僕が大学を出て社会人になった頃(1982年)、よくマスコミで言われたのは「イギリスみたいになったら、おしまいだ」ということでした。

その頃の英国は、慢性的な経済の停滞に加えて、労働者が怠け者で、ちっとも働かないという評判でした。

そのような状況を、世界は「英国病」と呼び、せせら笑ったのです。
特に1978年から1979年にかけての冬は「Winter of Discontent」と呼ばれる、げんなりするような冬で、頻発するストライキで暖房の石炭にすら不自由する状況でした。罷業はゴミの回収にも及び、ロンドンの町のいたるところでゴミ袋がうず高く積み上がりました。

さらに墓掘り人夫も罷業に加わり、死体が六週間も埋葬されないまま悪臭を放つというような状態になりました。墓掘り人夫が墓地のゲートに施錠して葬儀の参列者が墓に行けなくなり、墓掘り人夫と葬式の参列者が小競り合いになる事態も発生しました。
それでも労働組合に守られたイギリスの労働者は昼間からティータイムをして、自分の権利を、これっぽっちも譲ろうとはしなかったのです。
英国の失業率は「Winter of Discontent」を契機に恐ろしいスピードで上昇します。

政府のリーダーシップの喪失、機能不全に愛想を尽かした国民は、マーガレット・サッチャーを支持します。
そのようなイギリスの体たらくを見て、アルゼンチンは同国の沖合にある英領、フォークランド・アイランドに軍隊を進めます。
実際、ポンドはどんどん安くなっており、イギリスはIMFからの支援を仰がねばならないような状況でした。

スエズ動乱の際、ナセルにスエズ運河を国有化された英国は兵隊を派遣し、戦争する寸前までいったのですが、そのときはイギリスに多額のお金を貸していたアメリカが「あなたは借金漬けなのに、戦争なんかしている場合じゃない」と強くイギリスを戒め、イギリスはしぶしぶ兵を引くという屈辱を既に経験しています。
だから今回も(たぶん英国は指をくわえて眺めているのが精いっぱいだろう)という読みがアルゼンチンの側にあったのでしょう。
イギリスは(アルゼンチンごときに舐められた!)と激昂します。そして今回は軍艦をフォークランド・アイランドに派遣します。これがフォークランド紛争です。
当時はIRAのテロも多く、ヒースロー空港の建物の外に出ると、戦車や装甲車が鎮座しているというようなことも珍しくありませんでした。
その頃の英国は、慢性的な経済の停滞に加えて、労働者が怠け者で、ちっとも働かないという評判でした。
そのような状況を、世界は「英国病」と呼び、せせら笑ったのです。
特に1978年から1979年にかけての冬は「Winter of Discontent」と呼ばれる、げんなりするような冬で、頻発するストライキで暖房の石炭にすら不自由する状況でした。罷業はゴミの回収にも及び、ロンドンの町のいたるところでゴミ袋がうず高く積み上がりました。
さらに墓掘り人夫も罷業に加わり、死体が六週間も埋葬されないまま悪臭を放つというような状態になりました。墓掘り人夫が墓地のゲートに施錠して葬儀の参列者が墓に行けなくなり、墓掘り人夫と葬式の参列者が小競り合いになる事態も発生しました。
それでも労働組合に守られたイギリスの労働者は昼間からティータイムをして、自分の権利を、これっぽっちも譲ろうとはしなかったのです。
英国の失業率は「Winter of Discontent」を契機に恐ろしいスピードで上昇します。
政府のリーダーシップの喪失、機能不全に愛想を尽かした国民は、マーガレット・サッチャーを支持します。
そのようなイギリスの体たらくを見て、アルゼンチンは同国の沖合にある英領、フォークランド・アイランドに軍隊を進めます。
実際、ポンドはどんどん安くなっており、イギリスはIMFからの支援を仰がねばならないような状況でした。
スエズ動乱の際、ナセルにスエズ運河を国有化された英国は兵隊を派遣し、戦争する寸前までいったのですが、そのときはイギリスに多額のお金を貸していたアメリカが「あなたは借金漬けなのに、戦争なんかしている場合じゃない」と強くイギリスを戒め、イギリスはしぶしぶ兵を引くという屈辱を既に経験しています。
だから今回も(たぶん英国は指をくわえて眺めているのが精いっぱいだろう)という読みがアルゼンチンの側にあったのでしょう。
イギリスは(アルゼンチンごときに舐められた!)と激昂します。そして今回は軍艦をフォークランド・アイランドに派遣します。これがフォークランド紛争です。
当時はIRAのテロも多く、ヒースロー空港の建物の外に出ると、戦車や装甲車が鎮座しているというようなことも珍しくありませんでした。
この当時のイギリス人は、ようやく「なんとなく惰性で続けて行けば、なんとかなるだろう」という甘い考えから脱却し始めました。
一例として音楽ひとつを例にとってもそれまではセックスピストルズの「アナーキー・イン・ザ・UK」に代表されるような、体制批判、破壊願望的なものだったのが、次第にジョイ・ディビジョンのような極めて内省的なものに変わります。
下はレコード・デビューする前のシャーデーのライブハウスでのパフォーマンスですが、「いつになったら、ひとりだちするの?」という唄を歌っています。「自分は貧乏で毎日ひもじいけど、他人のせいにはしない。自立するまで頑張る」という内容です。
当時彼女はフィンズベリー・パークの消防署跡を改造したあばら屋に住んでおり、冬でも暖房が無かったので服を着たまま就寝したそうです。お手洗いはビルの外の非常階段にしつらえてあり、冬は氷が張っていたそうです。また台所にバスタブを置いていたそうです。
この唄は、当時の若者の心象風景を良く代弁していると思います。
よく「英国が世界の金融センターになれたのは、大英帝国時代の対外資産が積み上がっていたからだ」という人が居ますが、その認識は間違っています。
イギリスは第二次大戦を「レンドリース法」というアメリカからの武器の寸借で乗り切ったため、そのときにこしらえた借金で、対外資産は全て霧散してしまったのです。(黄色が第二次大戦後無くなっている点に注目)

