閑話 迫る救聖、這い寄る鬼災
【聖王は思案し苦悩する/救聖の足音はすぐ側で/這い寄る鬼災からは逃げられない】
[時間軸:二百四十七日目くらいの話]
建造物の殆どが白い聖石によって構成されている事により、美しき純白の都として広く知られる≪聖都・メルガモット≫の隣には、【神仰泰山】と呼ばれる聖域が存在する。
人間至高主義を掲げる≪ルーメン聖王国≫が長い年月と膨大な資金と多くの人材を費やし、泰山一つを様々な神殿施設で埋め尽くして出来上がったここには、細部に至るまで聖王国の厚い信仰と長い歴史が詰まっていると言えるだろう。
だからこそ、太陽が沈もうとする黄昏時、世界が赤く染まる頃。
頂上中心に存在する最も古く最も厳かな【五大神殿】の地下に存在する、極限られた者しか存在すら知らない【神秘奥間】という一室にて、聖王国の最高意思決定会議――【四枢会議】が数年ぶりに開かれていた。
この会議に出席できるのは聖王国を治めし当代の聖王か、聖王国でも四名しかいない【枢機卿】保持者だけである。
まさに聖王国の首脳陣のみという事になるのだが、ここでの議題は全て聖王国の繁栄、あるいは滅亡を決める非常に重要な案件のみであり、ここで決まった事は例え聖王であっても覆らない為、激しく意見がぶつかり合うのはよくある事だ。
物や魔法が飛び交う事こそないが、言葉の刃は激しく飛び交う、一種の戦場である。
正円を描く【神秘奥間】の壁面には、天井まで届く巨大な書架が設置されている。
そこには膨大な数の歴史書や神書が収納されている為、まるで厳かで由緒正しき図書館のようなのだが、しかしそんな【神秘奥間】には似つかわしくない怒声が響いていた。
「事は一刻を争うッ! 早く手を打たねば取り返しがつかぬ事になるのは間違いないッ! 現に様々な歴史書や神書は語っているのだぞッ!!」
濃密な瘴気でも穢す事のできない白聖布に、迷宮でしか採れない聖金糸と祝銀糸による神秘的な装飾が施された聖法衣を羽織る四人の【枢機卿】の一人であり、【書冊英雄】でもあるイムルスカ猊下は口から唾を飛ばしながら言葉を吐き出し、感情に任せて聖木製の円卓を叩いた。
【英雄】の一角とはいえ肉体を使った戦闘能力は低く、今年で齢八十を迎えた老人であるイムルスカ猊下の貧弱な肉体では、聖木製の円卓を叩いても歪ませる事すらできない。
ただ自身の手を痛めただけだった。
細かいシワがより、日の当たらない場所で長年職務をこなしていたからか白くなっていた手が赤く染まっている。
それは円卓を叩いた拳が受けた痛みを表しているようだった。
だが、興奮している今は痛みなど感じないらしく、ブルブルと拳と身体を怒りで震わせていた。
それに血が頭に上ってツルリとした禿頭まで赤くなっている為、イムルスカ猊下はまるでタコのようにも見えただろう。
しかしそんな事で笑う者はこの場には一人も居らず、皆イムルスカ猊下の言葉に耳を傾けていた。
「それは分かっておる、分かっておるが、案件が簡単に決められる事ではないのは承知していよう?
一先ずは落ち着け。普段の君らしくない」
猛るイムルスカ猊下を諌めるようにそう言ったのは、同じ【枢機卿】の一人であり、【数式の勇者】として数々の死闘を乗り越えてきたムテージ猊下である。
ふさふさの白髪と小さな顎鬚がよく似合う神経質そうな容貌の、今年で齢八十三になる老人だ。
歳の近いイムルスカ猊下とは昔からの付き合いがあり、仲は非常に良好で、親友と呼べる間柄だった。
しかし、だからこそこの場ではイムルスカ猊下を諌めようとしたのだ。
冷静そのものであるムテージ猊下に諫められて、イムルスカ猊下の勢いはやや衰えたが、それも一時の事。
「分かっておる、分かっておるとも! しかし、しかしだ。私は知っている、皆以上に知ってしまっている。
だから私は言わねばならぬ、少しでも早く行動する為にッ!」
イムルスカ猊下は再度声を荒げ、場にいる面々を見回しながら力説した。
「此度生まれた【世界の宿敵・飽く無き暴食】という存在は、一刻も早く討伐せねばならぬッ!
