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この似非関西人はアルプス少女になったり
財務を少しでも減らそうと企んだり
とんでもないやつじゃのう
財務とは結局は信心の結晶なんじゃな
「供養の功徳は、計り知れないものがある。」
まあ、似非にはわかるまい
新・人間革命 第四巻 凱旋の章より
五月三日を目前にしたある日、山本伸一は、一人、学会本部にあって、深い思索を重ねていた。
彼の頭には、総本山の大客殿の建立をはじめ、各地の寺院や会館の建設計画など、今後の広宣流布のための展望が広がっていた。
どれ一つとっても、広布の伸展を考えれば、必要不可欠なものばかりである。
しかし、それを実現していくには、財源をどうするかが、最大の課題となる。
大客殿を建立するためには、大講堂と同じように、全会員に呼びかけ、供養を募ることになろうが、それで本当によいのかという迷いが、彼にはあった。
また、そのほかの寺院や会館の建設のためには、さらに財務部員の枠を広げ、協力を要請しなければならない段階にきていたが、それにも、伸一は、ためらいを覚えていた。
同志は、功徳を受けたとはいえ、生活苦や病苦に悩み、信心を始めた民衆である。
経済的に豊かといえる人は決して多くはない。
それだけに、会員には、なるべく負担をかけたくないというのが、彼の気持ちであった。
もともと学会の財源は、牧口初代会長の時代は、理事長の戸田城聖がいっさいの責任を担ってきた。
戦後、学会の再建が始まってからも、戸田は私財を投じて経費にあて、会員には、金銭的な負担はかけさせなかった。
しかし、戸田が会長に就任して間もなく、何人かの会員から、自分たちにも、学会の経費の一端を担わせてほしいとの、強い要請があった。
確かに、未来の広宣流布の広がりを思うと、いつまでも、彼一人で賄いきれるものではなかった。
また、学会の活動の経費を担うことは、広宣流布への供養である。
戸田は同志の要請から、その門戸を、いよいよ開くべき時が来たことを感じた。
だが、戸田は、極めて慎重であった。
広宣流布の財源は、どこまでも真心の浄財でなければならないとの考えから、彼はメンバーを厳選した。
信心が強盛で、経済力もある七十八人を選び、財務部員として、学会の財源を担う使命を託したのである。
そして、一九五一年(昭和二十六年)七月三日に、財務部の結成式を行っている。
以来、財務部は次第に陣容を増し、学会の経済的な基盤を支える大きな力となった。
財務部員には、選ばれて広布のために浄財を拠出できる、誇りと喜びと感謝があった。
戸田は、財務部員に脈打つ、その精神が何よりも嬉しかった。
学会の財務は、世間一般の寄付とは違う。
どこまでも、信心から発するものでなければならないからである。
そして、この燃え上がる信仰がある限り、無量の功徳が現れないはずはない。
日蓮大聖人が、御称賛されないはずはない。
彼は、できることなら、より多くの同志に、供養の機会を与えたいと思った。
だが、なかには、経済苦と闘っている同志もいる。
その人たちのことを考えると、供養を呼びかけることに胸が痛んだ。
しかし、だからといって、全く供養の機会が与えられないとするなら、それは、信仰の眼から見れば、かえって、無慈悲になってしまう。
彼は、やむなく意を決して、総本山の五重塔の修復や奉安殿の建立などに際しては、一応、皆に供養を呼びかけることにした。
特に、戸田の願業の一つであった大講堂の建立の時には、支障のない限り、全会員が供養に参加できることにした。
山本伸一は、戸田城聖が、かつて、こう語っていたことが思い出された。
「水戸光圀は、『大日本史』を編纂したが、そのために、藩の財政は苦しかったといわれる。
光圀ほどの人物ならば、大事業のためとはいえ、庶民の血税を注ぎ込まねばならないことに胸を痛め、心で泣いたであろう。
私も貧しい学会員に供養を勧めるが、これをしなければ、功徳を受けることもできないし、広宣流布もできなくなってしまうからである。
しかし、そのたびに、私は泣いている……」
伸一には、戸田のその心がよくわかった。
彼も同じ思いであったからである。
