「Gのレコンギスタ」4話。
アイーダに連れられて、ベルリ・ノレド・ラライアが宇宙海賊の元へ。
一方キャピタル・アーミィはデレンセン大尉のカットシー部隊を使い、
宇宙海賊を叩く魂胆だが、ベルリはカーヒル大尉の件で
アイーダに貸しがあると感じ、戦いを止めようとGセルフに乗る展開。
カットシー乱舞というタイトル通り、
カットシーとGセルフの戦いが小気味よく描かれていた。
さて今回はGレコの会話劇について、4話を例に語ってみたい。
まず富野監督の作品は、Gレコもキャラ同士の会話が噛み合わないと指摘されている。
しかし他にも動作にしてもキャラクターがどこかに飛び移ろうとして失敗しそうになる、
もしくはストーリーの進行上を見ても、何かを行おうとしても進まないなど、
富野作品は世界観・キャラの会話や動作も含め「うまくいかない」価値観で通底される。
これが前提としてある。「ディスコミュニケーション」的であるともいえる。
一方で、会話が噛み合わないという指摘にも、噛み合わないパターンがいくつかある。
①お互いの手の内を見せたくないから噛み合わせないパターン。
②感情が高ぶり相手の聞く耳を持たないで会話するので噛み合わないパターン。
③一方は相手に理解を示すも、相手が理解を拒絶するので噛み合わないパターン。
今回のGレコ4話では①のお互いの手の内を見せないパターンが見られた。

まずベルリとドニエル艦長の会話。
お互いが情報を引き出そうと、話題を振るが巧妙に避けつつ質問する。
この後、ノレドやアイーダ、クリムとラライアも会話をするので、カオスな空間になる。

またベルリの母親、ウィルミット長官はルシータ大佐との会話でも
極めて大人同士で巧妙に胸中を明かさず、相手から心意を引き出そうとする会話。
アイーダに関しては、

カーヒル大尉を殺された件もあり、ベルリに対して感情的になり
相手の言うことを聞こうとしないので②のパターンと言える。
一方で、Gセルフで貸しを返すと言ったベルリの言葉には理解を示した模様。
③に関しては、お互いの主張や理解が深まってから起こるパターンなので
まだGセルフではみられないような気もするが、私が気づいていないだけかもしれない。
こうした繋がらない会話劇にある価値観とは何か。
繋がらない会話劇・不完全な会話に関して考える時に
かつて立川談志が松本人志のコントを見た時の発言を思い出す。
「言葉としてそのう。非常に不完全な言葉のやりとりね。オレとっても良くわかるんですよええ。だから俺はよくやってた。『月夜にターザンが泣くねぇ』『王手飛車取りだな』なんだかわかんないんだよ。うん。『潜水艦が飛んでるね』『ブラームスはやだね』なんだかわかんないんだよ、だけどね、そこで笑ってくるのがあるのが一つ。それとその、会話って言うのがこうやって繋がってるようだけど、実際には繋げてるだけの話でね。ほんとに繋げてるんだかどうだかわからない。(中略)
(出典:テレビ朝日1999年10月1日放送 VISUALOVE)
会話は、本質的には繋がっていない・つなげているだけと談志は言う。
こういう立場に富野監督も立っているからこそ、
繋がらない会話を描くことを自覚的にやっているのだろう。
一方で会話が繋がらないだけは終わらない。
この繋がらない会話劇の先にある繋がらない会話(人は繋がれない)な世界でも、
逆シャアのラストのシャアとアムロの会話劇のように、
シャアとアムロが最後の最後で本音で話し合った結果、
サイコフレームが発動して、アクシズが地球から遠ざかった奇跡に繋がる。
Gのレコンギスタが、逆シャアのように繋がらない会話劇からの奇跡を描くかはわからない。
ただ会話が噛み合わない世界・物事がうまくいかない世界で生まれる、
人同士が繋がる瞬間。物事が奇跡的にうまくいく瞬間が描かれるのが、
富野作品の醍醐味の一つではあると思う。
Gのレコンギスタは、繋がらない会話の連続のようにも聞こえるかもしれないが
繋がらないのが普通であり、会話とはつなげているだけに過ぎないと捉えれば
また新しい見え方ができるのかもしれない。
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