平間洋一のヒストリカル・アイ
オトメドン号事件ー謀略文書か正規の文書か

謀略文書といわれていた「オトメドン号文書」は本物の文書であった。しかし、この本物の文書がドイツ・イギリスの謀略を成功させ、日本を第二次世界大戦へと導いてしまった。
情報の極意は謀略にある。ここに半世紀近くイギリスが日本軍にシンガポールを攻撃させ、アメリカを参戦させようとした謀略文書であったとの説と、ドイツが日本にシンガポールを攻撃させようとした謀略文書であったとの論争があった。しかし、最近の秘密文書の公開でイギリス側の不注意で奪われた正規の文書であることが判明し、英独の謀略説は消えた。しかし、このイギリスの不注意が日本を南部仏印進駐に誘い、日本を太平洋戦争に導いてしまったのである。

オトメドン号、ドイツ海軍に拿捕される
1940年5月10日にはドイツ軍が西部戦線で総攻勢を開始し、6月1日にはイギリス軍をダンケルクから追い落とし、8月にはイギリス本土の空襲を激化させたが、イギリスは屈しせずドイツ軍は行き詰まってしまった。この戦局を憂慮した駐日ドイツ海軍武官のベェネカー大佐は、11月22日に海軍総司令官シュニューヴィン大将に次ぎの電報を発した。

 ドイツにとり最も重要な目標はイギリスの屈服であり、日本の対英参戦こそ、この方向への第一歩である。現在アメリカが事実上ドイツと戦争状態にあり、アメリカの参戦による不利益は日本の参戦による利益ほど重大ではない。アメリカが参戦してもその鉾先が専ら日本に向けられることは確実であり、このため小官は日本を扇動して南方へ攻勢をとらせるよう全力を傾注すべきと考える。日本陸軍首脳もこの見解に反対でないので海軍の説得に成功すれば、この方向へ進出することへの障害は総て除去されるであろう。

この電報が影響したのであろうか、ドイツ海軍総司令官は12月27日にヒトラーに日本軍のシンガポール攻略はアジアからイギリスへの食料や鉄・錫などの戦略物資の供給を止め、さらにインド、東アジア、オーストラリアなどに動揺を与え、イギリスの威信を低下させるがアメリカの参戦を招くことはないであろうとの意見具申を行った。また、年が明けた1月18日には、ドイツ海軍作戦部長フリッケ中将から駐独海軍代表の野村直邦中将にシンガポール攻略が要請された。
 これより先の40年11月11日に、ドイツ武装商船アトランティス号がイギリス商船オトメドン号をニコバル島沖で拿捕し、船内から商船暗号書や郵便物60袋を押収したが、その中にイギリス戦時内閣の議事録と三軍統合司令部作成の「極東防衛に関する情勢判断(7月31日付)」などが発見された。この文書によるとイギリスは日本軍の南方進出を阻止できないという悲観的なものであったが、この文書は機密文書を商船に搭載するという不注意により奪われた正規の文書で、そこには次のような方針が記載されていた。

◎現情勢では極東への艦隊派遣は困難である。
◎艦隊がなければアジアの利権を護り難い。一時、反撃し得る地点まで後退すべきである。
◎ 日本軍が仏印やタイに侵攻しても開戦しない。
◎ 日本がインドネシアを攻撃し、オランダが抵抗しなければイギリスも日本に宣戦しない。

