが、関特演や国境侵犯事件の増加に、ヨーロッパ戦線への極東軍の移動は制約を受けていた。
しかし、この危機は「フランクフルター・ツァイトウング」紙の特派員で、赤軍情報部第四部諜報員ゾルゲの「情報源のインベスト(尾崎の秘匿名)によれば、サイゴンへの軍事行動計画は変更しないことが御前会議で決定された。但し赤軍の敗北に備えて、対ソ軍事行動の準備をしておくことも同時に決定された。
ドイツ大使オットーも同じようなことを言っていた。日本は参戦するが、それは早くとも七月末か、八月始め頃であり、準備完了次第、日本は直ちに行動を開始することを確信していると、ドイツ武官はベルリンに打電した」との電報と、九月十四日の「オットー大使の意見によると、日本の対ソ攻撃は今は既に問題外となっている。攻撃があるとすれば、ソ連が極東から軍隊を大規模に移動させた場合のみであろう。国家に必ず大きな経済的、政治的な困難をもたらす、巨大な関東軍の維持と大規模な召集の責任について、激しい議論があらゆるところで始まった」との電報で救われた。
これらの報告を受けるとスターリンは極東から狙撃師団三、戦車師団二を引き抜き、モスクワ防衛戦に投入し、それが窮地にあったソ連軍を救い、ヒトラーのその後の戦争指導を大きく狂わせ、ドイツ敗北の大きな要因の一つともなった。
中西 いかにゾルゲ情報が貴重であったかは、一九六四年十一月五日にソ連邦最高会議幹部会から「ソビエト連邦英雄」の称号が与えられ、中央軍事博物館には「日本政府がソビエトを攻撃しないという貴重な情報を伝えた」と、ゾルゲの写真や勲章が展示されモスクワの地下鉄駅ボレジャーエフスキー駅近くの公園に巨大なゾルゲの銅像が建てられていることからも理解出来るであろう。
山田 尾崎は近衛内閣の嘱託で元朝日新聞の記者で、尾崎の情報源には朝日新聞も大きく関わっていた。このためゾルゲ事件が表面化すると、田中慎次郎政経部長が尾崎と特に親しかったことから退社処分とし、上司の緒方竹虎編輯長を解職した。
しかし、戦後、朝日は田中を復職させている。
中西 日本国内では、近衛公の周辺には擬装転向者が多数群がっていた。昭和十六年十一月七日に内務省警保局が作成した「尾崎秀實情報蒐集一覧表」を見ると、これらの人々が我国の国益を損う利敵行為に繋がることを本人が意識する、しないに拘わらず、結果的にゾルゲの対日工作に加担してしまったことになるが、これらの人の戦争責任は余り追及されていない。
尾崎のネットワークは外務省、内務省、陸軍統制派・南進派、満鉄調査部、企画院、興亜院、昭和研究会、朝飯会、東京朝日新聞社、東亜同文書院、昭和塾、霞山会など広範囲に亙っていた。
山田 特高警察を七年間務めた内務省警保局の三田村武夫元衆院議員の『戦争と共産主義』、後に『大東亜戦争とスターリンの謀略』と改題されて自由社から出版され、これに詳述されている(三面に広告掲載)。
その本の序文に、開戦の詔書に副書した岸信介は「読む程に、思わず、ウーンと唸る」「共産主義が如何に右翼・軍部を自家薬龍中のものにしたかがよく判る」と述べている。
この他にも中西先生が「諸君!」九月号に書いた満鉄調査部から農事合作社へ出向した佐藤大四郎がいる。佐藤大四郎は日本軍の食糧兵站について、シベリアでは農畜産調達は不可能、という報告書を提出している。佐藤は尾崎と気脈が通じていたのか。
中西 佐藤は高校生の頃、日本共産党に入りその系列組織の共産青年同盟の機関誌の編集長を務めていた。後に三・一五事件で検挙され、獄中転向したことになっていた。
山田 尤も、満鉄調査部は″アカ″の巣窟だった。
中西 尾崎は、近衛内閣の嘱託の任に就くと、どんどん隠れ共産主義者を多数、満鉄調査部に送り込んだ。
山田 昭和十六年六月、満鉄東京本社内で尾崎は後輩の朝日新聞・田中慎次郎政経部長から陸海軍首脳会議で「当面、対ソ戦を見送り、南部仏印に進駐する」と決定したことを入手し、ゾルゲを通じてモスクワに連絡した。
