神田雑学大学11月29日 講義
アカデミー賞物語
アカデミー賞の創立と歴史
講師:坂田 純治
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目次
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はじめに
今日の講義は、坂田純治さん、 今シリーズはいよいよアカデミー賞映画の登場です。映画芸術最高峰の74作品のなかから、 選りすぐりの秀作を上映しながらの解説です。11月30日から来年3月まで、連続5回をお楽しみください。
さて、こちらで只今上映の映画は、1970年〜1990年にかけて20年間のアカデミー賞授賞式の
ドキュメントであります。
この講座を開くに当たりどういう作品をチョイスしたら良いか正直悩みました。アカデミー賞は74年間続いているが、
74年の間にハリウッドで製作された劇映画は約四万本ある。
四万本の中でアカデミー賞の賞を取った、演技賞、又は作品賞、技術賞などアカデミー賞に絡む作品は約450本。
今回5ヶ月間5回機会を頂戴したが、とても映しきれるものではないので、
私、坂田の独断と偏見でチョイスした作品で話を進めていきます。
アカデミー賞の誕生
アカデミー賞の発端は、作品の良し悪しとか俳優の演技の巧拙を表彰しようという目的で作られたのではない。
1920年代ハリウッド撮影所の現場の職人さん達が労働組合を作った。いわゆるユニオンと称す。
ユニオンの人達から持ち上げられる賃金値上げの問題、或いは労働時間短縮
の問題。これでメトロ"MGM"という会社のルイス・B・メイヤという大ボスが組合の折衝にまいり、
このまま行ったら数十年苦労して積み上げてきたハリウッドの基礎がガタガタになってしまう。
ということで、部下を集め何かいい手はないだろうか?このままでいくと、監督も、俳優も、脚本家もカメラマンも、
皆労働組合を作ってしまう。それでは大変なことになる。と危機意識を持ったのである。
それで部下と計り経営者主導型の組合を先に作ってしまおうという発想をあみ出したのである。その発想を同業他社、ワーナー・ブラザーズ、PARAMOUNT、フォクッス、など同業の経営者に話をし同調を求め、
他社の経営人も賛同した。
1927年5月11日(昭和二年)最初の集まりはハリウッドのビルトマーホテルに集まったエリートは275人、
新発足誕生である。その新発足の団体の名前が「映画芸術科学アカデミー」と称した。初代の会長にはダグラス・
フェアーバンクスというスターを祭り上げたのである。
モットーは、映画芸術及び科学の質の向上を図ることを目的とする集まりである。組合対策うんぬんはおくびにも出さなかった。
組織の活動の一環として、優れた業績に対する表彰を行う項目が付加された。
ルイス・B・メイヤは表彰には乗り気ではなかったが、会長のダグラス・フェアバンクス、或いは愛妻のメアリー・ビッグフォード
、俳優の主だった人たちが是非、業績表彰を条項に付け加えて実行しようという話になって、いやいやながらルイス・B・メイヤはOKを出したのである。
1929年5月16日(昭和4年)に「映画芸術科学アカデミー第一回アカデミー授賞式」という総会を兼ね、
晩餐会形式で「お祝い会」をホテルで開催した。第一回は12部門のアカデミー賞が授与された。その12部門に各受賞者に賞を渡す時間が、
4分22秒と簡単なものであった。第一回は275人とささやかに授賞式が行われた。
主演女優賞
第一回の主演女優賞は殆ど新人同様のジャネット・ゲイナーというエキストラ出身の女優さんが受賞した。
当時は現在と違い、既に主演女優賞はジャネット・ゲイナーと発表されていたため、グローリア・スワンソン、メトロの大スターでノーマ・シャラー、
メアリー・ビックフォードのような大物女優は授賞式に出てこなかったのである。と、言うのも特に女優さんは羨望、やっかみ、或いは嫉妬、
こういうものを持ち合わせている為と言われている。
オスカー像
