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祇陀太子は、その真剣な様子に驚き、考えた。
"なぜ、須達多は、これほどの黄金を投げ出そうとするのか。釈尊とは、それほど偉大な方なのか。仏陀の出現というのは、真実であったのか″
太子は、黄金を敷きつめている須達多に言った。
「もうよい。黄金を並べる必要はない。この園林はあなたに譲ろう」
須達多の真剣さと、揺るがざる信念に、太子は心を動かされたのであった。
更に、太子は、園林を須達多に譲るだけでなく、自らもそこに荘厳な門をつくり、寄進することを申し出た。須達多の喜捨の姿に、共感したのである。
こうして出来上がった精舎が、「祗樹給孤独園精舎」である。
須達多は、よく身寄りのない人びとに食を給したことから、給孤独長者と呼ばれていた。
その彼が、祇陀太子の樹林に建てた精舎であることから、こう呼ばれたもので、略して祗園精舎と言われるようになったのである。
やがて、須達多から、完成した祗園精舎の寄進の申し出を受けた釈尊は、威儀を正して言った。
「この精舎は、私のためだけではなく、広く僧団に供養し、修行僧が皆で使えるものにしてほしい」
かくして、祇園精舎は、修行者全員のためのものとなった。
この考え方が、その後の寺院に受け継がれ、現代における学会の会館へとつながっていくのである。
祗園精舎の寄進は、須達多のさらに大きな功徳、福運となっていったことは間違いない。
喜捨の心は、境涯を高め、無量の功徳をもたらし、それがまた、信心の確信を深める。そこに、幸福の軌道を確立する、仏法の方程式がある。
山本伸一は、手元にあった御書を開いた。供養の本義を、もう一度、御書に照らして、熟慮したかったからである。
彼は、まず「白米一俵御書」を拝した。身延にいらした日蓮大聖人に、一人の信徒が白米などを供養したことへの御手紙である。
大聖人は、その真心を称えられ、「凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」(一五九六ページ)と仰せになっている。
つまり、信心の志、仏法への至誠の一念が、成仏の要諦であることを示されているのである。
この「白米一俵御書」では、命をつなぐ食べ物を供養したことは、過去に、雪山童子や薬王菩薩、聖徳太子などの賢人、聖人が、仏法のために命を捧げた功徳にも劣らぬものであると称賛されている。
山本伸一は、さらに御書の別のページを開いた。
弘安三年の十二月二十七日、南条時光に与えられた「上野殿御返事」(一五七四ページ)であった。
当時、時光は、熱原の法難によって、夫役の人手などを過重に負担させられ、経済的に苦境に立たされていた。自分が乗る馬も、妻子が着るべき着物もないなかで、身延で冬を過ごされる大聖人の身の上を案じて、鵞目(銭)一貫文を供養したことに対する御手紙である。
諸御抄に記された時光の供養の品々を見ると、多くは食べ物である。
しかし、この時、銭を送っているのは、大聖人に供養する物が、もはや、何もなくなってしまったからではないだろうか。
おそらく、いざという時のために取っておいた銭を、供養したのであろう。
大聖人は、その真心を尊び、絶賛されたのである。
時光の身なりは貧しくとも、その心は気高く、金色の光を放っている。
供養の根本は、どこまでも信心の志にある。
「松野殿御消息」には、釈尊に土の餅を供養した徳勝童子が、その功徳によって阿育(アショーカ)大王として生まれ、やがて、成仏していったことも述べられている。(御書一三八〇ページ)。
まだ小さな徳勝童子にとって、土の餅は、自分にできる、最高の供養であった。
精いっぱいの真心を尽くしての供養であったがゆえに、たとえ、土の餅であっても、大王となって生まれたのである。
山本伸一は、続いて「衆生身心御書」を拝した。
その後段で、彼の視線は止まった。
そして、何度もそこを読み返した。彼は、深い意味を感じた。
「……設いこうをいたせども・まことならぬ事を供養すれば大悪とは・なれども善とならず、設い心をろかに・すこしきの物なれども・まことの人に供養すれば・こう大なり、何に況や心ざしありて・まことの法を供養せん人人をや」(一五九五ページ)