話は飛ぶが、最近の事だが日露歴史研究センター発行の資料によると、平成十二年九月に「ゾルゲ事件日露シンポジウム」がモスクワのロシア平和擁護委員会で開かれ、元対外諜報員のセルゲイ・コンドラショフ中将や国防省戦史研究所幹部、ロシア連邦海外防衛対策評議委員会のフヨードロフ政治対策本部長と、白井久也同研究センター代表が出席し討議した。
白井は元朝日新聞モスクワ支局長で、親ソ派の故松前重義に請われて、現在、東海大教授を務めている。シンポジウムでは登壇者はこぞって、ゾルゲと尾崎秀實を称讃している。
平間 世界革命を夢見て日本を大東亜戦争に誘導し、ソ連に情報を送り日本に悲惨な敗戦を齎した尾崎秀實を朝日新聞は軍国主義に立ち向かった英雄とし、兄の奥さんを不倫で横取りした尾崎が、この妻に獄中から書いた手紙を『愛情は降る星の如く』に纏め夫婦愛を讃え、更に反戦運動や反体制運動の英雄としたが、平成十五年には篠田正浩監督が映画「ゾルゲ事件」を制作し尾崎を平和の戦士と讃えている。
尾崎の裏切りが日本を悲惨な大東亜戦争に導き、満洲の野に多くの邦人の骨が埋められたが、尾崎・ゾルゲ事件犠牲者救援会が建立した多摩のゾルゲの墓には、「戦争に反対し世界平和のために生命を捧げた勇士ここに眠る」と書かれている。どう考えても私には納得がいかない。
中西 尾崎は一見、有能なジャーナリストであったが、スターリンがバルト三国を併合し、フィンランドに武力侵攻し、国内では暗殺、粛清、強制労働等を繰り返し、国際共産主義運動が独裁国家のソ連を守るだけの運動に変化していたのを見ようともしなかった。
又、「尾崎が世界平和を願い日本の軍国主義に抵抗した」とされているが、尾崎の情報でノモンハン事件を始め、先の戦争でどれだけ日本軍が血を流したであろうか。
尾崎の夢見た世界の共産主義化がアジアの人々に無用の血を流させたであろうか。
陸軍皇道派と統制派
平間 第一次大戦後の世界情勢はマルクスが分析したように展開したかにみえたが、マルクスの希望的観測は裏切られ、勝利を納めたのは右派の過激イデオロギーであった。
各国でソビエトこそ我が祖国と信ずる世界革命派は、次々に政治的に敗退し民族主義的右翼革新派が政治的ヘゲモニーを握っていく。
一九三〇年代の後半に至って、コミンテルンは攻勢的世界革命運動を中止し、一転して防衛的な反革命運動を展開する。
これが人民戦線戦術で民族主義的イデオロギーに対抗するため、コミンテルンも民族主義的要素を取り入れたが、これでは連合国との協同戦争を阻害するとして解散してしまう。
日本においてこの右翼革新イデオロギーは、青年将校達の心を捉え、「農村の窮乏見るに絶えず、支配層の腐敗聞くに絶えず」と感じた彼等の運動が軍部に政治へのヘゲモニーを取らせるに至った。
中西 ロシア革命の例を見るまでもなく、暴力革命は国家の暴力機構である軍隊を手中に入れなければ成功しない。
ロシア革命では兵士ソビエトが軍隊を、政府の軍隊から革命政府の軍隊に変え、武装した労働者と結合して革命の軍事力となったのである。
社会が構造的危機に見舞われた時には、必ず軍部の内部にも動揺が起きる。その動揺をどちらが掴むかで、革命の帰趨が決するが、日本で軍人の動揺を吸収したのは、左のイデオロギーではなく、右のイデオロギーだった。
一般には両極端と思われる右と左の過激イデオロギーもある点では極めて近かった。
平間 尾崎に心ならずもか、或いは心から同調したかは別として、結果的に統制派という陸軍の革新将校、更には企画院や大東亜省の官僚、外務省の革新官僚等が利用された。
この革新将校を語る前に二・二六事件に蹶起した青年将校の間で廻し読みされていた『日本改造法案大綱』を書いた北一輝とは何者なのであろうか。北は「支那ヲ自立セシメタル後ハ、日本ノ旭日旗ガ全人類ニ日ノ光ヲ与フベシ」と、日本が有色人種のリーダーとしてオーストラリアやシベリアを「将来取得」し、これらの「所領土」では「異人種異民族ノ差別ヲ撤廃シテ、日本自ラ其ノ範ヲ欧米ニ示スベキ」である。
クーデターで政権を握り戒厳令を敷いて憲法を停止し、特権階級を廃止し、産業の国有化や国有財産の国民への分配を主張した。北は共産主義者か、国家主義者か、アジア主義者かなど判らないところがある。又、陸軍の統制派を思想的に、どのように規定するのかも難しいですね。
