世界的ネットワークの形成で権利宣言実行に大きく踏み出す
加藤 登 グループ`シサムをめざしてa(首都 圏) |
G8サミットを前にして七月一日から四日まで「先住民族サミット」アイヌモシリ2008が開かれ大きな成功をおさめた。この催しの内容と意義についてアイヌ民族と連帯する運動を続けてきたグループ`シサムをめざしてa(首都圏)で活動している加藤登さんに寄稿していただいた。(本紙編集部)
12カ国から22
の先住民族が
七月一日から四日まで行われた「先住民族サミット」アイヌモシリ2008について報告する。参加した先住民族は、アイヌモシリ(北海道)、ウチナンチュ(沖縄)、日本、台湾、バングラディッシュ、フィリピン、ハワイ、グアム、オーストラリア、アオテアロア(ニュージーランド)、アメリカ、カナダ、メキシコ、グアテマラ、ニカラグア、ノルウエイなど十二カ国二十二民族に及んだ。平取、二風谷、札幌での参加者はのべ千八百五十人になった。
一日目は、開会式で、平取町中央公民館大ホールで行われた。北海道ウタリ協会国際部会長の澤井アクさん、同平取支部長の川奈野惣七さんのあいさつを受けた。
「先住民族の権利に関する国際連合宣言を実現するための課題」と題して国連先住民族問題常設フォーラム議長のビクトリア・タウリ・コープズさんが、基調講演を行った。
アイヌ民族の手で歴史的な会議が開かれたことに感謝したい。世界で最も力を持つG8に『先住民族を無視できない』とわからせることが重要だ。G8各国は権利宣言を実行に移す義務がある。サミットで議論される環境、食料問題などは、G8国自身が作り出した。地球とよい関係を培ってきた我々なら、G8首脳にさまざまな解決策を提示できる。地球規模で環境破壊が進む今こそ、アイヌ民族をはじめ世界中の先住民族に目を向け受け継がれてきた自然を守る知恵を生かしていく時。それは世界の人にとって必ず役立つはず。
この後、海外先住民族全員のメッセージをうけた。夕食を兼ねた交流会では、木幡サチ子さんのカムイユカラが披露された。
環境、権利回復
教育のテーマで
二日目は、世界各地の先住民族からの現状を踏まえ、環境、権利回復、教育の三つのテーマごとにウコチャランケ(アイヌ語で話し合いの意味)を行った。
「テーマT 環境」の司会は、結城幸司さんと通訳のアンエリス・ルアレンさんが行った。カナダのベンさんは、先住民族の資源権を守ることが地球温暖化をストップさせていると提起した。フィリピン(イゴロット)のジョアン・カーリングさんは、世界ダム委員会で日本の国際銀行の融資で進められた「サンロケダム事業」の問題を取り上げた。
「テーマU 権利回復」の司会は、秋辺日出男さんが行った。オーストラリア(アボリジニ)のウェイン・アトキンさんは、オーストラリアの現状を報告。
一九九二年には、「無主の地」だったという従来の考え方を否定し、先住民族が先住権をもっているとするマーボ判決が最高裁で出された。
このような背景を持っていても、政府は、昨年の九月の「宣言」の採決に反対の立場をとった。秋辺日出男さんは、先住民族同士のつながりを強めるべく、ネットワークを作っていこうと提案した。「テーマV
教育」は、司会を酒井美直さんが行った。萱野志朗さんが「民族にとって言語は重要。これからは、『アイヌは美しい』ということをかかげていきたい」と開催の挨拶を行った。ノルウエー(サーミ)のマグネ・オ・バシルさんは、公教育の場においても、サーミ語での教育が奨励され、サーミ幼稚園、小学校から大学までとサーミ語での教育は重要視されていると、述べた。ニュージーランド(マオリ)のザック・ビシャラさんは、自己紹介のとき、振りのはいった歌を必ず歌う。一九六〇年代後半から土地権、マオリ語の復権が主張され、一九七〇年代に先住民族の運動が高揚し、マオリ語が話せる人が増えたという話をしていた。
二風谷・平取
ダム予定地へ
三日目は 午前中フィールドワークが、二つに分かれて行われた。一つは、二風谷ダム・平取ダム予定地を見学するコース。木幡寛さんとお母さん木幡サチ子さんの話をうかがった。実際には、平取ダム予定地の見学を行った。サチ子さんは、生活ために働き、アイヌ文化に触れてこなかったという。二十年前、故萱野茂さんにアイヌ語を学んできた。
