(口上:以下の記事は、尊敬する年長友人の「哲人どん」 @chikurin_8th と語らって、おもろそうだからやってみんべ、と決めた「往復書簡」の第一信です)
(そんなことをばらされては嫌に決まっているが、対話の環境を明らかにするために述べると、哲人どんは職業的な哲学者という珍しい職業の人で、かつ哲人どんが、うーそおおおおーん、と嫌悪感で身悶えしそうな通俗に通俗を、下品に下品を重ねた言い方をすると、「某旧帝大系大学哲学科教授」でもある。
つまり、簡単に言えば、あのヘロヘロ賢者、哲人さんの正体は、わしのようなアホにも判りやすく話をする教育者的技巧にも哲学的思考の定石にも、訓練がなされているどころか、熟達したマスター哲学亀仙人なのでもあります)
(ばらしちった)
(敬語はめんどくさいから省いてあるwので、ひでー、と思うでしょうが、ガメ・オベールのやることだと思って我慢しなさい)
(コメントやツイッタを通じて議論していくとりかかりにすべ、という企みなので、あらゆる意見を歓迎いたしまする。
おおおお、な意見は当然、みなで議論いたしまする)
—–<以下本文>—–
母語に限らない。
自分は何のために言葉を使っているのだろうと思う。
ある程度、言語に関心があって、人間の言語が伝達に向いていると考えうる人はいないだろう。
鳥の啼き声の模倣の厳格化から出発した人間の言語は自分の意識を深く掘り下げてゆくのには向いているのに、というよりも意識そのものであるのに、その意識が視ている陰や造形がどんなものであったかを他人に伝えることは出来ない。
認識は常に言語の褶曲に沿って歪んでいるが哲学的知識を持ち出さなくても、ちょっと考えてみればわかるとおり、認識は現実に対して優位である。
人間が現実だと信じているものは、どのような場合でも認識にしか過ぎない。
現実が個々の人間によって異なるので、あなたは世界を共有するためには自分の認識を他者に伝達する試みに成功しなければならないが、
そんなことが出来やしないのは、
たくさんの詩人
たくさんの物語作者
たくさんの画家
たくさんの音楽家
が証明している。
The force that through the green fuse drives the flower
Drives my green age; that blasts the roots of trees
Is my destroyer.
And I am dumb to tell the crooked rose
My youth is bent by the same wintry fever.
という孤独な表現は伝達を目的としている。
奇跡的なことに伝達に成功してさえいる。
だが魂から魂に手渡しされるような認識の伝達は、稀で、少なくとも言語が歴史的に形成してきた「定型」を厳格に復元して、掘り出して、壊れやすくても唯一でしかあり得ない単語と単語の、主に音韻によって連結された形を見いだす巧みさなしには起こりえない。
頼み事を頼む気安さで、自分が見ている世界を友だちに伝達するわけにはいかないのです。
人間の絶対の孤独はそこから来ている。
考えてみれば人間は内面に思い思いの曲率で屈曲した宇宙を映し込んではいるが、その宇宙の形と色彩とを他者に伝える方法をもたない以上、釣り針に顎をとられて、突き刺されて、空中でもがく鯛や、あるいはもちろん殺害者が意識することなしに足裏で踏みつぶす蟻の一匹と変わらない。
人間が考える葦であると述べたブレーズ・パスカルの不遜と滑稽さを最もよく知っていた同時代人はルネ・デカルトだろうが、そのパスカルに向けられた冷笑には言語と意識が乖離した「自己」を無意識に仮定するパスカルの知性の不潔さへの嫌悪も込められていただろう。
多分、ルネ・デカルトは、この世には神など存在せず、神などは 自分の脳髄に巣くった言語の、ほぼ閉じた体系の、救済のない孤独を慰藉するための(言語がとどかないと仮定した点で)極めて巧みな遠くにある言語というレンズの架空な焦点にしかすぎないことを知っていた初めての人だった。
無神論であるよりも、有神も無神も、「神」と名がつく「絶対」が言語の祭壇に祭られている宇宙では、人間が孤絶した認識装置でしかなく、世界が個々の人間の孤独な認識そのものにしかすぎないことへの、虚しい抵抗に満ちた仮説でしかないことを知っていた。
自分の首に向かって話しかけている首なし騎士の亡霊に似て、人間が言葉を使っている、という認識はばかばかしすぎて論外だが、言葉こそが人間の実体であるという現代人の知見も怪しいもので、仮に生物の個体がDNAの乗り物にすぎないとすれば、個々の人間の意識は言語の乗り物にしかすぎないのは、ほぼ、自明のことである。
だから、
人間には意志が認められず
人間には判断というものが存在しない。
人間は善をもたず
人間は悪をなしえない。
現代日本語人が神や悪魔を論じないで済んでいるのは、ちょうどエンジンの仕組みを知らなくてもクルマを運転することは出来るのと同じで、神や悪魔と格闘しなければならない西洋語が文化の交易上に製品として生み出した概念や技術のマニュアルを理解することだけが哲学の仕事でありえた幸福な模倣者の近代を生きてきたからだが、仮に物理学者や天文学者がいまおこなっている世界を説明することからの「絶対」の排除に成功したとすると、
手で触れられて、たしかな存在であるはずの物質文明は、文字通り砂上の楼閣として消えてしまう可能性がある、というとあなたは笑うだろうか。
だが、少なくとも21世紀に至って言語は絶対を失うことによって構造の梁と柱とを失う危機にさらされている。
あなたがとおの昔から気がついていたように、ぼくが日本語を習得することにしたのは絶対の存在しない言語の体系が、どんなふうに世界を説明するのか、より重大なことは、世界に対して、どのような情緒をもちうるのか、ということを知りたかったからでした。
20世紀の終わりから21世紀にかけていくつか現れた「この世界は巨大なプログラムがうみだしている仮想現実の一部にしかすぎないのではないか」という一笑に付するには、論理的には、あまりに深刻すぎる仮説は、現実が存在せずに認識だけが在って、意志が存在せずに(意志をはたらかせたと仮装するだけの狡猾さを身につけた)追認だけが存在する現実をつきつけられた人間の知性の呻きのようなものだとみなせる。
そうして、この呻吟は、伝達の能力を持たず、個々に縦穴を掘り下げることしか出来ない人間の言語の重大な不具からきているのだと思います。
では、また。
そんな事出来やしない事の代表が恐らく「他人の痛み、苦しみを知らない奴は駄目だ」思想、「他人の苦しみを知れ」思想。観念が事実としての現実から乖離して、他者を偽善で覆った膜で攻撃する為の盾の様にしている「思想兵器」化している言語が日本語。