捌
ざわり、ざわり。
騒がしい音が周囲に戻る。
そっと目を開けばそこは先程の歌詠みの儀の会場そのままだった。
ただ、目を閉じる時と少し違っていたのは、何故か腹を切り裂かれ、呆然としている早蕨。椛がこちらを睨みつけている、という点と。
霞月が私の前に立っている、という点。
いつの間に、ここへ来たのだろうか。ずっとその姿をくらませていたというのに。
それに、何故だろう。霞月から人の匂いがしないのは。何故、心の中同様瞳が赤く染まっているのだろう。
「お怪我はありませんか、鈴蘭」
霞月が、悠然と、微笑む。
その白く綺麗な手を真っ赤に染めて、彼は首を傾げた。しかし、あぁ、と何かに気がついたかのように言い直す。
「この問い方は些かずれていましたね。貴女は既にあの厭わしい者共に傷付けられているのだから」
忌々しそうに彼は呟くと、その笑みを消しすっと目を細める。そうすれば彼が纏っている何かが濃くなって、私は息苦しさに喘いだ。
「あれ、は、お前が……?」
早蕨を指して言えば、彼はえぇ、と至極当たり前の様に頷いた。たった一人であの高位の妖に致命傷を与えたというのか。
そんなのは、異常だ。
「何故、ここに、いるの……霞月」
私がそう問い掛ければ、霞月は一時不思議そうな顔をしてから、あぁ、と呟く。
「貴女が望んだからです……といってもあの場のことが唯の幻だとでも、思っているのでしたね、鈴蘭は」
「あの場、って……?」
「貴女の意識の水底ですよ」
霞月の指が頬に触れる。血の匂いが鼻についた。僅かに顔を顰めた私に霞月はおかしそうに笑う。
「貴女はYesと、頷かれたではないですか」
その言葉に私は動けなかった。目を見開いて彼を凝視する。
だって、あの場は私の中なのでしょう……? ならば実際の彼は知らない、筈なのに。どうして。
彼はヒトなのだ。だから、そんな誰かの心の内に入り込むなんていうことは出来ない筈なのだ。
それは、その手段を取るのは……妖、しかいないのだから。
「貴女は未だ気付いておられないのですね、私の、中身に」
「中身……何を言っているの……? その言い草では、まるでお前が人ではないみたい」
冗談みたくそう言えば、霞月はその髪を白く染め上げて。
「えぇ、そうですねぇ――」
うっそりと笑んだ。
霞月が、口を開く。それはとてもゆっくりでスローモーションの動画を見ている気分だった。
まるで、この光景を見ているのが他人みたいで。
――――私は妖ですから。
それでも、その言葉が耳にこびりついた。
漸くその言葉の意味を解することができた時。
「成程ね、ならその強さも理解できるけれど、今までずっと隠し続けていたなんて……信じられないわ」
それを言ったのは私ではなかった。あまりの事実に私は何も言うことが出来ないのだから。
視線を声の方に向ければ、椛がひどく嬉しそうに笑っていた。先程の声は彼女だったのだろう。
「綺麗で強い妖……それも早蕨よりもずっと格が上だなんて……益々欲しくなっちゃった」
舌なめずりをする、雌猫。まるでそんな表現がしっくり来るように、彼女は霞月を見つめていた。こんな状況であるのに溢れ出る色気に、当てられてしまいそうになる。
しかし。向けられている当の本人はすっぽりと表情を消すと、なんの興味もない目で彼女を一瞥した。表情がないからか、彼の恐ろしいほどの美貌が際立っている。
「そのような下級と比べるな、下郎」
高位の妖を、下級。そう彼は言い張った。
初めて見る霞月の様子に、私は体を震わせる。
彼の体からは濃密で刺すような気配が立ち込めていて、恐怖が沸き上がった。
「……なっ! このあたしを下郎?!」
しかし彼女はそれが感じられなかった様で、肩を怒らせ激昂した。それを青ざめた顔で早蕨が諌める。
「駄目だ……っ、落ち着け!」
「何よ! 早蕨のくせにあたしを止めるの?!」
「違う! 駄目なんだ、この方だけは……」
この方。その言葉が反芻される。
その間も彼らの押し問答が続いていた。
霞月はそれをみて嫌そうに顔を背ける。今までずっと彼女に接してきた態度とはあまりにも違っていた。