このまま放置でもすれば、最悪の場合、この大陸全土が飲み込まれてしまう事も十分考えられるッ」
此度の議題に上がったのは、数日前に【英勇】達が例外なく脳内に響くアナウンスによって知る事になった、【飽く無き暴食】という存在についてだった。
全員の脳内に同じ内容のアナウンスが響くなど現代の【英勇】達にとって初めての事であり、突然の事態に多少の混乱が生じた。
だがそれも聖王が出した帰還命令によって、一定の落ち着きを取り戻している。
今は聖王国に所属する二十四名の【英勇】が、その仲間達と共に続々と聖都に集結している最中だ。
だがしかし、民の羨望と尊敬を一身に受ける【英勇】達の表情は優れない。
あのアナウンスを聞いた時に、まるで背後から絶対的な捕食者が涎を垂らしながら近づいて来るような、あるいは底の見えない深海から冒涜的な何かが浮上してくるような、とにかく不安や恐怖など負の感情が際限なく湧き出していた
様々な存在と死闘を繰り広げ、生き残ってきた者達だからこそ、近いうちに何かが起こると理性ではなく本能で理解していたのである。
大まかではあるがその感覚の発生源がいるであろう方角が分かるのも、それを確信させる要因の一つであるのは間違いない。
「すまないが、イムルスカ老。
私個人の考えだが、【飽く無き暴食】という存在は確かに危険極まる相手だとは思っている。
あの時は私もゾッとした。まるで竜の巣に乗り込んだ時のような、いや、あれ以上の危険を感じたよ」
更に言葉を紡ごうとしたイムルスカ猊下を止めたのはムテージ猊下ではなく、三人目の【枢機卿】であるラン・ベル猊下だった。
高齢であるイムルスカ猊下やムテージ猊下と違って非常に若く、二十代後半から三十代前半くらいだろう。
まるでライオンの鬣のような銀髪と、聖法衣からチラチラと覗く蠱惑的な褐色の肌、下から押し上げる豊満な胸と臀部以外は無駄なく引き締まった美しく力強い肢体、そして肉食獣のような笑みを浮かべる冷たい美貌が特徴的な美女である。
「しかしだ、本当にイムルスカ老が提言する方法しかないのかな?
流石にイムルスカ老の案では、聖王国の防衛が危ういように感じられるのだがね。
厄介な魔帝国や獣王国がこの機会に攻めてこない、とも限らないだろう?」
大昔にあった戦争の際に聖王国に組み込まれたイル・イーラ族という少数民族出身であるラン・ベル猊下は、屈強な男性戦士が束になって引いてもビクともしない神弓【狩猟神之弓箭】を自在に操る【狩猟の勇者】であり、その戦闘能力は若さもあって現在のイムルスカ猊下やムテージ猊下を遥かに上回る。
恐るべき事に単体で竜を倒す事も可能な程の実力者だ。
だがしかし、【枢機卿】としては一番の新参モノだった。
その為知識の面では両名に大きく劣り、鋭い【直感】から今回の議題の重要度や【飽く無き暴食】という存在の危険性は感じているものの、しかし明確には理解できておらず、イムルスカ猊下ほど熱くはなれない。
だからこそ、イムルスカ猊下が提示する案に対し、全面的に納得できていなかった。
「いっひっひっひ。ランちゃんはまだまだ【枢機卿】になって日が浅いからのう。知らんのも、仕方あるまいて。
まあ、勉強不足なのは間違いないがの?」
そんなラン・ベル猊下の隣で、浮遊し自走する惑星のようなデザインの椅子に腰掛けた最後の【枢機卿】であるアルドラ猊下は、その皺くちゃな顔で笑うと共にちょっとした毒を吐く。
可愛くて仕方ない孫娘を論す祖母のような穏やかな口調であり、間違った事は言っていない為、ラン・ベル猊下は反論できずに苦笑いを浮かべて頭をポリポリと掻いた。
【亜神級】の【神代ダンジョン】を攻略した実績を持つラン・ベル猊下も、流石に齢百五十以上という骨に薄い筋肉と垂れ下がった皮膚だけが張り付いた枯れ枝のような老婆であるアルドラ猊下には逆らえない。
長い年月を【星読英雄】として活躍し、歴代聖王の教師役を務めるなど、圧倒的な実績を誇るアルドラ猊下は、この場ではある意味聖王すら抑えた最上位者なのである。