 拿捕されたこの文書はアトランチィス号が捕獲したノルウェー船オル・ヤコブ号によって12月4日に神戸に運ばれ、5日にベネカー武官に渡され、7日にはドイツ海軍総司令部に主要部分が電報で報告された。そして、12月12日にはベルリンの海軍武官横井忠雄大佐と軍令部次長近藤信竹少将に知らされた。この情報を受け取った近藤次長はシンガポールの防備態勢が、このように貧弱であるとは判らなかったと驚き感謝したという。『侍従武官城英一郎日誌』の42年10月12日に、「1〇3〇独乙特巡艦長、オット大使及付海軍武官と共に謁見」とあり、艦長には勲3等瑞宝章が授与された。艦長程度の者に拝謁を賜るのは異例であり、このことからもオトメドン号の情報が如何に貴重であったかが理解できるであろう。しかし、この文書は12月27日に「泰及ビ仏印ニ対シ採ルベキ措置」を決した第3回政府大本営連絡会議で、及川古志郎海相に「文書諜報ニ依レバ英国ハ日本ガ仏印ニ止マル限リ戦ヲ欲セズ。蘭印ニ延ビルトキハ戦争必至ナリト判断セラル」との発言を導いたが、その後も日本が動かなかったためシンガポール攻略要請は続いた。
 
 41年2月23日にはリッベントロップ外相が、着任早々の大島浩大使に 「自らの利益のためにも、可及的速やかに参戦されたい。決定的打撃はシンガポール攻撃であろう。日本が講和条約締結までに手中に入れたい東南アジアの資源地帯を確保しておくことが、日本の国益や大東亜新秩序建設のためにも必要であろう。また、アメリカが参戦し艦隊をアジアに派遣するほど軽率ならば、戦争を電撃的に終わらせる最大の好機となるであろう。 すべての仕事は日本艦隊が片付けると確信している」とシンガポール攻撃を誘った。

 ソ連軍GRU(赤軍諜報部)スパイのリヒトヤ・ゾルゲの尋問調書によれば、在京のドイツ大使館ではオット大使を統裁官としてヴェネッカー海軍武官、クレチマー陸軍武官、グロナウ空軍武官などを中心に日本軍のシンガポール図上演習を行い、この図上演習の推移や結論をもとに日本側を説得したという。2月28日にはリツベントロップ外相からあらゆる手段を用いて、可及的速やかにシンガポール攻略を申し入れよとの指示を受けたオット大使は、3月4日に参謀総長杉山元大将および軍令部総長永野修身大将などを大使館に招き、ドイツの英本土上陸作戦の準備はすでに完了し、「決行ノ時機ハ一ニ総裁ノ決定ヲ待ツ迄ニナッテオリ.....此ノ英帝国ニ対スル決戦ノ時機ニ東西相応シ」、日本軍がシンガポールを攻略するのがよいのではないか。アメリカの戦争準備ができる前にイギリスが「崩壊ニ頻シタ場合ハ、米国ガ戦争ニ入ルコトハナイト思ヒマス」。ドイツとしてはアメリカの参戦前に英本土と地中海方面に「決定的ナ攻撃戦」を開始するので、日本もこれに応じてシンガポールを攻略するならば「大イニ感謝スル所デアリ、 日本トシテモ有利デアロウ」とシンガポール攻略を要請した。
 
 また、3月5日にヒトラーから日本に可及的速やか積極的行動を取らせとの指示が発せられると、ベネカー武官は3月13日には近藤次長を訪問し、イギリスを屈服させればアメリカは対英支援を中止し参戦はしないであろう。現在のような有利な態勢は今後5〇年ないし百年内に二度と訪れることはなく、今が絶好の好機であると説得したが、近藤少将は応じなかった。しかし、7月2日の政府大本営連絡会議で、オトメドン号文書の「日本が仏印またはタイに侵攻しても英国は開戦しない。日本がインドネシアを攻撃し、オランダが日本軍に抵抗しなければ英国は日本に宣戦しない」という文章を思い起こしたのであろうか。「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を決したが、この国策要綱では南方進出の諸方策を強化し、この「目的達成ノ為対英・対米戦ヲ辞セズ」として、南部仏印への武力進駐を決した。そして、この南部仏印進駐が7月28日のアメリカの石油全面輸出禁止を招き、海軍の石油「ジリ貧」論となり、松岡外相の対ソ参戦を抑えるために挿入した「対ソ参戦ヲ辞セズ」の一行が、12月8日のハワイ奇襲へと進んでしまった。日本はイギリスやドイツが期待したとおり、太平洋戦争に突入してしまったのである。