「私は、愚かな者が嫌いなのですよ」
「何よ! あたしが愚かだって言うの!」
「そうですが」
蝶よ花よと育てられてきたであろう椛。そんな彼女を詰る存在など今まで無に等しかったはずだ。それにもし居たとしても、それはすぐに、排除されたことだろう。
だから、彼女は直ぐに激昂する。
そうして、目の前のことにでさえ気が付かなくなる。
「何だったか……あぁ、“取り敢えず、腕一本いっとこーか”でしたっけ」
突然そんなことを言い出した霞月に、早蕨以外のその場の全員が意味が分からない、といった表情を浮かべる。
そんな私達を見てくつりと笑ったけれども、彼のその目は一切笑っていなかった。霞月はその腕を前に突き出し、そうして捻るような動作を、する。
「……っまずい! 椛様!」
切羽詰まったような早蕨の声が響いて。しかし次の瞬間彼の顔は強ばった。
「何、よ……え…………?」
早蕨を見て不思議そうにしていた彼女だが、ふと彼女も同じように顔を強ばらせた。まるで錆び付いた機械仕掛けの人形のように、その視線が方へと移る。
「おやおや」
愉し気に霞月が言う。
彼女の肩についていたものが、ぼとり、と地に落ちていた。
しん、と会場が静まり返る。
ぱくぱく、と椛の口が音もなく開閉して。そして。
「……あ、あぁ、あ……ぁああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
劈くような悲鳴が、響きわたった。ぼたり、ぼたりと血を落とす彼女を見ていられなくて目を逸らす。その先で父が真っ青な顔で立ち上がるのが見えた。
「あた、あたしのうでぇ……うでがぁ」
泣き叫ぶ、椛の声。
「ああぁ……椛……っ」
初めて聞く声だった。そちらを見れば、母という者が、彼女のほうへ向かい駆け寄って。
涙や鼻水でぐちゃぐちゃになった顔の椛を、かき抱いた。
「いたいよぉ……ママぁ……あたしのうで、うでが」
「あぁ、なんて可哀想な椛、椛。大丈夫よ。ママがすぐに治してあげるからね」
もっと凄惨な光景が広げられていても、顔色一つ変えなかった両親が、腕を失った娘を見てこれ程までに動揺している。
その事実がひどく胸に突き刺さった。
「囲め!」
そして叱咤するように響き渡ったのは父の声だった。
そうすれば、しんとしていた会場にいる分家の者たちが、周りを取り囲み始める。けれども彼らの妖たちは元の場所を動こうとしなかった。
皆一様に顔を青ざめさせて、俯いている。まるで何か恐ろしいものの視界に入らないよう、やり過ごすように。
しかし、妖がいないとはいっても、こんな、大人数に囲まれてしまっては、流石の霞月もただでは済まないだろう。そう思って彼を見るも、霞月は何のことはないと飄々とそこにたっていた。
「霞月、といったか」
怒りと蔑みが混じった重い声が響く。それはそうだ。よりにもよって忌子である私付きの者が、愛しい娘の腕を奪ったのだから。
「常ならばお前はすぐにでも滅している存在だ。しかしお前の力は我が一族にとって有益なもの。さすれば挽回の余地を与えてやろう」
「…………」
「我が娘に忠誠を誓い、生涯を僕として生きろ」
優位を信じてやまないその態度に、知らずに眉が寄る。
話の流れからして、我が娘というのは明らかに私ではないだろう。きっとそれは椛のこと。自分の腕を落とした妖が僕だなんて、受け入れられるものじゃないと思うけれど、でもそれがまかり通ってしまったなら、私はどうすればいいのだろうか。
霞月が私の付き人でなくなる……?
そんな私の不安をよそに霞月はくすりと笑った。
「僕? 誰が誰の僕ですって? 笑えない冗談はやめて頂けますか?」
「何を」
「高々人間ごときが私を僕などと……反吐が出る」
そうして、霞月はまたそのしなやかな腕を持ち上げた。
「一度痛い目を見なければ、その愚挙は直りそうにありませんね」
ゆらり。彼の瞳が狂気の色をたたえる。
ぐっと、横に薙ぎ払われた彼の腕。その直後突風が会場を襲った。
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