ハリー・ポッター -Harry Must Die- (リョース)
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秘密の部屋 1.最悪の誕生日




 ハリーはお腹が減っていた。
 昨年と比べると幾分か肉がついて健康的になったお腹が、くきゅうと鳴く。
 原因はダドリーだ。
 この夏唐突に「戦いたい奴がいる」等と言いだして、無茶な減量を始めたのだ。
 ダドリー自身、スポーツマンとは言い難いわがままな性格をしているので、自分だけが我慢するという状況が耐えられなかったのだろう。バカ親……もとい親馬鹿であるバーノンが、ダーズリー家に住む者全員のダイエットを命じたのだ。
 ダドリーが茹でた鶏ササミを調味料なしでふたつ。ダーズリー夫妻はササミひとつ。ハリーはササミの茹で汁だ。一日三食すべてがそれである。奴は燃え尽きるつもりだろうか。
 ハリーはそのメニューを聞いたとき何の冗談かと笑ったものの、ペチュニアの真顔っぷりにその悪質なジョークが真実だと悟った彼女は、夏休み初日、友人に助けを求めた。
 ロンやハグリッドにはフクロウ便を飛ばし、ハーマイオニーには電話でだ。
 やんちゃな男の子の親友はお菓子ばかりを贈ってきた。蛙チョコの詰め合わせパックや、ウィーズリーおばさんお手製のはちみつたっぷりのパンケーキ。甘くて甘くて、匂いがダドリーにバレやしないかとひやひやしたものだが、不思議とハリーの部屋にのみ匂いが充満するようになっているようだった。
 大きなひげもじゃの友人は、やっぱりロックケーキだ。元気が出るようにとメッセージが添えてあった薬味入りのものがあったので食べてみたところ、一日中顔色が青と紫のマーブル模様になったので部屋から出れなくなったのは、今となっては笑い話だ。新学期に会ったら殴ろう。
 ハーマイオニーはというと、有り難いことに栄養のある野菜類が入った食料を送ってくれた。日持ちがするようなものばかりだったので多少味気なかったが、それでも有り難いことは有り難い。だが一緒に入っていた無糖のお菓子郡は何かのメッセージだったのだろうか。
 ところでハリーは、新しい部屋を手に入れていた。
 ダドリーが物置部屋に使っていた、二階の小部屋だ。錯乱したかのようにハリーに対して普通に接するようになったペチュニアが、「女の子なんだからクローゼットに入るくらい服を持たなくっちゃァねェア!」と言いだしたのが始まりである。
 当のダドリー坊やは最初はグズったものの、クリーンスイープを手入れするハリーの姿を見てからは、箒に吊るされて空中散歩をされるとでも思ったのか快く譲ってくれた。

 さて。
 そんな忙しい毎日の中、問題が発生していた。
 手紙が来なくなったのだ。
 夏休みの最初の週は、それこそ毎日手紙のやり取りをしたものだが最近はとんと来ない。
 ハーマイオニーとは電話で話せるかもしれないが、居候の身で電気代を使いすぎるのもどうかと思う。更には最近、かけてみても通話中ばかりで通じないのだ。
 少しばかりの寂寥感を覚えながら、ハリーはドレスのようなスカートの埃を払う。
 髪も綺麗に梳いてあり、唇も普段より柔らかくぷるんとして見える。ペチュニアの命でリップというものを付けたのだ。
 素材がよいためにお洒落をしたハリーはかなりの美少女であり、ダドリーですら一瞬見惚れるほど可愛くなっていた。
 ではなぜこんな恰好をしているのか。
 バーノンの商談に必要だからだ。

「ミスター・メイソン! ミスター・タチバナ! さあさこちらへ!」
「やぁダーズリーくん! わたしゃ今日を楽しみにしていたよ!」
「お久しぶりですね。お邪魔致しますダーズリーさん」

 バーノン・ダーズリーが長を務める企業、ダーズリー穴あけドリル株式会社は工事器具を扱う業界では有数の実力派企業だ。
 社長の厳格な性格から、信頼と実績と結果を積み重ねてきたために、こうして海外の社長さんを招いての食事会&商談をもぎとったのだ。
 フランスのメイソンドリル会社と、日本の立花重工の二社。その社長夫妻を迎えてのおもてなしと、自社商品を買わせるための心理戦がダーズリー家のリビングで繰り広げられる。
 そう、ここはビジネスマンの戦場! ……を、お茶を持って歩くのがハリーの仕事だった。
 要するに、見目がいいことを買われての給仕係だ。
 これにはハリーも参った。
 自室にいて居ない者として扱われた方がよっぽどマシだ。面倒臭すぎる。
 何故だか熱心にハリーに話しかけてくるタチバナ夫人を漏れ鍋で習得した営業スマイルであしらい、這う這うの体で自分の仕事を終えて自室へ退避する。
 あとはバーノンが商談をうまく済ませることができれば、万事解決だ。彼の機嫌もよくなってくれれば、ハリーも幾分か助かる。主に八つ当たり的な意味で。
 ハリーはスカートのまま、着替えもせずベッドにぼふんと倒れ込む。この後まだ呼ばれる予感がするからだ。そのとき部屋着に着替えていて恥をかくのは自分だ。
 くぐもった声を漏らしながら、ハリーは枕の中に手を突っ込む。
 しん、静寂を部屋に満たした次の瞬間、枕の下に仕込んであった杖を抜き放ってクローゼットへ突きだして低く小さめの声で脅した。