「はは、これは痛い所を突かれたね。実際その通りだから、何も言えないのがまた困ったところだ」
「まったく、あんたはもう少し落ち着いて、教養とお淑やかさを身につけるべきだろうねぇ。
だから、いい年して嫁ぎ先が居らんのさ」
「いや、いや。私が嫁いでいないのは、単に夫にするような男がいないだけだ。私達イル・イーラ族は自分よりも強い男じゃないと、夫にしないのが伝統でね。
これは、と思うような男はそもそも少ないし、居ても妻が居たりするから困ったものだ。略奪愛というのも燃えるが、それは今のところやるつもりはないさ。後が面倒だしね。
とはいえ、私も男なら何人か居るのさ。私のパーティメンバーのイアンとかは、中々どうして身体の相性も良くてね、ついつい楽しむ事があるよ。
あれでもう少し強かったら、良かったんだけどねぇ。足りないんだよ、あと少しがさ」
「全く、未婚で男女の契りを交わすとは嘆かわしい。貞操観念はしっかりとしよ。じゃないと、最後に損をするのはランちゃんなんだからねぇ?」
「あっはっは、何も言い返せないねぇ。まあ、時がくれば見つかるさ。
見つからなければ、妥協しても構わないとは思っているよ」
祖母と孫娘のような関係である二人が交わす今は関係ないだろう会話に、イムルスカ猊下は今にも爆発しそうになっていた。
眉間には深い皺が寄り、こめかみには青筋が立っている。
ただでさえ赤かった禿頭は更に赤みを増し、立ち昇る蒸気の幻影が見えそうな程だ。
「皆、一旦黙れ」
今まさに噴火しようとした火山が、しかし【神秘奥間】に響いた冷たい美声によって停止した。
僅かな音も生じさせずに【枢機卿】の四人全員が即座に姿勢を改め、それと同時に視線が一箇所に集中する。
視線の先に居るのは、四人が囲う円卓を見下ろせるようにやや高い場所にある豪奢な椅子に座った、圧倒的存在感を漂わせる壮年の男性だった。
肩まで伸びた金髪の輝きは神々しくさえあり、銀の双眸は他人の内心すら見透かせそうな程鋭く、その容姿はまるで芸術品のように整っていた。
微笑めば異性だけでなく同性まで虜にしそうであるが、今は感情が欠落した人形のように冷たく、生気を感じられない。
ただ、その身に纏うのは聖法衣よりも更に稀少な素材と繊細な装飾が施された神法衣というシロモノであり、これを着る事ができるのは聖王国ではただ一人のみである。
すなわち神法衣を着る壮年の男性は、当代聖王その人だった。
「イムルスカ、熱くなるのはいいが、少し抑えろ。
ラン・ベルとアルドラは、話を逸らしすぎだ。
ムテージは、皆を会議に集中させろ。これでは話が進まん」
『は、申し訳ございません』
冷たく心身に突き刺さるような声音で告げられた命令に四人は即座に頭を下げ、あっさりと従った。
当代聖王――ルーメン十三世は、聖王であると同時に【支配の勇者】である。
聖王国の名門サーブラフ家の長男として生を受けたルーメン十三世は、齢十二にして【支配の勇者】になる程の麒麟児だった。
類稀なる才覚に加え、幼少の頃から実戦で鍛えられ続けたその戦闘能力は非常に高く、竜種の群れを単騎で抹殺できてしまう程である。
並ぶ強さを持つ【英勇】は、大陸中を探しても数える程しかいないのは間違いないだろう。
そんなルーメン十三世は当然のように先代聖王の憶えもめでたく、今から十八年ほど前に先代聖王の愛娘にして【副要人物】に選ばれる程の類稀なる才女であった、今は亡きメレイナ姫と大恋愛をした末に結婚し、正式に聖王の座についた。
ルーメン十三世の才覚は聖王となってからも遺憾なく発揮され続け、これまで以上に聖王国を発展させる事となる。
性格はやや苛烈な部分もあるが、趨勢を見極める眼力により、農業革命などによる食料自給率の飛躍的向上や各種事業拡大による経済の活発化などに加え、先の≪エリンベ鉄森国≫との戦争も完勝へと導いた。
歴代の聖王が暗愚だった訳では無いが、ここまで聖王国が拡大したのは、間違いなくルーメン十三世が居たからこそだ。