第一回の表彰式が終わり、アカデミー協会の幹部の中からは授賞式をやるなら何か彫像を贈ろうと言う提案がありメイヤもこれに賛成し
、当時"MGM"のセドリッック・ギボンズという超一流の美術監督に一任した。ギボンズはフイルムリィールに五つの穴を開けた。
五つの意味は、プロデューサー、監督、脚本家、俳優、カメラマン、この五部会、五つのユニオンが出来るだろうと想定で穴を五つあけたのである。
その真ん中に裸の男の立像を立てた。裸の男には勇ましい十字軍の剣を持たせた。非常に厳粛で力強いデザインをギボンズは作った。そしてそれを或る
彫像家を呼び粘土で形を取り、アレックス・スミスというアメリカで有名な彫像家にその後全部任せた。
アレックス・スミスは錫92.5%、銅7.5%の素材で鋳造し、その上に金メッキをほどこした。
これがアカデミー賞オスカー像の原点である。
高さは約34Cm、重さは3Kgである。
オスカー像の語源
何故オスカーと呼ばれるようになったか、当初は小像と呼ばれていたが何時の間にかオスカー像と呼ばれるようになった。
オスカー像三つの語源
(1)アカデミー協会にマーガレット・ヘリックさんというOLがいた。
金メッキも終わり出来上がった像を事務局に持って行ったとき、
梱包を開けその像を見たヘリックさんが、「あらぁ この彫像の顔は私のオスカーおじさんにそっくり」これが第一説。
(2)ハリウッドの辛口コラムニストで、シドニー・スコルスキーは大変ボードビル(寄席)が好きで、しょっちゅう観に行っていた。
そのボードビルの中でボードビリヤンがふざけて葉巻を取り出しオーケストラボックスの指揮者に向かって、
「シガーをやろうか、
葉巻をやろうかオスカー」こう叫ぶジョークがあるこのことをスコルスキーは想い出し、 こういう馬鹿騒ぎはいずれアカデミー賞にも訪れるだろう。
辛口のコラムニストらしく予言を考え、この彫像をオスカーと呼ぶようになった。これが第二説。
(3)1935年ベティー・ディヴィスが「青春の抗議」で主演女優賞を獲得、当時ディヴィスのご主人は、
ハーマンオスカー・ネルソン・ジュニア。
ステージに上がったディヴィスは、主演女優賞の像を受け取り、
興奮して嬉しさのあまり客席にいる主人に向かって像を高々に揚げて、
「やったわよー オスカー」こう叫びました。ここからオスカーと言われる語源が出来た。これが第三説。
ところが、よくよく辿ってみると第二、第三はもう既にオスカーと言う言葉が少しづつ浸透している頃の話で、
二説三説目は少し遅ればせではないか。
ということで、現在は、第一説のヘリックさんが「オスカーおじさんの顔とそっくりだ」と言った説が定説として伝えられている。
オスカー像のエピソード
オスカー像を取るためには俳優さんも、監督さんも血みどろの葛藤をつづけてオスカーを手にするわけである。
折角手にしたオスカー像はいろんな形で悲喜劇が生まれます。
第一のエピソード
名優でスペンサー・トレーシーは1937年「我は海の子」、1938年「少年の町」と二年連続オスカーを取る。
オスカーには授与された人の名前が彫られているのだが、1938年当時アメリカで大ヒットした「ビック・トレシー」というコミックがある。
家でオスカー像をしみじみ観ていたトレーシーは、ビック・トレシーと書かれていたオスカー像を見て、大変激怒した。
第二のエピソード
1944年「我が道を行く」主役はビング・クロスビー、シリアスドラマに挑戦した。
これはオマリーという教会の神父の役で主演男優賞を受賞。助演男優賞には、老神父役のバリー・フィッツジェラルド。
ビング・クロスビーはゴルフの大変好きな人で、クロスビー杯というコンペが今でもある。
バリー・フィッツジェラルドという老優もゴルフが大変好きである。或る雨の日に、自分のリビングルームで素振りをしていた。
するとクラブヘッドが棚の上に飾ってあったオスカーの像に当たり首がポロン!と取れた。
1944年というのは昭和19年、戦時中であるのでメタリックなものは全部軍事物資で供出しなければいけない。
当時のハリウッドアカデミー協会は、オスカー像を石膏で作っていた。