「今すぐ出てこい! さもなくば殺す」

 傍から見れば子供の遊びか、狂人のそれ。
 しかしハリーは魔女。魔法使いだ。
 ハリーが念じれば杖からは呪文が飛び出し、対象に呪いをかけるだろう。
 未成年の魔法使いが学校外で魔法を使うことは特定条件下を除いて禁じられている。そう、今回はその特定条件下に該当するかもしれないのだ。
 所属国魔法省の認可を受けた一部の未成年魔法使いが使うとき。
 所定の手続きを済ませたうえで、学校の課題のため練習するとき。
 ――命の危険が、迫ったとき。

「三つ数える。出てこない場合はクローゼットごと消すぞ」

 気配を殺す術を知らないらしい侵入者に対し、警告を発するハリー。
 クローゼットを『消失』させればとりあえずは倒せるだろう。
 油断なく杖先を向けたまま、ハリーは数を数えながら魔力を練り上げる。
 カウントダウンがゼロになった。

「警告はした。『エバネス――」
「おッ、お待ちを! ハリー・ポッター様!」

 呪文の詠唱を中断する。
 魔力を注ぎかけていたが自らファンブルさせ、詠唱を破棄した。
 クローゼットから無抵抗を主張しながら恐る恐る飛び出してきたのは、小さな妖精だった。
 ハリーはホグワーツで学ぶ前、妖精というのはエルフのように美しい小さな悪戯好きたちだと思っていたが、現実は残酷だった。こんなものに妖精なんて名づけるなよと思ったものだ。
 汚らしい布きれを身にまとい、長い耳と大きく裂けた口。大きな目と小さく長い鼻が特徴で、身長はヒトの子供ほどの醜い魔法生物。
 《屋敷しもべ妖精》だ。
 魔法使いの住む家屋に憑いて、特定の魔法使いを主と崇めて従う本能行動を持つ。
 確認されているだけでも紀元前からその存在がわかっている彼らは、当然ながら魔法使いが創りだした元魔導生命体である。元、というのは長年かけて繁殖と死を繰り返していった結果、通常の生物として世界に認識されたからである。恐らく創造された当時は、必要になるごとに作りだされる守護霊のような存在だったのかもしれない。
 それが彼ら、しもべ妖精だ。
 主たる魔法使いや魔女に従属することを生物としての至上の命題としており、生存意義である。元が魔法界での奴隷制度を廃止するために創られた魔導生命体なので、要するに奴隷の代わりだ。
 慈悲といえば、その労働を彼らが快感と認識できるように創ったことか。魔法使いは労働力が手に入る、しもべ妖精は労働という快感を得ることができる。ウィンウィンというやつである。
 さて。
 ハリーの目の前に現れた屋敷しもべ妖精は、どう考えてもダーズリー家に憑いた存在ではない。
 なにせマグルの家に屋敷しもべ妖精は憑くことができないからだ。
 彼らも飲食は行えるが、あくまで栄養補助としての役割が大きい。料理を任されるしもべ妖精にとっては味見も行う必要があるため必須の技能なのだ。
 彼らは通常、空気中に存在する極微量の魔力を摂取して存在している。つまり魔法使いや魔女などと違って体外に魔力を出す術を持たないマグルが多い場所では、しもべ妖精にとってはまるで山頂のように空気が薄いような気分を味わっていることだろう。
 だというのに、彼、または彼女はここにいる。
 何故だろうか。

「君は?」

 杖を向けたままハリーが問う。
 侵入者たる屋敷しもべ妖精は魔女の言葉に従おうとするものの、しかし怯えきってしまっていて、どうにも言葉が出てこないようだ。
 杖が怖いらしい。どうやら彼の主人はあまり良い扱いをしてこなかったようだ。

「杖は下げた。言ってくれ、君はなんだ」
「ひぅぅ……。は、はい。わたくしめは屋敷しもべ妖精のドビーと申します」 

 キーキーと甲高い声でドビーと名乗った彼は、恭しく礼をする。
 若干ペチュニアに影響されているハリーは、小汚い彼の事をあまり好くことができなかった。

「そう。で、ドビーとやら。何をしにここへ来た」

 あえて冷たく言い放つ。
 怯えているならばそれでも結構。
 その方がより聞きたいことが聞きだせそうだ。

「ドビー、ドビーめは。ハリー・ポッター。あなたに警告をしに参りました」
「……警告?」

 予想外の言葉だ。
 誰ぞ血筋のよい家からの使いかと思えば、警告ときた。
 いったい何を言われるのかちょっと想像できない。
 ハリーは少しだけ身構えた。

「内容は」
「ハリー・ポッター。……あなたはホグワーツに戻ってはいけません。あそこは危険です」

 突飛に過ぎる。
 ホグワーツに戻るな? いったい何を。
 それに危険だというのは去年度のことでよくよく身を以って知り過ぎるほどに知っている。
 ハリーは無意識に額の傷を撫でながら、言った。

「危険なのは承知の上だ。でも、わざわざ言いに来たからには、ぼくの知りえない内容で危険だということなんだろうね」
「仰せの通りにございます」
「じゃあ言ってくれ。何がどう危険なんだ」

 ハリーが何気なく言ったその言葉に、ドビーは黙り込む。
 言おう、言おう、としているのに言えない様子で、おそらく彼の宿る家の主義に反した言葉なのだろうことは容易に考えられた。
 つまり、彼は自らの主に背いてでも警告しに来た?
 ぼくに。この、ハリエット・ポッターに?