実力は上であり、立場でも上である、忠誠を誓ったルーメン十三世に促されれば、四人は従う以外の選択肢が無い訳である。
「ゴホン! では、話を続けさせてもらおう」
仕切り直す為に一つ咳払いをし、イムルスカ猊下は懐から一冊の歴史書を取り出した。
かなり草臥れた革の表紙には無数の傷がつき、中の紙はボロボロで変色していた。制作されてからかなり長い月日を経た古書だと一目で分かるシロモノだ。
そんな歴史書の題名は、現在では解読する事が困難である古代語で【神々の試練】と書かれていた。
「これは約五百年前に原本から模写された、大変希少な歴史書である。著者は不明であるこの歴史書――【神々の試練】の中には、此度の【飽く無き暴食】とは違うが、しかしよく似た存在について記されている」
そう言ってイムルスカ猊下は【神々の試練】をめくりだした。
五百年物なので非常に壊れやすく、下手に扱えば簡単に破けてしまう。その為めくる動作は非常に慎重で、丁寧に丁寧に目的のページを開いていった。
「これから先は、言葉で説明するよりも見てもらった方が早いであろう。何、数分もあれば、十分伝わるだろうよ」
目的のページを見つけたイムルスカ猊下は、開いたページに自身の右手を乗せた。
途端、閃光があった。
唐突に発生した閃光の光源は歴史書であり、発生原因はイムルスカ猊下で間違いない。
というのも、【書冊英雄】であるイムルスカ猊下の主な武器は書冊である。
書冊に記された物語を実体化したり、書冊の紙を操作するなど色々と応用が利くイムルスカ猊下の能力は、対象者に書冊に記された記録を直接送る事もできるのだった。
閃光に包まれたこの場に居る全員の脳内に、様々な情報が送信された。
■ ◇ ■
――約千五百年前、【世界の宿敵・果て無き強欲】が現れた。
種族はたいして珍しくもない“狐人”だが、【果て無き強欲】はまるで現世に降臨した神の化身が如くの美貌をした、絶世の美女だった。
そんな【果て無き強欲】は自身の魅力を最大限発揮して国王や皇帝などに取り入り、最終的には精神を掌握して自在に操れる傀儡としていく。
権力を握った後はやりたい放題であり、ありとあらゆる財を収集するのは勿論、国民の血税を湯水のように浪費してありとあらゆる美食や娯楽を堪能した。
国の財政を傾ける程の豪遊であったが、それだけで留まればまだ良かっただろう。
やがてあらゆる事に飽きると、【果て無き強欲】は命を使った遊びをするようになった。
殺しても問題にならない犯罪者達から始まり、気に入らない文官や武官達、【果て無き強欲】を倒そうと立ち上がった反乱者、目に付いただけのただの平民などを大量に、思いついた残虐極まりない方法で処刑し始めたのだ。
現在でも有名な処刑法、あるいは拷問も、ここが起源となっている場合が多いとされ、この時の犠牲者は数万とも数十万とも言われているが、正確な人数は把握されていない。
ただ都市が一つ二つ消滅する程の人数が消えたのは確かなようだ。
もちろんそんな圧政が長く続く筈もなく、やがて破綻を迎え、とある国は滅びる事になった。
だがそうなると、滅びる国から財を持って逃げ出した【果て無き強欲】は名や容姿を変えて――絶世の美貌は変わらない――別の国で同じ事を繰り返していったのだ。
そうして破滅は繰り返され、最終的に【果て無き強欲】が滅ぼした国は九つとなった。
その頃には、最初はただの“狐人”だった【果て無き強欲】も、まるで滅ぼした国を示すかのように“九尾狐女王”にまで【存在進化】していたそうだ。
最後は【英勇】とその仲間達によって滅ぼされたのだが、数十人いた【英勇】と数百人以上居た仲間達の生存者は一割未満という有様だったそうだ。
――約八百年前、【世界の宿敵・死に至る怠惰】が現れた。
当時存在した世界樹に次ぐ大きさを誇る結晶樹の枝にしがみついた、“皇帝ナマケモノ”というモンスターの一体が【死に至る怠惰】だったとされる。
皇帝ナマケモノというモンスターは一年を通して殆ど動かず、攻撃されない限りは触られても抱きつかれても動じない為、先の【果て無き強欲】のように率先して動いて混乱を生じさせた訳では無い。
