弐
短いです。
物音が、した。
真夜中にふと意識が上昇して、目が冴える。もう一度目を閉じても眠れる気配がないので、私はのそりと布団から這い出た。
ひたひたとひんやりした木造の廊下を歩く。
そうしていつもの縁側まで来ると遠くまで目を凝らし、見知った姿を見つけた。
月の光に照らされた彼は無表情ながらもおぞましい程に綺麗で。
――霞月。
声には出なかった筈だ。けれども吐息に気付いたのか気配に気付いたのか、私の姿を認識した霞月がこちらへ歩みくる。そしてふわりと池を飛び越えると、私の前に降り立った。まるで重力を感じさせずに。
霊力が十分にあればこんな事も出来るのだろうか。
「どうしたのです?」
「……ちょっと、目が覚めたの」
「はぁ……体を冷やしますよ、こんな薄着で」
そう言って霞月は羽織っていた着物を私の肩にかける。今まで霞月の肩にあったはずのそれはひどく冷たい。
「霞月こそどうしたの」
掛けてもらった着物の襟を合わせて縮こまる。
問いかけたけれども、霞月はふわりと笑んだだけで何も言わなかった。
(血のにおいがする)
これでも私は鼻が利く方なのだ、あと目もそれなりにいい。霞月が何かを誤魔化しているのは明らかだった。
それに、向こうの方に見えるアレは一体何だろうか。妖、それとも……人だろうか。
まぁどちらにせよ、私はどうでもいいのだけれど。
いいのだけれど、この男が私に隠し事をした、という事実に腹が立って。
「……前言に補足させてもらうわ」
――お前のせいで、目が覚めてしまったの。
そう言うと、霞月は一瞬面を食らったような表情を浮かべた後、また笑みを浮かべた。
「それはそれは、申し訳ありません、我が愛しきお嬢様」
霞月は恭しく私の手を取ってそのまま指先に口づける。やっぱり霞月の唇はひんやりとしていた。
「……ねぇ、聞いていい」
霞月の着物を引っ張りながら言うと、彼はふと表情を消して私を見つめた。その目の奥にちらりと何か怖いものが見えた気がして、私は目を逸らす。
「…………」
はぁ、とため息と共に返される無言。その行動にやっぱり腹が立って。
「……ねぇ、霞月? ナニを殺していたの?」
思わず口からそんな言葉が漏れ出ていた。
そういえば初めて、こんなことを口にした気がする。いや、気がする、ではなくそうなのだ。
私はずっと霞月の行動を咎めたことがなかった。
多分、そうすればあの冷たい目が自分に向けられる気がして、恐くて聞けないのだ。けれども今、私は彼を、咎めている。
「――…………お聞きになってどうされるのです」
返ってきたのは冷たい目でも、微笑みでもない、静かな声だった。彼の顔は髪の影に覆われて覗くことができない。
「……どうも、しないけれど」
「ならば、余計なことを詮索なさらないよう」
「…………っ」
取り付く島もない彼の言葉にぎゅっと唇を嚙む。元々言いたいことは言う彼ではあったけれど、ここまで顕著に不機嫌、を表している言葉を聞いたのは初めてだった。
呆れられただろうか、嫌われてしまっただろうか。忌子のくせに彼の主ぶったから。
心の中を覆う不安をどうすることもできずに持て余していると、霞月はにっこりと笑った。
「頭の良いお嬢様は愛していますが、私は愚かなものは嫌いなのです」
――ですから、くれぐれも、愚かな鈴蘭様にはならないでくださいね?
そう言って私を抱き締めた霞月に、私は震えが止まらなかった。
愚か。そう、愚か。
何を持って愚かとするのか。
私は本家筋の者にはしょっちゅう恥曝しだとか、愚かだと言われている。
それなのに何を持って愚かになるというのか。
私は元々愚かで救いようのない者であるというのに。
それとも、既に彼は私を見限っているのだろうか。
「難しいことではありません」
一層強く抱きしめられて胸が苦しくなる。
「ただ貴女は今まで通り、過ごせばいいのです」
耳元で囁かれた言葉に何故か涙がこぼれた。
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