「言えないのか」
「……はい」

 しょんぼりと落ち込んでしまった。
 ちょっとかわいい。

「ならいい。勝手に推測しよう」
「え?」
「それにぼくは、何を言われようとホグワーツへ行くよ。力を得るためには知識が必要だ。そのためにはあの城で学ぶ必要がある」

 警告に来てくれたのは感謝するが、受け入れることはできない。
 そう言われたドビーは、ショックを受けた顔で固まってしまった。 
 とりあえず何か出してやるか、と思って魔法界製の布袋からロンのクッキーを出そうとしたところ、背後からゴツンゴツンという鈍いが聞こえてきた。
 屋敷しもべ妖精は、種族の宿命として人間を攻撃することが絶対にできない。ロボット三原則を思い出させる本能だが、今この時ばかりは有り難い判断材料だった。
 この肉を打つような音は、自分への攻撃ではない。
 ならば何か、と思いつく前にハリーは行動に出ていた。

「やめっ、やめろドビー! 何やってんだ!」
「ドビーは悪い子! ドビーは悪い子!」

 電気スタンドを自分の頭に打ちつけている姿は、どう見たって正気には見えない。
 慌ててスタンドを取り上げ、なぜこんなことをするのかを問いただそうとした時。
 部屋の扉がバターンと開いた。
 
「ハリー・ポッター! ぬぁーにを騒いで……なにやっとる、はしたない。パンツ丸出しで」

 怒り心頭で入ってきたバーノンが、ハリーの姿を見た途端呆れた声を出す。
 おそらく商談の最中に、ハリーの声が階下に届いてしまったのだろう。
 しかもドビーが見えていない。魔力がないと見えないのだろうか? いやしかしマグルにも使えないだけで魔力はあるはずで……、と少し思考の海に沈みそうになったが急いで現実へと意識を引き戻した。今はその時ではない。
 バーノンの言葉を思い出す。
 スカートのままベッドに寝転んだせいで、スカートがめくれあがっている。
 見え隠れするどころかその存在を盛大に主張しているのは、真っ白なショーツ。デフォルメされたワンポイントのフクロウがチャーミングだ。
 己のあられもない姿に気づき、顔を真っ赤にしたハリーは甲高い悲鳴をあげた。

「まったく! おまえのせいで、とんでもない誤解を受けるところだった!」
「誤解じゃないでしょう! ノックくらいしてくださいバーノンおじさん!」

 リビングでハリーとバーノンが口論するという、ダーズリー家初のイベントが催された。
 商談は見事成功。ダーズリー穴あけドリル会社は世界に羽ばたく大企業への一歩を踏み出したのだ。口論しつつも上機嫌なバーノンによれば、メイソンドリル会社と立花重工、業界でも有名な二社と組んで新型の穴あけドリルを開発する。そういった結果を勝ち得たそうだ。
 おかげで明日の夕飯はパーティだそうだ。ハリーの悲鳴で誤解を受けたバーノンの取り繕いようがコミカルで、堅物だけが取り柄ではない男だと思われたのがプラスに働いたおかげだそうだ。つまりハリーも同伴を許された。余計なお世話だった。
 ペチュニアが婦女子の部屋に押し入るとはなんたることかとバーノンを叱っているのを尻目に、メイソン夫妻とタチバナ夫妻に出した料理の残り物がタッパーに保存されている。ダイエットはいいのだろうか? とも思ったが、まあこれだけ食べた後で余計なことを言うのも無粋だろう。ということでハリーはそれらを有り難く頂戴し、部屋へと持ち帰った。
 隣室からアダルトな感じのアニメ声が聞こえてきたので、ノックして一言残す。するとダドリー(ブ タ)のような悲鳴と共に音量が下がったので、ハリーはそのまま部屋へと入った。
 ミックスベジタブルはヘドウィグと半分こ。チキンスープの中から少しふやけたチキンを取り出して、ヘドウィグの餌皿に入れてやった。ホー、と低く甘えるような声と共に、指を甘噛みされる。お気に召したようだ。
 穏やかな時間が続く。これでロンたちから手紙が来たら文句なしなのに。
 ハリーはスミレの砂糖漬けケーキと共に、ちょっとした幸せを噛み締めていた。

「あの、ハリー・ポッター?」
「うわびっくりした、忘れてた」

 部屋の隅にいたらしいドビーが声をかけてきて驚いた。
 元々あまりものだったため少量しかなく、その小さなケーキを頬張ってハリーは言う。

「それで、ドビー。ぼくはホグワーツに帰るよ。危険なのはどちらにせよ今さらな話だし、それにあそこはもうぼくにとっては家なんだ」
「ですが行ってはなりません! 罠なのです、貴方様のお命を奪う罠! あなたの損失は、魔法界の……いえ、それだけではありますまい! 世界の損失なのです!」
「罠? 損失? 危険って、誰かの手によるものなのか。それは死ぬほどのものなの?」
「……いけない。これは言ってはならなかった」

 再び自分を罰しようとするドビーを慌てて止めるハリー。
 今度彼に襲いかかろうとしたのは、壁だ。
 部屋の向こう側にはダドリーがいるはずで、しもべ妖精の頭でドラミングでもしようものならきっと悲鳴と共に盛大に漏らしてしまうに違いない。
 間髪入れずにまた騒いだら、さすがにバーノンの機嫌も悪くなるだろう。