しかし、供養の功徳は、計り知れないものがある。
それを物語る一例として、祇園精舎を寄進した須達長者、すなわち、須達多(スダッタ)の話がある。
幾つかの仏典では、須達多は大長者となった後に、釈尊に帰依したとされているが、別の仏典には、次のような説話がある。
――昔、インドに、須達多と妻が住んでいた。
彼らの生活はいたって貧しかった。しかし、二人には深い信仰心があった。
ある時、須達多は、わずかな米を手に入れることができた。妻は、夫が家に帰ってきたら、ともに食べようと、その米を炊いた。
すると、そこに仏弟子の一人である阿那律(アヌルッダ)が、托鉢にやって来た。妻は阿那律を見ると、礼拝し、彼の鉢に、炊き上がった飯を盛って渡した。
さらに、須達多の家に、釈尊の高弟である須菩提(スブーティ)、摩訶迦葉(マハーカッサパ)、目連(モッガラーナ)、舎利弗(サーリプッタ)などが、次々と托鉢にやって来た。
妻は、そのたびに飯を盛って渡していった。
最後にやって来たのは、釈尊自身であった。釈尊が食を求めると、妻は喜んで、残っていた飯をすべて供養した。喜捨である。仏を求め、敬う彼女の信心の発露であった。
もし、須達多が家にいれば、当然、彼女は夫に相談していたし、夫も喜んで供養していたにちがいない。
しかし、夫が不在であっただけに、彼女には一抹の不安があった。
しばらくして、須達多が家に帰って来た。彼は、たいそう腹を空かしていた。
「腹が減った。さあ、食事にしてくれないか」
妻は、じっと夫の顔を見つめて、尋ねた。
「もしも、釈尊の弟子である阿那律様が托鉢に来られたとしたら、あなたなら、供養をなさいますか」
「もちろん、食べ物があれば供養する。たとえ、自分は食べなくとも……」
須達多(スダッタ)の妻は、重ねて夫に尋ねた。
「それでは、須菩提様や、摩訶迦葉様や、それに釈尊ご自身が来られて、食をお求めになられたら、どうなさいますか」
須達多は答えた。
「言うまでもないことだ。当然、食べ物があれば、供養させていただくに決まっているではないか」
妻は笑みを浮かべた。
「実は、今日、釈尊のお弟子の方々、そして、釈尊が次々とお出でになったのです。私は嬉しくなって、あなたが苦労して手に入れた食べ物を、すべて供養してしまいました。
でも、あなたが、なんと言われるか心配でした。しかし、今、自分は食べなくても、供養すると聞いたので、安心いたしました」
須達多も、微笑を浮かべて言った。
「そうか。本当によいことをしてくれた。これで、私たちの罪業も消すことができ、きっと幸福になるに違いない」
この供養の功徳によって、須達多は、大長者となったという。
妻の一途な決心と、それを喜ぶ夫――純真な信仰から生まれた、この喜捨の心こそ、まことの供養であり、そこに偉大なる福徳の源泉がある。
さて、大長者となった須達多の、祇園精舎の寄進はあまりにも有名だが、仏典には、次のような話が残されている。
――須達多は、釈尊のために、立派な精舎の建立を決意する。
彼は場所の選定にあたって、都の舎衛城(サーヴァッティー)から遠すぎず、また、近すぎもせず、行き来に便利な、静かな場所にしようと決めた。
思案を重ね、彼が選んだのは、祇陀(ジェータ)太子の園林であった。
須達多は祇陀太子に会って、ぜひ、その土地を譲り受け、精舎を建てたいと申し出た。しかし、太子はその申し出を拒んだ。
「あの園林は、私が最も気に入っている場所だ。たとえ、あの土地に黄金を敷きつめても、譲ることはできない」
だが、須達多はあきらめなかった。二人は押し問答となり、話は裁判を担当する大臣のもとに持ち込まれた。そこで、両者の言い分を聞いて、結論が下されることになった。
大臣は、須達多が黄金を敷きつめた分だけ、太子は土地を譲ってやるべきだとの結論を出した。
須達多は、急いで家に帰ると、車に黄金を積んでやって来た。そして、厳かに園林に敷きつめていった。
だが、車一台の黄金で得られる土地は、ほんの少しでしかない。
彼は家にある黄金を、すべて運ぼうとしていた。
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