中西 社会大衆党の麻生久が「少壮軍人等はファッショに非ず、寧ろ社会主義者なり」と指摘している通り、彼等は国家社会主義に傾倒していた。
山田 北の著書『国体論及純正社会主義』の「所謂国体論の復古的革命主義」の項は、思想的には共産主義と殆ど変わらない。
そこには「天皇は神道的迷信の捏造による土偶」 「国体論は天動説的である」といい、至る所に天皇を平民化する試みが見受けられる。
北一輝は万世一系、天皇主権、君臣一家、忠孝一致を悉く拒否しており、軍人勅語の精神を尊重する蹶起将校とは本来、相容れられなかった筈なのだが。
又、北一輝は日本の革命を諦めて武漢革命に身を投じる。
北の著書には、安部磯雄が著した『国家主権論』を模倣したのではないかと思われる箇所が多く見受けられる。
只、二・二六事件に蹶起した磯部浅一は逮捕された際、どういう訳か「ソヴィエト革命武装暴動指導要領」を持っていた。磯部は獄中日記の中で、天皇は二・二六事件蹶起の意図をご理解されておられないとして「陛下をお叱り申し上げます」と畏多いことを述べている。
平間 革新将校は頂点に天皇を仰ぐが、その他の面は殆ど共産・社会主義と同じ考えだから、そこに大きく突け込まれてしまう。大変な間違いだった。
所謂天皇制的意識構造が国民各階層の皮膚の下まで染み渡っている事大主義の国では、民主集中の政治体制が比較的受け入れやすい。歴史をみても民主主義の伝統が強い西欧諸国の共産主義運動は、必ずしも成功しなかったが、ドイツやハンガリー、中国等の君主国では、民主集中制の原則がスムーズに受け入れられている。ここらにも問題があるのではないか。
二・二六事件で殺害された内大臣斉藤実に山本英輔大将が送った手紙には政治が乱れ財閥が全盛横暴を極め、陸軍上層部迄もが政争や権力闘争に明け暮れているのを見ていた正義感の強い若い将校が、「ファショ気分トナリ」、これを「民間右翼、左翼の諸団体、政治家、露国ノ魔手、赤化運動」が策動している。
これが「所謂統制派トナリシモノナリ」、表面は大変美化されているが終局の目的は社会主義で、陸軍のパンフレットは「其の真意ヲ露ハスモノナリ」。その「最終ノ目的点ニ達スレバ資本家ヲ討伐シ」、あらゆる組織を「国家的ニ統制セントスルモノ」で、それは「ソ連邦ノ如キ結果トナルモノナリ」。
しかるに重臣や政府は天皇に忠実を尽くすべしとする皇道派を支援せず統制派を援助している。民間各種団体も「自己ノ欲望又ハ主義野望ヲ達セソガ為メ仮装偽装シテ」取り付き、このため「血気ノ将校ハ一刻モ早ク」祖国を救おうと、「無我夢中ニ飛ビツクコトモアルベク赤化運動ノ乗ズル所此ニアリ」との報告を送っていた。
中西 共産党も一九三五年のコミンテルン第七回大会で、従来のセクト主義から、人民戦線戦術へ大転換した時に、社会大衆党を日本における人民戦線の中核に据えようとした。その事もあって一九三七年の人民戦線事件では、社会大衆党から多数の検挙者が出たのである。
平間 しかし、昭和十二年以後の社会大衆党は、支那事変を契機に右傾化していった。一九三〇年代の日本は、恐るべき流動状況にあったために、どの政治党派をとって見ても、どの時期であったかによって性格が全く違う。
共産党にしてからが、昭和十一年以前と以後では全く性格が変っている。
コミンテルン七回大会の人民戦線テーゼを受け入れてからの共産党は、それまでの共産党を痛切に自己批判し、野坂参三がコミンテルンの第十三回プレナムで行った「日本に於ける勤労大衆の革命的闘争」という報告演説で、「労働運動、農民運動、学生運動、反戦・反軍運動の成果を過大に報告し、革命的兵士が指揮官に反抗し、彼等の部隊を赤軍の部隊に変え、武器を天皇に向ける事は、全然夢想ではない」と分析し、再度「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」のスローガンを強調している。
山田 私自身のことで恐縮だが、私は学生の頃、昭和史を研究していてソ連の東漸政策に警戒しつつも、昭和初期の資本主義社会の矛盾、富の偏在による不平等さを知ると、統制経済止むなしと思った。