「やめろって! 大人しくしろっ」
「はやく罰しませんと! ドビーは悪い子! ああっ、いけない子!」
「罰しない事こそが罰だと思え! 本能すら自由にできない罰と思えばいい」
「この素晴らしい発想、やはり天才……」

 そんなところで尊敬されても困る。
 しかしこれは困った。このドビーとやら、思っていたより意固地になる性格だ。
 誰に仕えているかは知らないが、しもべ妖精への扱いが悪く、しかしそれでも仕えているとなればそれなりに血筋の良いところだろう。
 聞いてもまず答えてはくれないと判断し、ハリーは彼にお引き取り願うことにした。

「まぁ、そういうわけだ。御主人からの命令かそうじゃないかは聞かないけど、諦めてくれ。ぼくはホグワーツへ帰らなくちゃいけないんだ」

 翌朝。
 ハリーの言葉を聞いて寂しそうにその場から煙のように消えたドビーの顔を思い出しながら、ハリーは新聞配達のアルバイトをこなしていた。
 魔法省発行の書状によれば課題のための魔法使用期間は昨日の一日間だけなので、魔法の練習は行えない。あとは肉体を鍛えるのみだ。
 ダドリーから聞いた話では――そう、聞いたのだ。決して脅してなどいない――フィットネスジムに行けばかなりの運動になるということだ。そのための資金稼ぎなのだが……彼はなぜそんなことまで知っているのに痩せないのだろう。ブタか。ブタなのか。
 せっせと走りながら、ハリーはスパッツとタンクトップ姿でプリベット通りの家々に新聞を投げ込んでいく。
 誰からも手紙が来ないので、いい加減暇を持て余したハリーは既に宿題を片付けてしまっていた。ゲームをやる趣味はない上に、手持ちの本は読み終えたのでやることがないのだ。
 再来週は、ハリーの誕生日だ。
 流石に誕生日には手紙のひとつくらいは送ってくれるだろうと思う。人がいない早朝でよかった、楽しみでにやけてしまう。

「これで終わりっと」

 最後にダーズリー家に新聞を投げ込んで、本日分のノルマを達成する。
 いい汗をかいた。風呂掃除のついでにシャワーを浴びてよいと言われているので、さっさと冷たいシャワーを浴びたい。七月も後半だ、日差しも強い。
 タンクトップの胸元をぱたぱたとしながら風を呼び込んでいると、
 ――自動車が突っ込んできた。

「えっ!? ちょっ、お、わ、うわあああああああ――――ッ!?」

 杖を取り出す暇もなく、確実に一二〇キロ以上のスピードでスポーツカーが疾駆してきた。
 狙いは違わず歩道の上のハリー自身。
 すわヴォルデモートの刺客かと思ったが、彼らがマグル製品たる車に乗ってくるとは思えない。
 五時半という早朝であるため周囲には車も人もおらず、横に飛び退いても車が曲がってくればそのまま潰されて確実にお陀仏だ。
 コンマの世界で思考を巡らして導き出した答えは、跳ぶことだった。
 車体とコンクリートの壁の間にハリーを潰すつもりのようだ。ハリーはその壁目がけて全力疾走。車に追いつかれる直前、壁を蹴って車の屋根へと転がり込んだ。
 轟音を立ててコンクリートに突っ込むスポーツカー。
 体を丸めて主要器官を防御、屋根の上をごろごろと転がって地面に叩きつけられた。
 砕け散ったコンクリートの破片が肌を傷つけ、大きめの瓦礫が打撲を造りだす。
 どこか骨が折れたかもしれないが、結構な勢いで壁に衝突した車からガソリンが漏れているので爆発でもされたら目も当てられない。
 転がるようにその場から離れようとするものの、ふらりと体勢を崩して倒れ込む。
 目の前が赤い。血か、血を流したのか。クィレル戦で味わったあの暖かさと同じ感覚。
 頭でも打ったか、地面に倒れ伏したハリーはそのまま意識を手放した。

 全治一ヶ月弱。
 医者からあの事件現場に居てたったこれだけとは奇跡だ、と感心されてしまった。
 少なくとも三週間は病院で療養し、あとは自宅療養でいいのだとか。
 骨も折れておらず、外傷は少々酷いものの命に別状はなにもなし。
 だが打撲は酷いものだそうで、肌に傷を残したくないならば入院は必要だそうだ。
 見舞いに来たダーズリー一家からは入院費に関する嫌味をねちねちと言われたが、それでもフルーツ詰め合わせを持って見舞いに来るあたり世間体を気にしすぎというか、律儀というか。
 大人しく治療を受け、清潔なベッドで横になる。
 そこでやっと思考できるほど余裕ができた。

「……本当にただの事故だったのだろうか?」

 タイミングが良すぎる。
 ドビーが学校に来るなと警告したその次の日に、こんなド派手な事故が起きるなど。
 それも、ハリーを入院させてしまうほどの怪我を負わせて。
 さらには怪我人がハリーだけだというのもおかしな話だ。運転手はどうした。ならばアレは無人で動いていたのだろうか。それはつまり、魔法が用いられている事を意味する。
 ひょっとすると長期入院するほどの重傷を負わせれば、恐れをなしてホグワーツに行かなくなるとか思ったドビーが下手人なのではあるまいな。
 そんな短絡的なことするわけないか、と自分の考えに呆れながら、ハリーは壁掛け時計を見た。
 零時。これで七月三十一日になったわけだ。
 十二歳の誕生日。
 祝ってくれる友はいたはずなのに、その日フクロウを見かけることはなかった。
 今まで何度もこうやって過ごしてきたはず。だというのに、酷く寂しい。惨めだ。
 数ヵ月前に賢者の石を巡る騒動で泣いて以来、なんだか涙腺が弱くなったような気もする。
 意地でも涙を流すまいとして、ハリーは仰向けにベッドに倒れ込む。
 その日は何故だか枕が冷たくて、あまり寝る事が出来なかった。