1970年代のロンドンの金融街シティは、東京などと比べても後進的で、活気に欠ける場所でした。シティが最も衰退していた1975年の証券取引所会員企業の総従業員数は僅か1万7千人です。そしてそこはコネや既得権益に守られた銀行家がクラブ的に運営する場所だったのです。
サッチャー政権は石炭、鉄鋼などの斜陽産業の整理を進め、サービス経済への移行を進めるため、そのような後進的なシティの改革に乗り出します。1970年代に発足したウイルソン委員会がシティ改革のための調査を行い、それをもとに1986年に「ビッグバン」という規制緩和が実施されます。固定手数料はこれを機に廃止されました。
そこではジョバーとブローカーという、既得権に基づいた機能分離を廃止しました。そこでM&Aの嵐が起こります。
バークレイズ銀行はブローカーのデズート・ベバン、ジョバーのウエッドを買収します。
ミッドランド銀行はマーチャント・バンクのサミュエル・モンタギュー、ブローカーのグリーンウェルを買収します。
ナショナル・ウエストミンスター銀行はマーチャント・バンクのカウンティを買収します。
マーチャント・バンクのヒル・サミュエルはブローカーのウッド・マッケンジーを買収します。
クラインウォート・ベンソンはブローカーのグリーブソン・グラントを買収します。
N.M.ロスチャイルドはジョバーのスミス・ブラザーズを買収します。
S.G.ウォーバーグはブローカーのロウ&ピットマン、ジョバーのアクロイド&スミザースを買収します。
そのような、どさくさ紛れの状況の中から、オックスフォードやケンブリッジを出た若者たちの立身出世の場としてふさわしい、アメリカの投資銀行に伍する近代的な金融機関が英国に登場したのです。
古色蒼然とした株式取引も、シアック・インターナショナルと呼ばれる電子システムに移行しました。
その後、ロンドンが「ウインブルドン現象」と呼ばれる、世界の金融機関に活躍のステージを与える場所として繁栄したのは、皆さんの知る処です。
ちなみに英国の2013年の金融サービス収支は710億ドルの黒字でした。これは世界最大で、第二位の米国を大きく引き離しています。

イギリスは、それまでの工業主体の国からサービス、それも金融サービス主体の国に変貌しました。

GDPに占める輸出の割合を見ても、イギリスの場合、サービスが多いのがわかります。

そのサービス輸出の中身の多くは、金融です。

ロンドンは人材の面で引き離しているのに加え、金融機関を招致する行政の一貫した支援姿勢、イノベーションに対する寛容、内外金融機関に対するフェアな扱いなどが成功の背景にあります。
金融センターとしてのロンドンの地位は、近年、香港、シンガポールから競争に晒されています。でもまだまだ人材の厚さではそれらを寄せ付けないと思います。
伝統的な運用資産では世界で第二位です。