国家意識なき財閥に嫌悪感を抱き、水戸光圀公の「国基在農」など国民皆農論や農本主義にも同調した。又、君側の奸や野心旺盛な軍部首脳、特権階級をクーデターで倒し変革せしめ、天皇と民の間に漂う暗雲を払い、王道楽土、五族協和の大東亜共栄圏の建設と欧米列強に抑圧、搾取されているアジア植民地の解放が最も正しいことだと思っていた。
夢見ているような青臭い正義感だけでは、一枚も二枚も上の共産主義の謀略組織にやられてしまう。
中西 日本人がアジア主義に抵抗感がなく、寧ろ憧れるのは極く自然の感情だ。アジア主義は岡倉天心の「アジアは一つ」との言葉で、当時の日本人は民族協和の夢を見たのだが、大きな間違いだった。
確かに日本と支那、朝鮮とは同じ東アジア圏にあるが、物事の考え方、感情を始め文化、習慣、歴史、伝統、精神が全く異質なものだ。
山田 当時の「改造」「中央公論」に数多載っている岡倉天心の息子、古士郎は尾崎事件で警察の取調べを受けた日本共産党員だった。
朝食会の鳩山政道も「改造」誌上に「大東亜共栄圏の地政学的考察」を投稿している。
平間 このアジア主義はドイツの地政学者ファウスホーハーの『アジア太平洋地政学』の影響もあったのではないか。
これに対して石橋湛山は日米ソ中の連携を主張し、中国との長期戦を回避するよう「小国日本主義」を展開している。
山田 大川周明はコミンテルンとどこかで繋がっているのではないかとフッと思うが。
平間 大川の根底にあるのは欧米の帝国主義に対する強い反撥であり、アジア主義者であり、インドやアラブ民族等との連携を主張しており、地政学的にはユーラシア連携論者です。
思想的には反アングロサクソンの観点からコミンテルンとの繋がりもなしとはしないが、基本的にはアジア主義者であったと思う。
大川周明のアジア主義は日支提携の「東アジア主義」ではない。支那の彼方に広がるインド、イラン、アラビア、トルコ迄を視野に入れた「大アジア主義」です。
それは日本、インド、イスラムによって対支包囲網を構築し、同時にアジアから白人帝国主義勢力を放逐するという、世界史的視野に立脚した壮大な地球儀的ヴィジョンだった。
ここに、日本が模索すべき生き残り戦略への一つの鍵があるように私は思う。
近衛文麿総理と戦争責任
中西 たしかに、我国をあの愚かな戦争に導いた第一の責任者は、近衛文麿総理であることは明白だ。しかし、一つ分からないことがある、木戸幸一の役割だ。
平間 近衛は上奏文や天皇の戦争責任回避という視点から評価すべきではないか。
近衛上奏文には「少壮軍人の多数はわが国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く」、これら軍人を「共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候」。
「満洲事変、支那事変を起こし、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、是等軍部内の意識的計画なりしこと今や明確なり、満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候」。
支那事変当時に「事変永びくがよろしく、事変解決せば国内革新が出来なくなると公言せしは、此の一味の中心的人物に御座候」。
「是等軍部内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部新官僚及民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は、意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人之に踊らされたりと見て大過なしと存候」と書かれていた。
ここで「何者か」とは国体の衣をまとった共産主義者とシンパ、米国で言うピンコであり、陸軍統制派であり、革新官僚であり、「眼に見えない力」とはコミンテルンの力、影響と言うことだ。