 三週間と少し後。
 入院費がばかにならないということもあって退院を許され、あとの数日は自宅療養となる。
 肌に残った痣を消すのに思ったより長引き、明後日がホグワーツへ行く日になってしまった。
 患者衣を脱いでベッドの上に放り、シャツを探す。
 その時、ふと姿見に映った自身の裸身が気になって、じっくりと眺めてみた。
 まだ顕著な変化はないものの、そろそろ下着を買った方がいいのだろうか。
 昨年はハーマイオニーやパーバティがいたためそういう話もできたし成長の速いパーバティの話はとても参考になったが、今はそれを相談する相手もいないので何ともし難い。
 ハリーは自分の胸をむに、と触ってみた。
 乳腺が発達してきたわけでも、ましてや乳房が膨らみ始めてきたわけでもない。
 十二歳なのだ。同年代と比べると少々遅いかもしれないが、別段おかしなことでもない。ただ少々の違和感を感じるため、そろそろだろうか、という予感がするだけである。
 思えばホグワーツでの栄養ある食事のおかげで、多少は女性らしい体つきになってきた気がする。以前は肋骨が浮くほどガリガリに痩せていて、性差など感じられなかったが今は違う。
 太ももはその名の通り多少は肉がついてきた、腰回りも骨盤の形がわかるほどではなくなっている。骨と皮だけのひょろひょろとは言えない自分の姿に、ハリーは多少の満足を覚える。
 こんこん、と。
 窓を叩く音が聞こえてきた。
 ここは病院の四階である。よって、窓を叩いてくるものなど限られる。
 やっと誰かからフクロウ便がきたのか。
 誕生日から二週間以上過ぎてしまっているが、それでも送ってくれただけで魔法界とのつながりを感じられて、とても嬉しくなる。ヘドウィグはプリベット通りの家に居るから、誰だろうか。ウィーズリー家のエロールだろうか。それともホグワーツからの手紙か。

「やあハリー! 全く連絡がないから心ぱ、い……、……ウワーオ……」
「おっとこりゃまずい。目は逸らしてやったぜハリー。俺は見てないよ」
「流石に見ちゃまずい。紳士としては当然だぜハリー。忘れちゃったよ」

 窓の向こうにいたのは、フクロウではなかった。
 ウィーズリーの双子と末弟の三人だ。
 三人が何らかのシートに座っているあたり、内装を見る限りは車を透明化させたうえで宙に浮かばせているのだろう。ハリーのいる病室の窓からはばっちり見えているが、おそらく外から見れば何もないように見えるだろう。
 たかが猛禽類如きに裸を見られる程度は気にしないが、それでも男の子に見られてしまうのは屈辱の極みだ。それに、その、なんだ。恥ずかしいという気持ちもある。
 患者衣で体を覆って隠したハリーは、死んだような目で窓の外へメンチビームを放った。

「君ら、ちょっとこっち来い」



「あらあらあら! まあまあまあ! はじめまして、ハリー!」
「会いたかったです、ウィーズリーおばさん」

 ぎゅっとふくよかなお胸とお腹で抱きしめられ、ハリーは暖かい抱擁を味わった。
 モリー・ウィーズリー。
 ロンやフレッド・ジョージの母親であり、七人兄弟を子に持つウィーズリー家のボスである。
 クリスマスのときに彼女からの手紙と手作りお菓子をいただいたので、直接の面識はなくとも知り合いではあった。だからなのか、それとも男所帯において女の子という存在が大歓迎なのか、熱烈なキスを頬に貰ってしまった。
 隅の方ではロレッジョ三兄弟が肉の塊となって積みあがっており、ハリーから事情を聴いたパーシーが説教を行っていた。少々拳を痛めたハリーはウィーズリーおばさんとハーマイオニーの慰めを受け、幾分か精神を回復していた。

 場所はダイアゴン横丁。
 ハリーらはフローリシュ・アンド・ブロッツ書店で教科書を買う列に並んでいた。
 手紙を送っても返事が届かず、さらにハリーからも手紙が届かないということで心配になったウィーズリーの面々は、ハリーを迎えに行くことにしたそうだ。本来ならば誕生日当日に迎えに来てウィーズリー家でもてなしたかったそうだが、肝心のダーズリー家にハリーはいなかった。入院していたのだから当たり前か。
 ならばダーズリー家の人間に直接聞いた方がいいだろう、とのことだったが、生粋の純血魔法族であるウィーズリー家の面子では、ダーズリーへの心証がよろしくない。そういうわけでマグル出身者である常識的なグレンジャー親子の到着を待っていたため、予定が遅れてしまったそうだ。
 ハリーは彼らのその行動こそが正解だと、強く感心していた。
 仮に、ウィーズリー家の誰かがハリーを迎えに行ったとしよう。例えば店の外でグレンジャー夫妻を質問攻めにしているアーサー・ウィーズリーがダーズリー家に行ったとしたら、まず間違いなく反感を買っていた。彼は熱狂的なマグルファンであり、馬鹿にしているように見えてしまうほど魔法を使わないマグル製品に愛を注いでいる。特に最近では電化製品に恋をしているようだ。
 現にグレンジャー親子でハリーを迎えに行ったとき、外面だけは完璧なダーズリー家は暖かく夫妻を迎え入れとっておきの紅茶で持て成し、ハーマイオニーにはお客様相手には大人しいダドリーを宛がってしばらくの間は談笑までしたとのことだ。
 事情を知らないグレンジャー夫妻は礼節ある家だと思ったようだが、ハーマイオニーはその真実を見抜いていたようで、ハリーと顔を合わせるなり熱烈なキスと抱擁を施してきた。
 あの家には、ダーズリー一家の匂いしかなかったそうだ。
 写真や服、家具に食器。はては食料品など、人間はそこにいるだけで一定の匂いを残すことになる。だがあの家には、ハリーの匂いが欠片たりともなかった。恐らくバーノンが徹底的に気を使っているのだろう。これであの家にはもう一人女の子がいるなどと、いったい誰が思おうか。