〈たとえ、功徳善根を積んでも、真実でない人を供養すれば、大悪とはなっても善とはならない。たとえ、信心が薄く、少しの物の供養であっても、真実の人に供養すれば、功徳は大きい。まして厚い志をもって、真実の法を供養する人びとの功徳は、どれほど大きいか計り知れない〉
一言に供養といっても、何に対して供養するかによって、善にもなれば、悪にもなってしまうとの御指南である。
伸一は、「衆生身心御書」のこの御文に基づいて、学会の供養、財務について考えていった。
学会が推進する供養、財務は、すべて日蓮大聖人の御遺命である広宣流布のためのものである。
大聖人の立てられた大願を成就するために行う供養は、御本仏への供養に通じよう。
ならば、これに勝る供養もなければ、大善もない。
ゆえに、これに勝る大功徳もないはずである。
そう思うと、伸一自身、一人の学会員として、その機会に巡り合えたことに、無量の福運と喜びを感じるのであった。
この御書では、最後に、身延の山中に供養の品々を送った一人の門下の志を称えられて、次のように述べられている。
「福田によきたねを下させ給うか、なみだもとどまらず」(一五九六ページ)
〈福田に、すばらしい善根の種を蒔かれたのか。厚い志に涙もとまらない〉
広宣流布に尽くすことは、福田に善根の種を蒔くことである――
それは、伸一が青春時代から、強く確信してきたことでもあった。
彼は、戸田城聖の事業が窮地に追い込まれ、給料の遅配が続くなかで、懸命に広布の指揮を執る戸田を守り、仕えてきた日々を思い起こした。
伸一は、広宣流布に一人立った獅子を支えることは、学会を守り、広布を実現する道であると自覚していた。
彼は、自分の生活費は極限まで切り詰め、給料は、少しでも、広布のため、学会のために使うことを信条としてきた。
それは伸一の喜びであり、密かな誇りでもあった。そのために、オーバーのない冬を過ごしたこともあった。
ようやく出た給料の一部を、戸田の広布の活動のために役立ててもらったこともあった。
そして、その功徳と福運によって、病苦も乗り越え、今、こうして、会長として悠々と指揮を執れる境涯になれたことを、伸一は強く実感していた。
彼は人に命じられて、そう行動してきたわけではない。
それは、自らの意志によって、喜び勇んでなした行為であった。
また、広宣流布のために生涯を捧げようと決めた伸一の、信心の至誠にほかならなかった。
彼は、長い思索の末に、御聖訓に照らし、また、自らの体験のうえからも、大客殿の建立に際しては、生命の福田に善根を蒔く供養の門戸を、全同志に開こうと、決断したのである。
今、大客殿の建立の時を迎え、同志は供養に参加することを待ち望んでいた。
伸一も、全国の行く先々で、そうした会員の声を耳にしてきた。
同志は、広宣流布のために、生活費を切り詰めてまで、供養しようとしてくれている。
それは、かつて、学会の財源を自ら支えた戸田城聖と、同じ決意、同じ自覚を持つ、あまたの同志が誕生したことを意味しているといってよい。
伸一は、そこに、尊い菩薩の姿を見る思いがした。
彼は誓った。
"その同志たちこそ、現代の須達長者であり、徳勝童子であり、南条時光といえよう。
たとえ、今は貧しくとも、未来は必ずや大長者となることは間違いない。
また、断じてそうさせていくのだ。
私は、仏を敬うように、この人びとに接し、その真心を称え、励ましていかねばならない″
広宣流布の新たな夜明けを象徴する大客殿を、真に荘厳するものは、法友の至誠と歓喜という、信仰から発する"美しき魂の光彩″であると、伸一は思った。
それには、何よりも、供養の意義と精神を誤りなく伝え、一人一人が広宣流布の使命を、深く自覚していくことである。
財務を少しでも減らそうとする、魔の蠢動
先生が何故新・人間革命を通して教えてくださったか
有難いことに先生は今、ご健在であられる
週刊誌を教材にしとる裏オニチル連中
正義の言論を持つ真のKS
何が真実なのか、信心で見抜いていくことが大事じゃ
いつも試されておる
関西に似非関西人はいらんぞ
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