というわけでフィッツジェラルドは自分のミスとはいえガッカリしたのであった。
第三のエピソード
1961年の作品ソフィア・ローレン「ふたりの女」外国語俳優として初めての主演女優賞を獲得した。
ソフィア・ローレンは家に持って帰り一番見栄えのする処に飾っておいた。
或る晩ソフィア・ローレン宅にドロボーが入りオスカー像は盗まれた。
悲しんだローレンは何とか作り直してほしいと、アカデミー協会に手紙を出した。
アカデミー協会はフィッツジェラルドの時とは違い、
快く作り直してくれた。ローレン宅に送られてきた梱包を開けると中に実費素材費として60ドルの請求書が入っていた。
今の日本の為替でいうと、
七千二〜三百円である。
渋い性格派女優で、マーセデス・マッケンブリッジは、1949年「オール・ザ・キングスメン」で助演女優賞を受賞。
家に持ち帰りマントルピースの上に置いた。マントルピースのバックは鏡で、見るとその日貰って来たオスカー像が二個に見えた。
オスカー像が二つになったと彼女は大喜び、次の朝女優仲間に早速電話をした。さあ それからが大変、
女優さんでオスカーを取った人は皆鏡の前に置くようになったという。
1951年シェリー・ウインタースは「陽のあたる場所」では殺される役で名演技であった。
彼女は5人のノミネートの一人に選ばれたが、主演女優賞は
「欲望という名の電車」で名演技をしたビビアン・リーが持って行ってしまった。
八年後彼女はだんだん太っていった為に脇役に廻ってしまったが、「アンネの日記」でアンネが淡い恋心を持った
、リチャード・ベイマーの演ずる青年のお母さん役で出演し、助演女優賞を獲得した。
6年後「何時か見た青い空」ホームドラマの作品で、シェリー・ウインタースは二個目の助演女優賞を手にした。
「アンネの日記」で、もし賞を取ったらオスカー像を"アンネ・フランク記念館"へ寄贈すると、アンネのお父さん、
オットー・フランクさんと約束を果たしのは、最初にオットー・フランクさんと会話をしてから15年後のことであった。
今日"アンネ・フランク記念館"に大事に保存され飾られている。シェリー・ウインタースの泣くに泣けない約束を果たした美談であり、
笑えないエピソードである。
オードーリー・ヘップバーン
新人女優で1952年「ローマの休日」で主演女優賞を獲得。ステージに上がりスピーチをして、ステージを下りた時、
先ほど受け取ったばかりのオスカー像を演壇の上に忘れてきてしまった。
慌ててステージに上がり真っ赤な顔をしてオスカー像を抱いてステージを下りた、
新人らしい可愛いエピソードである。
アカデミー賞の功罪について
これほど大きな勲章のオスカーですから、いろいろ功罪は多く多難な歴史を送っている。
まずアカデミー協会の提唱推進者である"MGM"のルイス・B・メイヤは
7年経って"MGM"はどのくらいオスカーを取っているのか、
部下に7年間の統計を取らせた。
やはり"MGM"が一番多かったが、ノミネート数はこの7年間で「155」そのうちオスカー受賞者は
「33」で約20%の確率である。ライバルの"ワーナーブラザーズ"は丁度その半分、
"R・K・O"に至っては三分の一、"COLOMBIA"は四分の一であった。
いかに推奨者"MGM"の力が強いかということである。
余談になるが、1977年(昭和52年)日本でも、
日本アカデミー賞を作ろうではないかと提唱したのが当時東映の岡田 茂社長、現在は会長。
この会長の提唱により日本アカデミー賞が生まれた。そして受賞はほとんどが、東映作品に偏った。
さて、ハリウッドの話に戻るが、不透明ではないか。"MGM"に偏っているではないか。と、監督も俳優も大変いきり立って信頼しなくなった。
1935年第8回はこの対立がもっとも激しくなりアカデミー協会は潰れる寸前になった。
その時に、丁度新会長になったばかりのフランク・キャプラはアカデミー賞のえこひいきは止めるから第8回に出席するよう言った。というのは、
監督組合委員長のキング・ビダー、俳優組合委員長のエディー・キャンター、両委員長が皆に声を掛けてしまったので、