山田 木戸幸一は昭和天皇に具申する者の内、木戸と意見の合わない者は一切拝謁させなかった。君側の「側」の奸である。木戸は近衛公を追い落としたかった。近衛公を追い落とせば自分が西園寺公のあとを継げると考えていた。丁度、吉田茂と鳩山一郎の関係だと近衛上奏文の提出に奔走した岩淵辰雄記者は後に書いている。
平間 木戸孝一は統制派の東條英機、南次郎、小磯国昭、武藤章等を支持していた。一方の近衛は皇道派の荒木貞夫、真崎甚三郎、小畑俊四郎などと親しかったが、木戸と近衛の運命を大きく変えたのが「近衛上奏文」であった。
木戸の姪と結婚したのが第六高等学校、現在の名古屋大学を左翼運動で退校となった都留重人であり、都留は放校されるとハーバード大学に留学しコミンテルンとの関係が深い「アメレシア」の編集室にも出入りし、ハーバード・ノーマンに「模範的コミュニスト」と評価され、彼とも親しい関係にあって、このため木戸は戦犯として尋問されるが、バロンの敬称で尋問を受けた。
一方、近衛が呼び出されたのは東京湾に浮かぶ軍艦の一室、プリンスの敬称はなく、ミスターとしか呼ばれなかった。この近衛と木戸の呼称の差に私はノーマンと都留の陰を感じるのだが。
中西 このノーマンは戦前、羽仁五郎に日本歴史を学んだカナダ人で、日本の敗戦後にはGHQ対敵諜報部の課長として来日し、近衛上奏文に表れている反共姿勢や懴悔が面白くなく、戦犯として法廷に引っ張り出そうとし近衛を自殺に追い込んだ。ノーマンは戦後、初代駐日カナダ大使を務めた。
山田 都留の夫人が木戸の姪ということもあって木戸幸一は訴追を免れた。都留は米政府の戦略爆撃調査団に潜り込み、協力もしているという。こんな売国奴で共産主義者が木戸内大臣の親戚とは間題だ。都留は後に一ツ橋大学の学長にもなっている。
ノーマンはマッカーサー元帥に助言してマッカーサー指令を出させる。パージや神道指令を始め、徳田球一ら主に共産党員の釈放を積極的に行った。
平間 その後、ノーマンは五三年には駐ニュージーランド高等弁務官に任命され、五六年には駐エジプト大使に栄転したが、都留要人を取り調べたFBIの調査官により、共産主義者との疑いを掛けられると、五七年四月四日にカイロで飛び降り自殺を遂げた。
「ベノナ文書」や当時の関係者の証言などから、ノーマンがソ連と繋がりがあったということは濃厚であるが、カナダ政府は二〇〇一年には在日カナダ大使館の図書館をE・H・ノーマン図書館と命名しノーマンの功績を讃えている。
中西 近衛公の反米的姿勢が結局、尾崎につけ込まれた。
山田 戦後、近衛文麿は天皇とマッカーサーの信を得て、新憲法草案を任される程だった。しかし、近衛公は首相の時に尾崎秀實等に編され、戦後、ノーマンにしてやられる。近衛は開戦と敗戦に関して誰よりも自身に重い責任があることを知っていた。そして、天皇に責任が及ばないようにと巣鴨プリズンに収監される前に青酸カリを飲み自殺した。
平間 近衛は皇道派と木戸は統制派と親交があり、二・二六事件を境に皇道派が追放され、その後の昭和史は統制派の人物により、最終的には敗戦へと導かれたともいえる。
我々は皇道派と統制派の関係を陸軍内部の権力闘争と捉え、皇道派を神懸かりな精神主義者、統制派を理性的、進歩的なグループであったと誤解しているが、この統制派の昭和史、或いは木戸史観の昭和史の見直し、山口富永氏が「二・二六事件」を見直せ、と本紙で論じているが、埋没された近衛を囲む皇道派の視点から昭和史を見直せば、近衛の自殺の真意や隠された真実の昭和史が見えてくるのではないか。
敗戦革命と統制派
山田 歴史研究の再構築という視点に立つと、敗戦で注目されるのが終戦時に陸軍が天皇陛下を戴いて、一挙に敗戦時の混乱を利用してソ連型国家を打ち立てようと、レーニンの敗戦革命に似た動きがあったと言われているが、この問題は殆ど取り上げておりませんね。
中西 原点に戻るが、一九三五年のコミンテルン第七回大会に「人民戦線戦術」が出され、「反戦テーゼ」が指示されたが、この反戦テーゼは日本の隠れ共産主義者たちに、次のようなメッセージとなった。
資本主義が無くならなければ、戦争は無くならない。真の反戦平和のためには資本主義体制を顛覆して、世界革命を起こすことが必要である。資本主義を転覆するために、革命のための内乱・内戦、社会主義国家の資本主義国家に対する戦争。