だが、ある意味ではそれよりも性質が極悪だった。
【死に至る怠惰】の恐ろしさは、一定範囲内の様々なモノを無気力化させる能力を持っていた事に集約される。
近づき過ぎれば力が抜け、動くどころか呼吸する事すらできなくなり。
それを回避する為に遠距離から魔法で攻撃しようにも、魔法ですら近づくほどその威力は減退し続ける。
減退した魔法では、竜種の攻撃にすら耐えてしまう皇帝ナマケモノである【死に至る怠惰】に致命傷を負わす事は不可能であり、減退を避ける為に近づく事すら出来ない。
そうしてどうする事も出来ぬまま、無気力化され続けてゆっくりと確実に、多くの生命が死滅していった。樹木などは問題なかったが、虫や小動物の類までほぼ全滅したそこは、自然で溢れかえっていたのに死が充満したおぞましい地だったそうだ。
しかも時が経つにつれて効果範囲は拡大し続けた事もあり、無数の国が何も出来ずに飲まれて滅んでいる。
殺した生物の数では、【果て無き強欲】よりも断然多いだろう。
コチラも最後には多くの【英勇】とその仲間達によって討伐されたとあるが、【英勇】と仲間達はただの一人たりとも生きて帰還する事はなく、凄まじい戦闘痕だけを残して果てていたそうだ。
■ △ ■
というような情報を初めて知り、あるいは再確認した事で、一時の沈黙が出来上がった。
二体だけだが確認された【世界の宿敵】達は、記録通りならばどちらも桁外れの化物だった。
今回現れた【飽く無き暴食】も、それに勝るとも劣らない存在だと想像するのは難くない。
そして想像通りならば、ハッキリ言って、【英勇】といえども一パーティでは絶対に勝てない存在である。
【支配の勇者】であり聖王であるルーメン十三世とて、勝つどころか逃げる事すら困難だろう。
「これは参ったね。確かに、イムルスカ老があんな提言をするのも納得だ。
もし今回の【飽く無き暴食】がコイツ等と同じだとすると、ヤバいね、これはヤバいよ」
ラン・ベル猊下は想像以上の【世界の宿敵】達に呆れながらも、爛々と双眸を輝かせていた。
獲物が大物であればあるほど【狩猟の勇者】としての血が騒ぐのだ。
もし目の前に【世界の宿敵・飽く無き暴食】が現れれば、神弓を手に取り、戦支度を整えて駆け出していたかもしれない程の興奮である。
「確かにその通りであるが、しかし、問題は多い」
燃えるラン・ベル猊下とは大きく異なり、冷静なムテージ猊下は腕を組み、眉間に皺を寄せながら口を開いた。
元々イムルスカ猊下が提言した方針には概ね同意しているムテージ猊下であるが、しかしそのままでは問題が山積みであり、それをどう解決するか、話し合う必要があるからだ。
「まず、イムルスカが提言した『聖王国の【英勇】全員とその仲間、そして軍の主力部隊を結集し、力を蓄える間もなく即座に討伐する』というのは、了承できない。
理由として、聖王国の防衛に不安が残る。我々は確かに大国であり、十分な戦力も揃っているが、油断できない厄介な敵国が存在する。
随時他国の密偵の類は消しているが、それも完全ではないだろう。もし主力が出払っていると知られれば、それを好機として攻め込まれないとも限らない」
聖王国は人間至高主義を掲げる国家だ。
亜人という種の根絶などは――世界を創造した【大神】の逆鱗に触れる可能性がある為――するつもりはないが、人間よりも一段下の扱いをする存在として定義している。
実際、聖王国の奴隷の多くは亜人達である。
すると亜人が主体である獣王国や魔帝国との仲が良好、という訳もなく。
比較的近い魔帝国との国境に【フレムス炎竜山】がある事により大規模な戦争には発展し難いが、それでも小競り合いは多い。
年に数回は、国境でそれなりの血が流れている。
という長年の事情があり、双方共に相手の隙を伺っている現状で、広大で肥沃な国土を保有する聖王国を守護する二十四名の【英勇】とその仲間達だけでなく、名の知れた部隊がゴッソリと何処かに行ったとなれば、その隙に攻め込まれる可能性は高い。