主だった俳優は同調して第8回には出席しないということになった。慌てたキャプラは、
それまで200数十人だった会員を一気に千四百人台に会員を増やし呼んだが出席者は少なかった。
アカデミー賞の功罪をもう少しつづけます。何回もアカデミー賞候補にノミネートされ、オスカーを取れない俳優に
、ヘンリー・フォンダ、ポール・ニューマン、グレタ・ガルボ、スーザン・ヘイワード、ジュディー・ガーランド、
デボラ・カー、マリリン・モンローなどがいた。
この俳優さんたちは念願が叶うまでの焦り、苛立ちは大変なものでした。
一方では、ジョン・ウェイン本人がプロデュースし、主演して作った「アラモ」は莫大な資金をPRに投資し、
今年のアカデミー賞は「アラモ」と、PRした。
このような行為を"オスカーハンター"という。
近年は大分様子が変わったが、黒人俳優に対する差別がある。どんな上手い演技をしても、黒人にオスカーはなかなか取れない。1985年に
、スチーブン・スピルバーグという監督が黒人社会を描いた「カラーパープル」という名作を発表。
ノミネートはされたが、結局一票も入らなかった。が、最近は少し変わってきて2001年度の主演男優賞は、
"デンゼル・ワシントン"、主演女優賞は"ハル・ベリー"二人とも黒人である。
それから、授賞式が次第に女優さんのファッションショー化してきた。これについては眉を顰めて、
そういう風潮は止めた方がいいと、良識ある女性の評論家もいる。
アカデミー賞スピーチ
受賞者のスピーチ、今はテレビの生中継があるのでスピーチのタイム制限がある。
過去の最長スピーチ記録は1942年(昭和17年)ウイリアム・ワイラ監督の
「ミニヴァー夫人」で主演女優賞を受賞したグリア・ガースンが、興奮して何と6分間スピーチをしてしまったのである。
アカデミー受賞スピーチでは政治的発言は控えるように抑制されているが、
(1977年)の作品でジェーン・フォンダ主演「ジュリア」で反ナチの活動家を演じ、
助演女優賞を受賞したヴァネッサ・レッドグレイヴは、スピーチで延々十数分政治的発言をしたためにブーイングを受けた。
そしてその時をもってアメリカの入国拒否を受けた。
一方では名スピーチで好評なのは、第一回主演女優賞のジャネット・ゲイナーの、「感謝いたします、光栄でございます」である。
それから第12回「風と共に去りぬ」でお手伝いさんの役をやり、
黒人俳優としては初めての助演女優賞でオスカーを取ったハティ・マクダニエル。
名前を呼ばれると彼女は立ち上がり「ハレルヤー」と叫びステージに上がっても、涙、涙で声が出ず先ほどの
「ハレルヤー」の一言で終わった。
受賞を拒否した俳優
アカデミー賞が決まっても受賞を拒否する俳優がいる。
代表的なのは1970年の「パットン大戦車軍団」でパットン将軍を演じたジョージ・C・スコット、ノミネートされた時から、
自分は関係ないと式にも出ない、賞も受けないと言い会場には見えなかった。
ジョージ・C・スコット主演男優賞のオスカー像は未だにアカデミー協会の棚の上でほこりをかぶっている。
もう一人は、マーロン・ブランド、一回目は受けたが、二回目の1972年「ゴット・ファーザー」では拒否。
若い頃のダスティン・ホフマンも拒否した。ノミネートされ、
アカデミー協会から案内状が届いても絶対会場に現れない有名な女優さんは、
キャサリン・ヘップバーン、12回ノミネートされ、そのうち4個オスカーを取っている。
その他には、スペンサー・トレーシー、8回ノミネートされ第10回と第11回にオスカーを受賞している。
拒否のエピソードとして、
ディク・トレイシーと名前を間違えられたことから来ないのではなかとも言われている。
近年の人ではウッディー・アレン、彼は名監督、名演技者であると同時にプロ級のトランペッターでもある。
アカデミー賞の晩になるとトランペットを抱えニューヨークのクラブでトランペットを吹いていると言う。
オスカー俳優のギャラ
オスカーを取ると、とたんに俳優のギャラが5倍、10倍にグ〜〜ンとはね上がる。そうすると、