「はいハリー。これホグワーツからの手紙。ウィーズリー家の方に来てたわよ」
「ああ、だからぼくの方には来なかったのか」

 去年見た手紙と同じく、綺麗な便箋をハーマイオニーから受け取る。
 中身はやはり、進学おめでとうの文字と、必要な教科書類のリストであった。
 歩きながらリストを読んで必要な金銭を頭に思い浮かべながら、ハリーはふと気づく。
 今年は妙に必要教科書が多い。
 二年生になるから、という理由だけでは説明がつかない。闇の魔術に対する防衛術だけで何冊あるのか。いったい何ガリオンかかるのだろう。
 しかも気になることに、著者がすべて同じだ。
 大学教授が自分の出版した本を教科書指定する、というのはよくある話だ。
 それと似たようなものか。

「ああ、この《小鬼と好意的な旅》って読んだことあるな」
「私が貸したやつね。面白かった?」
「うん。防衛術の観点から見ると微妙だけど、小説としてはかなり面白かった」
「でしょう!? やっぱりハリーはわかってるわ。ロンったら読んで一分で放り投げたのよ」

 それは内容以前の問題だと思う。
 しかし、そうか。この小説群を教科書に指定するとは、この本を選んだ教授はよほどのロックハートファンなのだろう。
 代表作『私はマジックだ』で知られる小説家。その名もギルデロイ・ロックハート。
 お茶の間の奥様方に人気な、ちょっと古いタイプのハンサムガイだ。
 魔法界での職業分類は《魔法戦士》になるのだろうか。要するに冒険家であり、その実体験をもとに物語を執筆している。戦士というよりも小説家としての方が有名な人間だ。マグルでいうアイドルや、芸能人といった方がわかりやすいだろう。
 そんなロックハートがどんな人物かというと、顔を前に向ければよい。
 うっとりした顔のマダム達を相手に、輝く笑顔でド派手なサイン会を行っているのが彼だ。

「いったいあれの何がいいんだか……」
「あらわかってないわね。彼っていろいろな魔法生物を倒してきた、偉大な魔法使いなのよ」

 辟易したロンの呟きに、ハーマイオニーが噛みつく。
 意外なことにホグワーツ一年生の主席様は、あのハンサムにお熱なのだ。
 それは子鬼の本を貸してもらった時に十分すぎるほどわかっている。その際にハリーが貸してくれなどと一言も言っていなかったことからも、よくわかるだろう。
 とりあえず一目見ておこうかなと野次馬根性を出したロンとハリーは、後悔しながら本屋の外へ出ようとする。
 しかしそこに、耳の奥が痒くなりそうな声が届いた。

「もしや、ハリー・ポッターでは!」

 イケメンの声だ。
 厄介事の匂いを感じとったロンに、ハリーは見捨てられた。
 あとで絶対殴るからな、と視線を送りながら、ハリーは新聞記者らしき男に引っ張られて書店内へと引きずり込まれてしまう。そして放り出されたのは、ハンサムの胸元だった。
 こッ、こいつ! 肩を抱いた!? いや、抱きしめてきやがった!
 即座に鳩尾へ肘鉄をぶち込んだハリーは、急いでロックハートから離れようとした。
 しかし彼もハンサムとしての意地(?)があるのか、ハリーの全力攻撃を食らっても呻くだけで、もう一度ハリーの肩を抱いてきた。感心するべきか呆れるべきか、非常に迷う。

「げほっ。今日は記念日ですよ! なにせこのギルデロイ・ロックハート! と、ハリー・ポッターが一度にそろった素晴らしい日なのですから!」
「離せ」
「ああーっ、分かってます。分かっていますよぉ、ハぁリーぃ。照れなくてよろしい! ウン! なにせ私は、ぁハンッ、サムッ! っでェ~~~すからねぇぇ――ッ」

 ああ、とハリーは納得する。
 これが「ウザい」という感情か。

「なんと彼……おや? おっと! 女の子だったのかいハリー・ポッター!」
「ちょっと髪伸ばしてるだろう見てわからないのか! というか腰を触るな変態っ!」
「いやー、ハハハ! 失ゥ礼! レディに対してあまりにも失礼でしたねっ! ウン!」

