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学校でも教えない、しかしこのまま知らないまま語られることもなく消してはいけない日本人として大切なものがあります。
ヤマトタケルノミコトは『古事記』では「倭建命」、『日本書紀』では「日本武尊」と書かれています。
第12代景行(けいこう)天皇の時に日本武尊は天皇の詔(みことのり)により、服さぬ者を従えるために東方に遠征しました。
焼津では敵軍から火を放たれ、燃える火に追われながらも日本武尊は妻である弟橘姫(おとたちばなひめ)の身を案じながら、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)を振って危機を脱しました。
日本武尊はさらに軍を進め、走水(はしりみず 横須賀)に着くと対岸に渡る船を出しました。すると急に海が荒れて転覆しそうになります。
弟橘媛は「これは海神の怒りに違いない。私が海に入り海神の怒りを鎮めますから、尊は無事に使命を果たしてください」と言って、自らの身を海に投じました(上の画像)。この時、弟橘媛は美しい辞世をうたいました。
さねさし相模の小野に燃ゆる火の
火中に立ちて問ひし君はも
これは焼津で敵から火を放たれた時を思い出し、「あの時、燃えさかる火の中で、私の安否を気遣ってくださった君よ」という日本武尊の優しい気遣いに対する感謝の気持ちを歌ったものでした。
弟橘媛は自らの身を捧げたことで海はなぎ、日本武尊の軍は君津(きみつ千葉県)に着くことが出来ました。
そこから木更津に進むと日本武尊は「もしや媛(ひめ)が帰ってくるかもしれない」と思い、ここで7日間待っていました。木更津の地名はこの時の「きみさらず(君去らず)」からきているのです。
日本武尊はついにあきらめて、地方平定の任務を果たして帰途に着きました。
足柄(あしがら 神奈川県)に寄られた時に、日本武尊は坂道を登り、弟橘媛の亡くなった東に向かってため息をつかれ
あづまはや
と三度嘆かれました。
日本武尊はそこから東の国を「あづま」と名付けられて、以来、「東」を「あづま」と呼ぶようになりました。現在、足柄峠には「あづまはや」の標柱が立っています。
今、学校で教えない弟橘媛は戦前の教科書には掲載されて教えられ、また軍艦や商船には「海の守り神」として神棚に祀られていました。
明治43年の日露戦争の日本海海戦で有名な東郷平八郎元帥は走水神社の裏山に弟橘媛の辞世碑を建てました(下画像)。
平成9年9月21日、ニューデリーで開催された「国際児童図書評議会世界大会」で皇后陛下がご講演なされた時、弟橘媛の感動するお話をされました。
国を守るために、それを果たす時が来たならば、自らの身を顧みることなく、死を選択する潔さ。さくらの花が短いながらも美しく咲き、散るべき時に潔く散っていくように、そして、國體を護り、愛する国のため、愛する人のために命を捧げた英霊たちのように・・・。
英語で「弟橘媛」の感動するお話をされた皇后陛下(ニューデリー基調講演)
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「知っておくべき日本」書庫の記事一覧
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「靖国おばあさん」のお話。戦後、日本人が大切なものを見失っている時に靖国神社を陰で支えてくれた方がいたのです。
2014/10/13(月) 午後 10:32
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2014/9/17(水) 午後 11:11
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2014/9/14(日) 午後 11:12
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2014/9/13(土) 午後 11:12
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2014/9/10(水) 午後 11:21
こんばんわ
転載しました
ナイス
らんくり
[ 博多の鷹 ]
2014/10/18(土) 午後 11:23
まずはナイスとツイートとポチをさせて頂きました。
2014/10/18(土) 午後 11:25
感動しました☆
こういったお話は、受け継いで伝えて行く事が必要ですね。
という私も、知ったばかりで無知で勉強になりました。
いつもありがとうございます。
m(_ _)m
2014/10/18(土) 午後 11:28
転載しました。^0^
[ nar*sa*a_ik**u ]
2014/10/18(土) 午後 11:34
今晩は

転載拡散させて頂きました。
ランクリandナイス
2014/10/18(土) 午後 11:41
良い話ですね。
ナイス&ランクリ
[ 鳳山 ]
2014/10/18(土) 午後 11:47
転載させて頂きます。
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2014/10/19(日) 午前 0:20