ちょっとした俳優さんだと映画制作会社の方はコストが高くつくので、怖がって使わなくなってしまう。
するとその俳優は何故自分を使ってくれないのかと自信喪失になり、ドラックに手をだしたり、
アルコールに手を出したりと、自分をメチャメチャにしてしまうと言った例もある。
スタンディングオベーション
授賞式を見て胸が熱くなるシーンがあるが、これをスタンディングオーベーションと称する。
この授賞はこの人には当然だ、とか、長年の精進が実ってようやく授賞した。
或いは、病気の身体を押して杖をついて授賞式に現れた。
そういう人に対して満場の人たちが全員立ち上がり拍手を贈る。
これをスタンディングオベーションと称しアカデミー授賞式の独特の華であり山である。
<<休憩>>
―再論―
第一回アカデミー賞は1927年〜28年。
二年にまたがるというのは第六回までで、当年八月一日〜翌年の七月三十一日までを対象期間にしていたためである。
第一回は1927年8月1日〜1928年7月31日までこの期間に封切られた作品をアカデミー賞の対象作品とした。
1929年5月16日(昭和4年)ハリウッドのルーズベルトホテルにおいて
「映画芸術科学アカデミー」の第一回総会が開かれ会員275名のうち大よその人が参集した。
ディナーを取った後、アカデミー賞の授賞式である。第一回の授賞大賞は12賞。
先ほどもお話したが、このセレモニーは4分22秒で簡単に終わった。
第一回作品賞は"PARAMOUNT"の作品で「つばさ」第一次大戦の空中戦を描いた映画である。
監督賞は一般ドラマの監督:フランク・ボゼージもう一人コメディーの監督:ルイス・マイルストン、第一回は二人受賞している。
主演男優賞は、エミール・ヤニングス、「最後の命令」という作品で受賞した。
主演女優賞は「第七天国」のジャネット・ゲイナー。この年は美術賞に「テンペスト」、
撮影賞「サンライズ」ジャネット・ゲイナーが主演している。
特別賞
チャップリンの「サーカス」が特別賞を受賞。
特別賞もう一つは「ジャズシンガー」と言う作品でトーキー映画を完成させ、トーキー第一作だということで、
これを製作したワーナーブラザーズ社に対して特別賞が与えられた。ギャング映画では脚本賞で「暗黒街」が受賞している。
キネ旬ベストテン
日本では、映画出版社であるキネマ旬報社が1924年(大正13年)から洋画と邦画にベストテンというのを作った。(キネ旬ベストテン)
つまり洋画と邦画のベストテンの中のベストワンを表彰してお祝いをする行事が今でもある。
傾向映画
因みに1927年度は、伊籐大輔監督、大河内伝次郎主演「忠治旅日記」がベストワンであった。
1928年度は、マキノ正博監督の「浪人街」がベストワン。昭和初期は検閲があり、日本の難しくなりかけた時代でもあった。それで時代劇に託して権力、圧力、圧迫、そういうものに対し時代劇を通じて監督は抵抗した。
それが「国定忠治」であり「浪人街」などの作品であった。時代を変えて監督の思想、意思を伝える時期があった。
これを称して"傾向映画"といった。
ビデオを観ながら
「第一回アカデミー賞」1927年〜1928年
「つばさ」は第一次大戦の空中戦を描いた作品である。アメリカの飛行機は"カーチス"ドイツの飛行機は"フォッカー"まだ無声映画である。
特撮が盛んではない頃の作品で、トリックもまだ上手く出来ない頃である、素晴らしい空中戦の撮影であった。
当時のアカデミー協会の会員たちも、技術の凄さに激賞したのであろう。これが第一回のアカデミー賞作品賞である。
この作品には駆け出しの頃のゲィリー・クーパーがチラッと出ている。主演女優賞は「第七天国」のジャネット・ゲイナー。
「第二回アカデミー賞」1928年〜1929年
この第二回のアカデミー総会が開かれた半年前に大事件が起きた。1929年10月24日暗黒の木曜日、ニューヨーク株式市場で大暴落が起こった。
2011行の銀行が倒産、巷には失業者があふれた。しかし映画産業の方は暗い世相から脱皮しようと夢の世界を追う人々で映画界は盛況であった。
