「ハラール」は「許されたもの」
最近、日本でも飲食業などで「ハラール認証」という言葉をよく聞くようになりました。イスラームでは豚、酒、死肉を口にすることが禁じられています(これらの食品を「ハラーム」と呼びます)。それに対し「ハラール」はイスラームで「許されたもの」のことです。「ハラール認証」は、信頼できる第三者機関が食品に「ハラール」のお墨付きを与える制度とされます。日本を訪れるムスリムが増えていることもあり、注目を集めるようになりました。
2014年度の農林水産予算概算要求にはハラール認証取得輸出事業関連の制度資金、補助金の交付が盛り込まれ、経済産業省や地方自治体も競ってハラール認証に予算をつけ始めています。こうした官公庁の予算に群がって、ハラール認証機関を名乗る様々な団体が雨後の筍のように現れています。
私は入信して30年のムスリムですが、この認証制度をいぶかしく感じています。今、言われている「ハラール認証」は、ムスリム相手の商売を始めようという方々にも不利益があると思われますので、今回から2回にわたって、ハラール認証がどのような制度か、また、日本で食品を扱う企業の経営者はこれにどのように対するべきか、考えてみたいと思います。
誰が「許す」か
ハラールというのは、「イスラームで許されたもの」です。では、そもそも「許す」のは誰でしょうか? 日本の官公庁でないのは当然として、ハラール認証機関を名乗る様々な日本の団体でしょうか? 日本の認証団体の背後にある外国のハラール認証機関でしょうか? それともそれらの外国の政府でしょうか? もちろんそのいずれでもなく、ハラールを決めることができるのは唯一神アッラーだけである、というのがイスラームの根本教義です。
そしてイスラームでは、すべての人間は最終啓典であるクルアーンを指針に、自分だけの責任と判断で行動し、最後の審判の日に、ただ一人アッラーの前に立たないといけません。誰も自分に代わって善と悪を教えてくれる者はおらず、判断の過ちの責任を代わりに負ってくれる者もいません。
もしこれが、神と人間の間に聖職者がいる宗教であれば、聖職者が「これが正しい教えだ」と言えば、それがその宗教の教義ということになります。しかしイスラームに聖職者は存在しません。キリスト教の司祭や仏教の僧侶と同じような聖職者と見なされることのあるイスラーム学者の「ウラマー」は、平信徒と区別される聖職者階級ではないのです。
信徒が尋ねれば、ウラマーは個別の事例についてイスラームに適っているかどうかの回答を与えてくれますが、それとて質問ありきの回答であって、特定の見解を「上から」発布するものではありません。さらにウラマーの助言には強制力がなく、それに従うかどうかも、最終的には信徒にゆだねられているのです。
そもそもキリスト教などと違い、預言者ムハンマドにさえ神性を認めないのがイスラームです。いかなる人間もアッラーの代わりにハラール、ハラームを認定する権威を持たず、それは最終的に個人が信仰に照らして判断するしかありません。このことが、私がハラール認証をアッラーを冒涜する反イスラーム的な制度だとする第一の理由です。
料金の高さにハラール認証を諦めたレストラン
さらにハラール認証制度は、イスラームの教義に反するだけではなく、川上のものが利益を吸い上げる、よくない制度です。そのことに私が最初に気づいたのは、新大久保で小さなレストランを経営する、タイから移民してきたムスリムの店主から相談を受けた時でした。
そのレストランはハラール認証を受けた肉をオーストラリアから輸入していました。ところが、店主がその輸入肉を使って餃子を作り、袋詰めのハラール餃子として販売したいとイスラーム団体に相談したところ、飲食業者のあなたもハラールの認証を受けなければ、ハラールのマークをつけてハラール商品として売ることはできないと言われたのです。
この小さなレストランの経営者は「ハラール認証の料金はとても高くて払えないので、ハラール餃子を売るのは諦めた」と言います。この経営者はハラールの料理を出すために、わざわざハラール認証を受けた輸入肉を買い、それを使って餃子を作っています。さらに認証が必要だというのでしょうか。その餃子がハラールかどうかを知るのは、調理場にずっといるわけでもないハラール認証団体の人間ではなく、その餃子を作っている者のはずです。
次回は「ハラール認証」の実態をさらに明らかにした上で、望ましい「ムスリムフレンドリー」のあり方についても考えてみます。
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