非伝統的な運用資産(=ヘッジファンドなど)では世界シェアの18%を占めています。

店頭デリバティブのような、最先端のイノベーションに強いのがロンドンの特徴です。これは規制が緩いことと無関係ではありません。

またロンドンにはトレーディングのカルチャーがしっかり根付いています。下は為替取引です。

一例として音楽ひとつを例にとってもそれまではセックスピストルズの「アナーキー・イン・ザ・UK」に代表されるような、体制批判、破壊願望的なものだったのが、次第にジョイ・ディビジョンのような極めて内省的なものに変わります。
下はレコード・デビューする前のシャーデーのライブハウスでのパフォーマンスですが、「いつになったら、ひとりだちするの?」という唄を歌っています。「自分は貧乏で毎日ひもじいけど、他人のせいにはしない。自立するまで頑張る」という内容です。
当時彼女はフィンズベリー・パークの消防署跡を改造したあばら屋に住んでおり、冬でも暖房が無かったので服を着たまま就寝したそうです。お手洗いはビルの外の非常階段にしつらえてあり、冬は氷が張っていたそうです。また台所にバスタブを置いていたそうです。
この唄は、当時の若者の心象風景を良く代弁していると思います。
よく「英国が世界の金融センターになれたのは、大英帝国時代の対外資産が積み上がっていたからだ」という人が居ますが、その認識は間違っています。
イギリスは第二次大戦を「レンドリース法」というアメリカからの武器の寸借で乗り切ったため、そのときにこしらえた借金で、対外資産は全て霧散してしまったのです。(黄色が第二次大戦後無くなっている点に注目)
1970年代のロンドンの金融街シティは、東京などと比べても後進的で、活気に欠ける場所でした。シティが最も衰退していた1975年の証券取引所会員企業の総従業員数は僅か1万7千人です。そしてそこはコネや既得権益に守られた銀行家がクラブ的に運営する場所だったのです。
サッチャー政権は石炭、鉄鋼などの斜陽産業の整理を進め、サービス経済への移行を進めるため、そのような後進的なシティの改革に乗り出します。1970年代に発足したウイルソン委員会がシティ改革のための調査を行い、それをもとに1986年に「ビッグバン」という規制緩和が実施されます。固定手数料はこれを機に廃止されました。
そこではジョバーとブローカーという、既得権に基づいた機能分離を廃止しました。そこでM&Aの嵐が起こります。
バークレイズ銀行はブローカーのデズート・ベバン、ジョバーのウエッドを買収します。
ミッドランド銀行はマーチャント・バンクのサミュエル・モンタギュー、ブローカーのグリーンウェルを買収します。
ナショナル・ウエストミンスター銀行はマーチャント・バンクのカウンティを買収します。
マーチャント・バンクのヒル・サミュエルはブローカーのウッド・マッケンジーを買収します。
クラインウォート・ベンソンはブローカーのグリーブソン・グラントを買収します。
N.M.ロスチャイルドはジョバーのスミス・ブラザーズを買収します。
S.G.ウォーバーグはブローカーのロウ&ピットマン、ジョバーのアクロイド&スミザースを買収します。
そのような、どさくさ紛れの状況の中から、オックスフォードやケンブリッジを出た若者たちの立身出世の場としてふさわしい、アメリカの投資銀行に伍する近代的な金融機関が英国に登場したのです。
古色蒼然とした株式取引も、シアック・インターナショナルと呼ばれる電子システムに移行しました。
その後、ロンドンが「ウインブルドン現象」と呼ばれる、世界の金融機関に活躍のステージを与える場所として繁栄したのは、皆さんの知る処です。
ちなみに英国の2013年の金融サービス収支は710億ドルの黒字でした。これは世界最大で、第二位の米国を大きく引き離しています。
イギリスは、それまでの工業主体の国からサービス、それも金融サービス主体の国に変貌しました。
GDPに占める輸出の割合を見ても、イギリスの場合、サービスが多いのがわかります。
そのサービス輸出の中身の多くは、金融です。
ロンドンは人材の面で引き離しているのに加え、金融機関を招致する行政の一貫した支援姿勢、イノベーションに対する寛容、内外金融機関に対するフェアな扱いなどが成功の背景にあります。
金融センターとしてのロンドンの地位は、近年、香港、シンガポールから競争に晒されています。でもまだまだ人材の厚さではそれらを寄せ付けないと思います。
伝統的な運用資産では世界で第二位です。
非伝統的な運用資産(=ヘッジファンドなど)では世界シェアの18%を占めています。
店頭デリバティブのような、最先端のイノベーションに強いのがロンドンの特徴です。これは規制が緩いことと無関係ではありません。
またロンドンにはトレーディングのカルチャーがしっかり根付いています。下は為替取引です。