植民地の被抑圧民族の帝国主義国家に対する民族解放戦争が必要である。帝国主義国家のプロレタリアートは戦争が始まるまでは戦争の防止のために全力を注ぐが、戦争が一旦始まったら、自国のブルジョア政府の敗北のために全力を尽くし、戦争を内乱に転化し、革命成就のために闘え。
しかし、戦争の相手がソビエト同盟、或いは植民地人民であれば、自国政府の敗北のためばかりでなく、相手側の勝利に全力を尽くすべきである。なぜならソビエト同盟は、世界のプロレタリアートの祖国だからである。
平間 このようなコミンテルンの戦争観の影響を受けたのでしょうか、参謀本部戦争指導班長で首相補佐官の松谷誠大佐(後、陸将・防衛大学校幹事)が、敗戦後の日本再建計画を太平洋調査会のメンバーに依頼したが、この日本再建計画作成時の判断を次のように書いているが、これこそ敗戦革命ではないか。
松谷は「スターリンは独ソ戦後、左翼小児病的態度を揚棄し、人情の機微に即せる左翼運動の正道に立っており、したがって恐らくソ連はわれに対し国体を破壊し赤化せんとする如きは考えざらん。ソ連の民族政策は寛容のものなり。右は白黄色人種の中間的存在としてスラブ民族特有のものにして、スラブ民族は人種的偏見少なし。
されば、その民族政策は民族の自決と固有文化とを尊重し、内容的にはこれを共産主義化せんとするにあり。よってソ連は、わが国体と赤とは絶対に相容れざるものとは考えざらん。ソ連は国防・地政学上、われを将来親ソ国家たらしむるを希望しあるならん」。東アジアの「自活自戦態勢の確立のために満洲、北支を必要とするとともに、さらに海洋への外核防衛圏として日本を親ソ国家たらしめんと希望しあるならん。
戦後、わが経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿るべく、この点より見るも対ソ接近可能ならん。米の企図する日本政治の民主主義化よりも、ソ連流の人民政府組織の方が将来日本的政治への復帰の萌芽を残し得るならん」-。
山田 彼等の考えは、プロレタリアートに民族国家的祖国はない。世界のプロレタリアートは一体である。世界革命が成れば、世界に国家は無くなり、国境は無くなる。
ソ連こそ世界のプロレタリアートの祖国である。現在世界にプロレタリアート国家として存在するのは、ソ連のみである。したがって世界のプロレタリアートはソ連を祖国とし、ソ連のために行動する。その行動がやがて革命を世界に広げ、世界プロレタリアート国家を実現する。こう考えれば「国賊」或いは「コミンンテルンの手先」と呼ばれようと世界革命遂行のためならば、との感情も生まれた訳だ。
中西 コミンテルンは日ソ戦が起きたら、日本が敗北しソ連が勝つように全力を尽くし、赤軍の攻勢に呼応して内乱を起こし、現在の政権を打倒せよ、赤軍の協力を求めよというのだから、これは「第五列」の定義そのままの行動を企図していたのである。
平間 私は拙著『第二次世界大戦と日本海軍』でコミンテルンの陰謀を明らかにし、「革新官僚や革新外交官、陸軍統制派がコミンテルンに踊らされた」と書いたら、ある学者から「それなら統制派を重用した昭和天皇もコミンテルに踊らされたことになるのではないか、論理性に欠け実証性がない」等と批判された。
どうも日本の学者先生はコミンテルンの影響等を解明するのは、過去の自己の関わりが明らかになるのでお嫌いなようです。
山田 天皇陛下まで編ましてしまうのだから、共産主義勢力の陰謀は恐ろしく凄い。
危険な東アジア共同体構想
中西 昭和研究会の三木清と尾崎秀實の二人は、「東亜協同体」の構想を盛んに吹聴し米英との対立にもってゆこうとした。
山田 尾崎は「獄中記」の中で、日本は中国との消耗戦で疲弊し、独伊と軍事提携し、対英米戦に入る。総力・持久戦では、物量、軍事力に劣る日本は打破されるに違いない。次にソ連の力で支那を社会主義国家に変え、日本も革命で赤化する。
この世界新秩序は自身の構想する東亜新秩序と何等矛盾しない、と述べている。これは日独伊三国同盟以前に書かれたものだが、その予測は殆ど当たっている。更にソ連、中国、日本はアジアを含めて世界革命を断行すると。