しかも1929年は殆どトーキー映画になっていた。作品の内容は今ひとつであったが、
トーキー映画で27年の「ジャズシンガー」の発表以来29年の三年間で、ミュージカル映画が200本発表された。歌って喋ってと賑やかな時代であった。
この年の作品賞はルイス・B・メイヤが初年度第一回"PARAMOUNT"に持って行かれて悔しくて怨念の
「ブロードウェイ・メロディ」というメトロの作品で、作品賞を受賞した。
監督賞はフランク・ロイド「情炎の美姫」
主演男優賞はワーナー・バックスター「懐かしのアリゾナ」
主演女優賞はメアリー・ビックフォード「コケット」
その他のアカデミーに絡む代表作は「南海の白影」
未公開映画で「THE BRIDGE OF SAN LUIS REY」「THE PATORIOT」
因みに日本映画のベストワンはマキノ正博が二年連続で「首の座」という傾向時代劇映画である。
「第三回アカデミー賞」1929年〜1930年
この頃まだチャーリーチャップリンなどは、41年の「独裁者」まではトーキーに飛びつかないでいた。
世はまさにトーキー時代、唄えない、喋れない、台詞をまともに言えない役者は次第に追放された。
例外の女優は、グレタ・ガルボ、グローリア・スワンス、男優は、ドナルド・コールマンなどでトーキー時代に上手く移っていった。
第三回は作品ノミネートが秀作ぞろいで激戦だったが、"ユニバーサル"という会社の作品で
「西部戦線異常なし」ルイス・マイルストンが第一回に引き続き二回目の監督賞を受賞した。尚、この第三回からは、
プレゼンターが登場、受賞者にオスカーを手渡す習慣が生まれた。
主演男優賞は日本未公開「DISRAELI」ジョージ・アーリス
主演女優賞は「結婚双紙」"メトロ"の大スターノーマ・シアラー
話題作「ビッグハウス」「バード少将南極探検」「キング・オブ・ジャズ」
因みに日本映画は藤森成吉原作、鈴木重吉監督の「何が彼女をそうさせたか」傾向映画である。余談になるが、日本はフィルムの保存が大変まずくて下手である。
「何が彼女をそうさせたか」この昭和5年のフィルムが日本に残っていなかった。
ところが、今から8年前1994年にある人がロシアに行った時に、ロシアのフィルムライブラリーにこの作品が残っていたことを知った。お願いをして日本へ原版を持って帰ってきた。
● 西武戦線異常なし」の有名なラストシーンを観る。
「第4回アカデミー賞」1930〜1931年
出場者は益々増えアメリカ政府の発表では、400万人ないし、500万人とも言われた。
映画は厳しい状況になり入場者が減り下降線の一途を辿ってきた。逆に映画界のボスたちはアカデミー賞のお祭りを一層盛んに盛り上げ話題を
宣伝に饗する必要があるという事で、会場もこれまでのアンバサダホテルは狭かったので、1800人入るビルトマーホテルに替えた。
作品賞を「シマロン」エドナ・ファーバー原作の人気小説の映画化。これは西武オクラホマ開拓時代を題材にした一代叙事詩。
主演女優はアイリーン・ダン。尚、この第4回からは、授賞式が蓋をあけるまでは受賞者に受賞項目を知らせるのを止め、当日各受賞の封を開けないと分からない制度に改めた。
この年の話題作は作品賞でもある「シマロン」ノーマン・タウログ監督の「スキビイ」主演男優賞はライオネル・バリモアの「自由の魂」
このバリモアと言う人はお姉さんがエセル・バリモア、弟がジョン・バリモア、三きょうだいで舞台から映画に移った名優である。
主演女優賞は「惨劇の波止場」マリー・ドレスラー、62歳で舞台のコメディアンである。
この年はマレーネ・デ−トリッヒの「モロッコ」、アイリーン・ダンの「シマロン」
みんな名演技を振るうがルイス・B・メイヤが圧力をかけて"MGM"の「惨劇の波止場」のマリー・ドレスラーに主演女優賞が決まった。
他には「タブウ」「暁の偵察」「犯罪都市」この年の話題作である。
「第5回アカデミー賞」1931年〜1932年
この年は失業者が800万人に上りいろいろなデモが繰り広げられた年である。
7月にはもっとも大きなデモといわれる第一次大戦の退役軍人の恩給一時払い請求デモ行進が、ワシントン市内で二万人の大デモとなった。