 謝罪とはウィンクしながらするものではないはずだ。
 しかしハリー・ポッターが女性であるというのは、あまり広まっていないらしい。
 新聞記者は慌ててカメラのフラッシュを焚きすぎて、書店内の天井を煙で白く染め上げている。
 奥様方は驚きのあまりどよどよとざわめいており、ハリーはなんだか悲しくなった。
 というか、どうして自分が男の子だ、などという情報が流れているんだろうか。

「なんと彼女! ミス・ポッターが私の本をお買い求めになりにきましたっ! おほん! この、ギィルデロォーイ・ルォォックハァァァーットの! 本! をッ! というわけで私から無料でプレゼント。もちろん全冊、そしてサイン入り!」
「鬱陶しいなあ」
「美しいって? ハハハありがとうハリー! さてここで重大発表です! なんと私! ハンサムなギルデロイ・ロックハートは! んハァァァアンスァァァムぬぁ、ギぃルデるぉぉイ・るぉぉぉックふぁぁあートはァん! 今年度九月から闇の魔術に対する防衛術の名誉ある素敵でハンサムな教授としてハンサムホグワーツ魔法魔術学校に栄誉あるハンサム赴任をすることになりましたハイ拍手!」

 魔女たちの拍手と黄色い悲鳴が書店に響く中、ハリーはげんなりしていた。
 はやく解放してくれ。
 助けを求めて視線を彷徨わせると、なんと、なんということか、こういう光景を見てほしくない人物に思いっきり見られていたではないか。
 書店の二階から、吹き抜けを通してこちらを見て笑っている人物。
 ドラコ・マルフォイだ。あと弟。
 まさか、まさかあいつにこんな情けない姿を見られるとは!

「ハリー・ポッターくん! 学校は楽しいかね!」
「イエス」
「それはよかった! 明日はもーっと楽しくなるよね! ハリ太朗!」
「イエス」
「ああーっ、ベリーナイス! でも今年からは私が居ます! さらに素晴らしい日々になることでしょう!」
「ノー」
「え? イエス? ハハハハそうだろうねぇ。ではハリー! 学校でまた会おう!」
「絶対にノゥ!」

 やっとの思いで解放されたハリーを迎えたのは、羨ましそうなハーマイオニーと報復に怯えたロン(サ ン ド バ ッ グ)、そして嘲笑うスコーピウスと腹を押さえて笑い転げるドラコだ。
 ロンとスコーピウスが険悪な雰囲気で相対しているのを尻目に、ジニーとハーマイオニー、そして笑い過ぎて目尻の涙を拭うドラコがハリーに声をかけてくる。

「羨ましいなぁハリー。ロックハートにあんなに親しくされるだなんて」
「そっすか」
「羨ましいわハリー! あとで抱きしめさせてね! あれよ、間接ハグよ!」
「そっすか」
「羨ましいよポッター! どこでもヒロインってわけだ! ぶふっ、くくくく……」
「そっすか……」

 何がそんなに面白かったんだ。
 もはや噛みつく元気もないハリーは、おざなりな返事を残してふらふらと書店から出る。
 しかしその進行は、銀細工の蛇で飾られた立派な装飾のステッキに遮られた。
 誰が邪魔をしているんだ、と見上げてみれば、プラチナブロンドの長髪をオールバックにして、黒系統のローブで身を固めた上品な魔法使いだった。四〇代後半くらいだろうか。
 髪色や目付きがマルフォイ兄弟そっくりだ。
 となれば、彼らの父親か、または親類ということになる。恐らく前者だろう。

「君が、ハリエット・ポッター、ですな。お初にお目にかかる」
「初めまして」
「ああ。私はルシウス・マルフォイ。あれら双子の父親だよ。君の話は息子たちから、よく、聞いている。今後とも、よろしくしてくれると嬉しい」

 挨拶の際の一礼すら優雅だ。
 遥か年上の男性にこうも恭しく扱われると、なんだか面映ゆくなる。
 これが本物の英国紳士か……と、ハリーが感心していると、後ろから声がかかった。
 ウィーズリーズの父親、アーサーだ。

「マルフォイ。うちのお客さんに何の用だね」
「これは、これは、これは。ミスター・ウィーズリー。相も変わらず清貧を貫く崇高なる精神、まこと恐れ入る。魔法族の、面汚しになってまで、粉骨砕身働いているというのに」
「きさま。もう一度言ってみるといい、そのお高い鼻が折れ曲がるぞ」

 紳士じゃなかったのかよ。
 アーサーと顔を合わせた途端、まるで蛇のような狡猾な顔を見せたルシウス。
 案の定始まるのはおとなげない口論であり、実に子供っぽい喧嘩である。
 それはさながら、ロンとスコーピウスの図をそのまま大人にしたかのような光景だった。
 隣でドラコが少し溜め息を吐いているのが見える。

「父上はご立派な人なのだけれど、ウィーズリー家に対してだけは酷く子供っぽくてね」
「あれ、意外。ドラコはお父さんのこと大好きだから、全部正しいと思ってるとばかり」
「そりゃ家族だから愛しているよ。でも親も人間だ、間違うことはある。同レベルに見られるからウィーズリーとは二度と喧嘩しない、って前にも言ってらしたのになあ」

 何時の間にか取っ組み合いの喧嘩になっていたイイ歳した大人二人を止めたのは、やはりというか当然と言うか、彼らの奥様であった。
 ウィーズリー夫人のモリーはカンカンになってアーサーの耳を引っ張り、説教を突き刺して旦那を小さく委縮させている。一方マルフォイ夫人のナルシッサは、上品な佇まいのまま冷たい視線をルシウスに突き刺しており、氏が頭を下げるまで一言も喋らず目線を外さなかった。
 自分が人の親になる、などという珍事がもしも起きるとして、ああいうしっかりした母親になれるのだろうか、とハリーはなんとなく将来が不安になった。
 