平間 この大東亜共栄圏は尾崎が早くから主張していた概念で、尾崎は獄中で「私が頻りに心に描いたところは…われわれはソ連の力を借り、先ず支那の社会主義国家への転換を図り、これと関連して日本自体の社会主義国家への転換を図ることでありました」。
「日本は南方への進撃においては必ず英米の軍事勢力を一応打破し得るでありましょうが、その後の持久戦により消耗がやがて致命的なものとなって現われて来るであろうと想像したのであります」。「英米帝国主義との敵対関係の中で日本がかかる転換を遂げる為には、特にソ連の援助を必要とするでありましょう。
さらに、中国共産党が完全なヘゲモニーを握った上での支那と、資本主義機構を脱した日本とソ連の三者が緊密な提携を遂げることが理想的と思われます」。
「英米仏蘭等から解放された印度、ビルマ、タイ、蘭印、仏印、フィリッピン等の諸民族を各個の民族共同体として、…前述の三中核体と…密接なる提携に入る」などと書き残しています。
山田 尾崎が考えたこの世界新秩序はコメコンや中国中心の東アジア共同体思想に通じる。
嘗ての大東亜共栄圏は盟主は日本が務め、支那、満洲、モンゴル、朝鮮、南アジアをブロック化するつもりだった。
中西 その大東亜共栄圏構想が失敗に帰した。それにも拘らず、今また「東アジア共同体」構想が急浮上している。尾崎が日米対立を促して中国共産党を守る一方で、日本と全アジアを一体化しようとした「東亜協同体構想」の再燃になる可能性を秘めている。但し、今度は中国が中心となってアジア全体を包含しようとする野心に他ならない。
山田 昨年十月八日の日中首脳会談の共同文書に「両国は共通の利益と互恵関係を築く」と謳っているが、本書は中国のみの利益を追及することだ。
アジア共同体構想の発端は、親米派の吉田茂に対抗するかのように、鳩山内閣が昭和三十年四月、インドネシアのバンドン会議に高碕達之助等を出席させたことから始まった。
周知の通り、昭和三十年四月のバンドン会議は非同盟イデオロギー運動の展開を目的にしたもので、日本でこれを強く推進したのは共産党の西園寺路公秀だった。因みに公秀の父親公一は近衛、尾崎の朝飯会の常連で、晩年は北京に逃れそこで死んでいる。
中西 小泉首相はこれまで「共同体」構想に消極的だったけれど、平成十六年にコミットした。
平間 この共同体は最終的には全アジアとラテンアメリカンの共同体に発展する可能性がある。すると、反米的な中国を盟主にした米国包囲網になるであろう。
山田 あれほどレーガン大統領と「ロン」 「ヤス」と呼び合った仲だった中曽根康弘元首相が、今や積極的に推進している。これも理解出来ない。
又、共同体推進の民間側の座長、伊藤憲一のアジアフォーラムには我が陣営と思われる人々も多く入っているが、何かに踊らされているようにも思うが。
情報謀略に弱い日本人
山田 謀略といえば田中上奏文も偽物であるという説もありますね。
平間 この田中上奏文は偽造文書であることは既に明らかになっているが、そこには「支那を征服せんと欲せば、まず満蒙を征服せざるべからず。世界を征服せんと欲せば、必ずまず支那を征服せざるべからず。これ明治大帝の遺策であると」の下りだが、歴史的事実とは大きく異なる反日プロパガンダで、米国を大きく動かし、米国を日米開戦へと進ませてしまった。
大戦中に米陸軍が兵士の戦意高揚のために作った映画「中国の戦い」では、田中上奏文が大写しされ、日本が中国やアジアを征服し、最後には米国に魔の手を伸ばすというテロップが流れていた。
この映画をホワイトハウスで見た親中容共のルーズベルト大統領が一般に公開を命じたため、日本が侵略国家であるとのイメージが広がり、東京裁判では冒頭陳述でジョセフ・キーナン検事が日本の指導者は満洲事変以来、世界制覇の共同謀議を行ってきたと、田中上奏文のイメージで裁かれ、今に至るも東京裁判史観が世界を支配している。日本人は、どうも陰謀に弱いですね。