萱野茂さんがすきで一生懸命勉強し、練習したこと話していた。「平取ダムに賛成」と語っていたが、息子の木幡寛さんは、「地域の付き合いがあり、反対とはいえないが、本音では反対なはず」と言っていた。ダム建設期間中は少なくとも、そこで雇用が生まれるし、複雑な問題があるようだ。バスの中では「ダム建設反対」を理念先行的に主張した学者にアイヌ民族が反論し、論争するという場面もあった。
もうひとつは、沙流川歴史館・平取町立二風谷アイヌ文化博物館・萱野茂二風谷アイヌ資料館見学コース。札幌市アイヌ文化交流センター(ピリカコタン)に会場を移して交流会が行われた。
この日は、首都圏在住のディプティ・ションコル・チャクマさんと通訳としてジュマネットのトム・エスキルセンさんが海外の先住民族に混じって発言にたった。
この日、アイヌ民族料理を札幌のウポポ保存会のアイヌ女性たちが作り、食事と交えての交流が行われた。コンブだしの団子やキトピロ(ギョウジャニンニク)の卵焼きなどが出された。島崎直美さんが料理を用意してくれたアイヌ女性たちを紹介し、料理の解説を行った。
音楽・踊りで
盛り上がった
四日目は、 全体会、基調講演、提言が札幌コンベンションセンターで行われた。
ゲストのスピーチとして北海道ウタリ協会理事長の加藤忠さん、国会議員の川田龍平議員、紙智子議員、前国会議員の荒井さとしさんの発言を受けた。
一日目と同じで 「先住民族の権利に関する国際連合宣言を実現するための課題」と題してビクトリア・タウリ・コープズさんが、講演を行った。
「二風谷宣言」を ジョアン・カーリングさんが読み上げた。「日本政府への提言」「先住民族への提言」を秋辺日出男さんが読み上げた。「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」のメンバー八人が七月一日発表され、北海道ウタリ協会の加藤忠理事長がその一人に選ばれた。「日本政府への提言」では、「少なくとも半数以上がアイヌ民族から選ばれること」を主張している。
北方諸島に関連して「アイヌ民族がいたから日本の領土である」という論理と対立し「主権」がアイヌ民族にあることを高らかに謳っている。
「先住民族への提言」の第一項目目で次のことが提起されている。将来に向けてG8サミットと連動してサミットを開催する先住民族ネットワークを設立する。カナダ先住民族サミットでは二〇一〇年カナダで開催のG8サミットに向けて、先住民族サミットの開催を実現する組織づくりを促した。
今後「先住民族サミット」は、二〇一〇年カナダで行われる可能性が出てきた。今回の「先住民族サミット」の大成功は、アイヌ民族のみならず、世界の先住民族の運動にとっても歴史的なイベントとして記憶されるだろう。実行員会の役員のあいだに齟齬もあったし、役員とボランティア・サポーターズの間の意思疎通に問題がなかったわけではない。
しかし、四日間にわたるハードなスケジュールを無事終えた参加者、ボランティアスタッフは、最後の格調高い「二風谷宣言」「日本政府への提言」「先住民族への提言」を感動を持って受け止め、抱き合い、握手しながら喜びを表現していた。
この後、「先住民族ミュージックフェスティバルinアイヌモシリ2008」が行われ、「先住民族サミット」アイヌモシリ2008の全日程が無事終了した。
演目は、1タクサ・リムセ、2札幌ウポポ保存会、3アイヌアートプロジェクト、4アグネ氏、5床絵美、6白糠アイヌ保存会、7マオリの皆様、8AINU
REBELS、 9寿、10OKI+Marewrew、11巨大ポロリムセ。
AINU REBELSの歌を聴いて、涙する若者がいるなど、この音楽イベントも印象に残るものだったが、最後の巨大ポロリムセは、会場に来た全員によって踊り、手をつなぎ最高に盛り上がった。
民主化運動20年
在日ビルマ民衆が
軍部独裁抗議デモ
八月八日は、一九八八年に学生を中心としたビルマの民主化運動に、軍が無差別発砲し、多数の死者が出てから二十年目にあたる。この弾圧をきっかけに八八年九月十八日に軍部がクーデターを起こし、現在にまでいたる軍部独裁政権が続いている。九〇年には総選挙が行われ、アウン・サン・スー・チー率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝したが、軍部は政権委譲を拒否し、スー・チーさんを軟禁状態に置き続けている。