 さて。
 ハリー達は大いに急いでいた。
 ダイアゴン横丁での買い物を終えて、一日だけウィーズリー家にお泊りしたその翌日。
 そろそろキングズ・クロス駅に行かねばならない、という話が出たのが午前十時少し前。
 だが此処で大きな問題が起きる。
 魔法族の用いる一般的な時計は、マグル製品と同じく(もっとも技術的には一世紀ほど遅れてはいるが)腕時計を用いる。そして家に使われるのは、壁掛け時計という名の何かだった。家族の人数分だけ針があり、その針は『仕事中』や『命が危ない』などという冗談のような文字を指すのだ。
 なのでウィーズリー家には正確に時間を計ることができない。普通はそんなことなく、通常の時間を指す時計があるのが一般的だが、この家の大黒柱は熱心なマグル信者であるので、つい先日彼らの家の時計は解剖台へと連行されていたのだ。
 故にハリーとハーマイオニーの腕時計を頼りに時間を見ていたのだが、前日には通常通りの時間を示していた二人の時計が、共に何故かきっかり一時間遅れてしまっていたのだ。
 これに慌てたウィーズリー家にハリーとハーマイオニーは、大いに急いでロンドンへと直行。夫妻の手で多少魔法を用いてズルをしながら、例の空飛ぶ車を使ってキングズ・クロス駅に着いたのは十一時四〇分。本当にギリギリである。
 さて、さて。
 しかし本当に困った問題が起きるのは此処からだった。

「ほら急いで! フレッド、ジョージ! 冗談言ってる暇はないのよ! ありがとうパーシー、先に行ってちょうだい! ほらほらジニーちゃん! 急いで! ロン! ロナルド! あなたまた鼻の頭に泥をつけて! ハーマイオニー、ハリー! このおバカをお願いね! さ、行きますよ!」
「モリー母さんは凄いなあ」
「おじさんそう言ってる暇があるなら走りましょうよ」

 荷物を大量に詰め込んだカートを押しながら、人込みを巧みに縫って駆け抜ける。
 マグル達が何事かと見てくるが、それを気にしている余裕はない。
 パーシー、フレッド、ジョージとウィーズリーの面々が、九と四分の三番線に続く壁をすり抜けて先を急ぐ。

「ロン! もたもたしないの! 先に行って!」
「うるさいなあハーマイオニー、君は僕のママか!?」

 手早く素早く。
 こんな事態に陥った責任として、ハーマイオニーとハリーは先にウィーズリーの面々を行かせた。夫妻は多少渋ったものの、議論している暇はないと急かしてさっさと行かせる。
 ペット足る鼠のスキャバーズをとっ捕まえるのに苦労していたロンを向こう側へと放り投げるように行かせて、少女二人は頷いて先を急いだ。
 十一時五〇分。駅員に頼んでカートから荷物を汽車の中に放り込んでもらっても、間に合うかどうかギリギリの時間だ。駅員は魔法を使える大人であるからして、その心配はいらないだろう。
 間に合った!
 ハリーがそう思って安堵した、その瞬間。

「うっ! わ、うわあ!?」

 すり抜けられるはずの壁が、ハリーとそのカートを拒絶した。
 かなりの勢いで突っ込んでしまったため、金属のひしゃげる音とハリー自身の悲鳴が駅構内に響き渡る。更には籠の中のヘドウィグが抗議の声をあげるおまけつきだ。

「どうしたのかね?」
「い、急いでいたらカートが制御できなくって……」

 女性の悲鳴ということで心配したのか、立派な腹の駅員がハリーを助け起こしてくれる。
 新米なのだろうか、一緒にやってきた若い駅員はひっくり返ってこぼれ落ちたカートの荷物を積み直してくれている。
 ひょろっとした新人の彼に礼を言いながら、困り顔の太った駅員に怒られてしまう。

「危ないからね、気をつけなさい。今後はもっと時間に余裕をもってくれると嬉しいよ」
「ご迷惑をおかけしました」
「いや、なに。これも仕事のうちさ」

 去ってゆく二人組を見送るついでに、壁に掛けられている時計を見る。
 それが示す事実を数瞬かけてようやく認識したハリーは、絶望感のあまり呻いた。
 十二時。
 なんて、ことだ。
 ホグワーツ特急に乗り遅れてしまった。
 これはつまり、どういうことか。
 簡単に分かる事だが、脳が理解を拒否する。
 しかし認めねばならない。
 ハリー・ポッターは、ホグワーツには行けなくなったのだ。



【変更点】
・何故かダーズリー家単位での強化。
・死ねばホグワーツ行かなくなるんじゃね理論。
・ウィーズリー家での楽しい思い出作りイベントフラグが折れました。
 よってノクターン横丁へも行かない。いくつかフラグが折れました。
・九と四分の三番線へ行けないのはハリーだけ。

秘密の部屋です。今年も元気にハリーの心をアバダっていきましょう。
今のところ、正史とは然程大きなズレもなく進むと思います。交通手段が違えど目的地が同じなら問題ないというドラちゃん的な理論で。
紳士淑女の諸君のために一言添えると、今年はまだハリーはつるぺったんです。
ところでロンはそろそろ目を潰した方がいいですかね。マーリンの髭!


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