中西 他にもある。河本大作が手記「私が張作霖を爆殺した」を書いたというが、実は河本の義弟で治安維持法で何回も逮捕された平野零児が書いたものだ。しかし近年、事件はソ連工作員のナウム・エイティンゴンが爆破したというソ連側史料が出てきた。
話は戻るが、尾崎らコミンテルンの工作によって否応が上にも我国は米英蘭との戦争に突入せざるを得なく、させられてしまった。近衛らはコミンテルンによって国家中枢が踊らされ、丸ごと乗っ取られてしまった面がある。
近衛らはコミンテルンの敗戦革命にしてやられた。只、国民は一糸乱れず奮戦敢闘した。精神的には人類史上、稀にみる偉大な国民戦争だった。
片やコミンテルンは表面上、解散したように見えるが、インテリジェンスの中で今でも生き続けている。例えば北京と平壌に。私はこれらを「チナミンテルン」と名付けている。
山田 戦後、コミンテルンの残党は手を変え、品を変えて謀略活動を展開している。一九七九年十月、当時、在日ソ連大使館のKGB将校、レフチェンコが米国に亡命し、日本での諜報活動について赤裸に語っていた。
それによると、自民党の大物で労相を務めた石田博英や山根卓二サンケイ編集局長、それに堤清二がエージェントだったと暴露した。レフチェンコはコード名「クラスノフ」の瀬島龍三と直接コンタクトを取ったことはないとしながらも、対日工作のボス、コワレンコと深い仲だと証言している。
瀬島は伊藤忠商事の特別顧問の時、ボマーク事件、バッジシステム機密漏洩事件、東芝ココム違反事件に関わっていた。
瀬島は日本軍のシベリア抑留の際、皆を裏切った張本人でもある。
先の戦争で唯一、漁夫の利を得たのはロシア。終戦直後、ソ連は樺太、千島に攻め入り、北方領土を奪い、未だに返さない。日本全土と同じ広さの六十七万平方キロを得た。ソ連のみが領土を拡張した。その上、国際法に反する、捕虜に対してシベリアで過酷な強制労働を強いる。
平間 そこで、中西先生の提唱するインテリジェンス・リテラシーの重要性がクローズアップされてくる。
中西 インテリジェンスは諜報、防諜、プロパガンダ、工作の四つがある。
この中で、現在日本にとって最も緊要なことはカウンター・インテリジェスである防諜、対諜報です。
平間 日本人にとって、謀略は受動・能動両面で最も弱いところだ。何しろ、狭いムラ社会に住む農耕民族には、隠すべき物はなく水が止まれば一村餓死のムラ共同体です。戦いも名誉を重んじ、正面から正々堂々と「名を名乗ってから戦い」、背後から鉄砲で撃とうものなら「飛び道具とは卑怯なり」との戦争感覚ですからね。
山田 支那の「三国志」的権謀術数からすると、中露等からは日本は赤児同等に見えるかもしれない。
日本が外国に工作した代表的な例は、ロシア革命前の明石元二郎ぐらいか。
中西 その意趣返しとしてスターリンが日本革命、敗戦革命を画策したのかも知れない。戦後、旧軍の将校クラスが日本共産党に大勢入党している。シベリア抑留組も。
平間 情報に必要なのは国家観の確立であり、国家観が確立されて初めて国家目標が定められ、国家戦略が決まるのであり、国家目標や国家戦略が不確定では、情報を収集しようにも保全しようにも対策が立たない。現在、最も必要なのは国家観の確立であり、「どのような国を造るのか」を決めることだが、それに必要なのは正しい歴史観の確立です。
歴史は嘘でも繰り返し語られ書かれ、ドラマとなり映画となって忠臣蔵のように確定する。日本は正しい史実のために言論戦を展開しなければならないが、国内には孫子の兵法で毒性を増したペキンテルンに犯された親中反日家が多く、現状を見る限り言論戦への気概もなければ、英語で発信出来る識者も少ない。ここに現在の日本の最大の問題があるのではないか。
中西 共産主義者は、「侵略戦争を遂行した日本が全て悪い」と非難しているが、その戦争を南方に転換させ、対英米戦に半ば持っていき、敗戦革命を半ば成就させたのは彼ら自身であったことを隠し続けている。
山田 本日はどうも有難うございました。
●Takashi
お疲れ様でした。現在の共産主義者も「敗戦革命」に導いているのは確かですね。
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