これを鎮圧したのが、ダグラス・マッカーサー、マッカーサーの副官がアイゼン・ハワーである。
映画界は前年度より50%入場者が減少。映画制作会社の大ボスたちは、勝手なことは出来なくなり、名声は衰え没落していった。
そして経営者もどんどん変わっていくという世相になった。それからギャング映画が流行して血なまぐさい世相になった。
珍事
当時オスカーを取るには、会員の数計が三票以内なら一位と同位に扱う、すなわち二人いてもいいということである。
作品賞は「グランドホテル」
監督賞はフランク・ボーゼイジ
主演男優賞で珍事があった、フレデリック・マーチ、このひとが「ジギル博士とハイド氏」で最高投票を取ったが、
もう一人三票以内に「チャンプ」という作品で、ウォーレス・ビアリーという名優がいた。この年の主演男優賞は二人である。その後一票差でも一位と二位の格差を定めたので、アカデミー史上前にも後にもこれが一回だけである。
主演女優賞は「マデロンの悲劇」でヘレン・ヘイズ。このヘイズは9歳で舞台に上がっている、アメリカの演劇界のファーストレディーと称された大名優である。
ヘイズは後年、イングリド・バーグマンの「追想」ではロシアの皇太后を演じた。
さらにその後1970年にバート・ランカスターの主演で「大空港」の作品の中でただ乗り常習のオバーチャン、まことに滑稽な役を演じた。1993年に94歳で没した。
その他の話題作は「人類の戦士」「バッド・ガール」などがある。それからこの年は、ウォルト・ディズニーの進出である。
ウォルト・ディズニーは1928年からミッキーマウスを出して3〜4年人気を収めている。
短編アニメ賞「森の朝」、特別賞ウォルト・ディズニー「ミッキーマウス」。ディズニーが大変明るい話題を振りまいた年であった。
さてこの年の作品賞はメトロの「グランド・ホテル」、このグランド・ホテルはベルリンにある実在のホテルをモデルにした。
●作品賞「グランド・ホテル」のビデオを観る。
●撮影賞「上海特急」のビデオを観る。
「第6回アカデミー賞」1932年〜1933年
来年度からは今までの8月1日〜7月31日の対象期間をカレンダー方式で、
1月1日〜12月31日替えようではないかということになり。この年は
17ヶ月間の封切り作品が対象になった。
作品賞「大英帝国行進曲(CAVALCADE)」、ノエル・カワードの原作でビクトリア時代から第一次大戦までのイギリスの或る一家の物語を描いている。
監督賞はフランク・ロイド「大英帝国行進曲(CAVALCADE)」
主演男優賞はチャールズ・ロートン「ヘンリー八世の私生活」日本未公開作品。
主演女優賞はキャサリン・ヘップバーン「勝利の朝」
撮影賞「戦場よさらば」脚色賞「若草物語」ミュージカルで「四十二番街」、
「仮面の米国」「三匹の子豚」などがある。
●「勝利の朝」ビデオでキャサリン・ヘップバーンの酔っ払いぶりを観る。
(キャサリン・ヘップバーンは現在95歳)
この年は不景気にも関わらずアカデミー賞が成功した年である。何故かというと、ボードビリヤンでコラムニスト、映画の大スターで、
後々大統領候補にまでなったウイル・ロジャースという人気者がいた。この人にアカデミー協会が総合司会を頼んだ。
ウイル・ロジャースは不景気を吹き飛ばす勢いで演出を派手にしてアカデミー賞を盛り上げ大成功させたのである。
| * 上映作品の製作配給会社 |
* 参考文蔵版社 |
| M.C.M |
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新潮社 |
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近代映画社 |
| 東宝東和 ほか |
キネマ旬報社 ほか |
―おわりー

会場写真撮影:橋本 曜
文責: 和田節子
HTML製作:和田 節子
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