漆
しかし、いつまで経ってもくるべき痛みが感じられない。
それに、何故か周囲もしん、として儀の途中とは考えられないほど凪いでいる。
不思議に思って目を開けると、そこは先ほどまでの場所と全然違う風景だった。
「――何、ここ」
ぴとん、と雫の落ちる音がした。
一面、どこを見ても白い世界。地面はなくて代わりに水がある。どこまでも透きとおったそれに、私は目を見張った。
「気に入りましたか」
すう、と空気に溶けるような声が聞こえた。声の方を向けば、悠然と微笑む霞月が立っていた。
何故か、霞月の筈なのに纏う雰囲気が全く違う。いつもの不可思議な掴みどころのない彼ではなく、今は唯唯その存在感が強調されていた。
「ここは、どこ……?」
今まで何処にいたのか、だとか。今は決闘の儀の最中ではなかったか、だとか。どうしていつもと違うのか、だとか。
聞きたいことは沢山あったけれど、まず初めに口に出たのはそれだった。
「貴女の意識の水底です」
ふわりと私のそばに寄ると、霞月は私の前髪を耳にかける。
「…………ここが私の中だというのなら、どうしてお前がいるの?」
その言い草ではまるで私が霞月のことを、深層心理で必要としているようではないか。
至極当たり前のことを問い掛けると、霞月は僅かに首を傾げた。
「貴女が私を望んだからですよ」
くるり、彼の手によって私の髪が弄ばれる。そうしてくしゃり、と後頭部にその手が添えられた。
自然と霞月を見上げる形になり、距離が近くなる。
「貴女が、私を望んだのです」
至近距離でもう一度聞かされた言葉に、我慢ならなくて私は彼の手を乱暴に振り払った。
そのままその細い身体を突き飛ばせば、彼はくつくつと声をあげて嗤う。
「どうして、笑う」
反対に、現在進行で機嫌の右肩下がりを辿っている私は、声を落とした。けれども彼はそんなちっぽけなことなど気にもせず、くつくつと笑い続けている。
「あぁ、これ程おかしいことはないからだよ」
彼はそう言うと目を細めた。いかにも愉しくて仕方がない、とでもいうように。
いつもと違う彼の言葉遣いに、私は眉を顰める。初めて聞いた彼の砕けた口調は、違和感しか感じられなかった。
「鈴蘭」
振り払った筈なのに、また彼は私の至近距離にいた。鼻の先と先が触れ合ってしまいそうだ。
霞月の言うところによればここは私の心の中。ならばその主導権は私にある筈なのだ。それなのに、今この場でそれを握っているのは私ではなく、目の前のこの男であるとしか思えなかった。
「――――妖の世では、魅入られた者が敗北者なのですよ、鈴蘭」
意味深な言葉が私の胸に突き刺さる。
「私を招き入れてしまった時点で、もう貴女には権利などありはしないのです」
「けん、り……」
「ずっと守り続けていたのに、最後の最後で貴女は力尽きた。あぁ、これほどおかしいことはないでしょう?」
そういった霞月にどうしてかなんて分からないけれど唇がわなわなと震えるのがわかった。
招き入れた、なんて。どういうこと。
私はずっと彼に心を許していたつもりであるし、今更こんな風に出てくる意味が分からない。
ずっと、守り続けていた……?
自分を……? 一体何から……?
彼から、目が離せない。目を逸らせばきっと私は何か重要なものを見逃してしまう気がした。
「貴女は愚かな者に成り下がってしまったのだ」
憐れむように告げられたそれに私はゆるく首を振った。嫌だ、嫌、いやいやいや。
数日前の会話が、脳内でリピートされて私は不安と憶測に戦慄いた。
「……いやよ、そんなのいや。霞月っお願い嫌わないで……っ」
彼の首に腕を回して縋り付けば、霞月はひどく柔らかい笑みを浮かべた。
「嫌う? えぇ、愚かな者は虫酸が走るほど嫌いです。けれど、貴女は別ですよ」
「かげ、つ……っ」
「貴女なら、愚かしい所でさえも愛おしく思います。嫌うなど――有り得ない」
彼の瞳に暗い色が宿る。それを見てぞわりとした悪寒が背筋を這った。
次の瞬間、ぐいと力を掛けられて地へと二人して倒れ込む。多い被さるようにしている霞月を見て押し倒されたのだと、気がついた。
「鈴蘭」
つぅ、と肌蹴た胸元を霞月の指先がかすめる。
「愛してあげましょう。ずっと、ずっと――――」
言葉が紡ぎだされる度に、ほの暗い、感情が顔をのぞかせる。
「……だから、ねぇ、鈴蘭。私を求めなさい」
――私に縋り付いて求めればいいのですよ。
誘うように笑った彼のその榛色の筈の瞳は、紅く紅く輝いていた。
「貴女はただ頷くだけでいい、Yesと、鈴蘭」
ひどく魅惑的な誘いに抗う術など私にはなくて。
私は小さく、けれども確かに頷いた。
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