この日、在日ビルマ人共同実行委員会(在日ビルマ民主活動家)は五反田南公園に集まって「8888(1988年8月8日)ビルマ民主化運動記念デモ行進」を行った。デモには鮮やかな色彩の旗・横断幕を掲げた民主活動家、少数民族、在日ビルマ人労組の人びとなど千人近くが集まって、ビルマ大使館前を通り品川まで元気いっぱいのデモが繰り広げられた。
サイクロンの被災者を見捨てたまま、軍部独裁体制は「憲法国民投票」を強行し、延命をはかっている。
ビルマ民衆の反軍事独裁・民主化の高いと連帯し、ねばり強い支援の運動をともに作り出していこう。 (K)
コラム
カトリックのお寺参り
ボクには墓参りの習慣がない。それは、両親も同じこと。お盆も、お彼岸も、命日もまったく無縁な生活を送っている。だから実家には、仏壇もなければ、神棚おろか御札一枚見あたらない。まして線香やロウソクなどあるはずもなく、墓参りの記憶は無いに等しい。
では、無宗教、無神論者かというと、それも違う。両親は、篤いカトリック信者なのだ。カトリックが墓参りをしないのか、うちの両親だけのことなのかは定かではない。因みにカトリックなのは、一族の中でも両親と母の妹、そしボクたち兄弟三人くらいのもの。そういえば、祖母は天理教だったけ。父の姉は創価学会だった。つまり、我が一族は、内戦はなかったものの宗教の坩堝状態だったと言い切れる。
このような家庭環境に育てば、子どもが親の考えに従うのが世の中の常。幼いころから、ご先祖様を供養する気持ちも、墓前に手を合わせることもないままドライな大人になってしまった。つい数年前まで両親も墓を建てる気はなく、教会の納骨堂に納めればいいと言っていたくらいだ(今はカトリック墓地を購入し、墓石も建てました。でも、ボク、一度も見にいったことはありません)。
お盆がない代わりに、クリスマスが派手かというとそうでもない。いたってシンプルなもので、ケーキとプレゼントはあったものの、街の喧噪から比べると嘘のような静けさだった。家族連れだって夜のミサに行く途中にある飲屋街では、ケーキをぶら下げ三角帽子をかぶった酔客の姿をよく見かけたが、これもまた我が家にはまったく無縁なクリスマス風景だったことを思い出す。
今でもボクは、何をいわんや篤い(?)カトリック信者である。幼児洗礼を受け、生まれてすぐ何も分からず入信したひとり。洗礼名は、何と驚くことにフランシスコ・ザビエルと付けられた。そう、歴史の教科書に必ず登場するあの超有名人がボクなのだ。仏教でいえば弘法大師相当のビッグネーム。しかし、墓参りの代わりに行かされた教会の日曜学校で、何を学んだかは憶えてない。お祈りの言葉さえ、今ではほとんど忘れている。
生涯カトリックの身ながら、教会に縁遠くなった代わりに、この近年、桜で知られる古刹に通うようになった。もちろん宗旨替えをした訳ではない。また、法話を聞くとか、座禅を組むとかというお寺参りでもない。その理由は、太平洋戦争末期の昭和二十年七月、空襲で焼失した山門を一般市民も含めた檀家の浄財によって再興する計画が立ち上がり、その過程を記録としてまとめることになったからである。
山門は、梵鐘、仁王像を持つ立派なもので、朱塗りされている形容から赤門と呼ばれていた。当時を知る古老たちは、口をそろえて、その豪壮な佇まいを懐かしみ、-自慢する。しかし、図面もなく写真も数枚あるだけ。コンピュータを駆使して、わずかな痕跡や記憶をたどって、現実に甦らせる努力は並大抵のことではなかったに違いない。経費も莫大だったことは容易に想像がつく。
今年のお盆は、撮影のためだが初めてお寺にいた。十一月の本落慶を前に、完成した赤門の姿をしみじみ眺め、梵鐘の音色を耳にしたとき、キリスト教でも仏教でも、いかなる宗教でもその垣根を越え平和のために立ち上がるべきと、改めて考えずにはいられなかった。
赤門の復興は平和のシンボルそのものである。彼岸には、戦争犠牲者の墓参りに出かけてみようと切に思う。 (雨)
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