流石にそれは、例え【飽く無き暴食】がどれ程難敵であるとしても、聖王国を率いていく者達からすれば了承できるものではなかった。
「あの国々がまず【飽く無き暴食】を討伐する事に主眼を置くのなら協力できる部分もあるかもしれないが、それは難しく相応の時間が必要になるだろう」
「うぬぬ、うぬぬ。だが……」
「しかし、即座に討伐する必要がある、というのには同意する。先の情報からして、放置すれば大量の経験値を溜め込み、レベルアップし続けると考えた方が良い。
そうなると、歴史と同じく我々【英勇】や仲間達の大半が殺害される可能性は高い。それを回避するには一刻も早い討伐が妥当であり、恐れて手を引くのは一番の愚策。
よって私は数名の【英勇】と主力部隊は残し、残る聖王国の【英勇】とその仲間、そして比較的良好な関係を築けている王国と帝国の【英勇】達を結集させて攻める方が良いと思うのだが、どうだろうか」
その問いかけに反応したのは、最高齢者であるアルドラ猊下である。
「そうさね。その通りだとは思うが、もし無事討伐出来たと仮定するとして、その時にはどんな国益が出るんだい?
聖王国を【飽く無き暴食】から救いました、それはいい。国を守るのは義務さね。
でも討伐する為に聖王国の【英勇】を磨り減らしました、でも国を守った以外の国益はありませんでした、ってだけなら、動きたくても動けないよ、これじゃあね」
まだ見た事もない【飽く無き暴食】ではあるが、【世界の宿敵】と呼ばれるような相手に誰一人犠牲者を出さずに討伐できると考える程、皆愚かではない。
そして【英勇】達の欠落はそのまま国力の低下に直結し、聖王国の将来を揺るがしかねないのである。何の見返りも無しに損害覚悟で【飽く無き暴食】に挑むのは、将来未曾有の大災害となって聖王国に降りかかるとしても、何の被害も出ていない現状では利敵行為とされかねなかった。
漁夫の利として、他国に功績など全てを持って行かれでもすれば、目も当てられない事になるのは間違いない。
「いや、その心配は無用だ。討伐すれば、必ず国益はある。それも、極上のだ」
そんなアルドラ猊下の心配に答えたのは、この場で最も多くの知識を蓄えているイムルスカ猊下だった。
今は興奮も多少治まったのか、真っ赤になっていた顔は正常に戻ろうとしている。
荒れていた声音も、討伐に向かいそうな場の雰囲気によって落ち着いていた。
「この書冊【神々の試練】は約五百年前に原本から模写されたと言ったが、その際に抜け落ちた部分が多々あるのだ。というのも、原本が何らかの理由で部分的に破損した為、模写しようにも出来なかった部分がそれに該当する。
私は仕事の合間、様々な手を尽くして原文を知る事ができないだろうかと思い、様々な手段を用いて調べ上げたのだが、その成果として【果て無き強欲】と【死に至る怠惰】を討伐した時に参加した国々には膨大な数の財宝が神々から与えられた、という記録を発見した。
その記録によれば、一度発動すれば二度と使えなくなるが、【知恵ある蛇/竜・龍】の帝王類だけで構成された群れでさえ一瞬で消滅させてしまう【幻想】級のマジックアイテムを筆頭に。
所有できる者は限定されていたが【伝説】級の強力無比なマジックアイテム、食べるだけで各種能力を向上させる神々の食材や、山のような金銀財宝があったそうだ。
【英勇】の欠落によって国力を落とした他の国々も、それ等の財宝によって力を取り戻したらしい。使いようでは、むしろ発展した国もあるそうだ」
「……なる程ねぇ、それなら犠牲を払っても討伐する理由にはなるだろうねぇ。しかし、【幻想】級のマジックアイテムとはまた、凄いもんが出てきたねぇ。
使い捨てとはいえ、帝王類の群れすら一瞬で屠る事のできるシロモノとは恐れ入るよ、全く」
【幻想】級のマジックアイテムは、それ一つで戦況どころか国の力関係すら一変できる可能性を秘めた兵器である。
一応、詩篇覚醒者達が他の詩篇覚醒者達を倒すなど様々な条件を満たす事で得られる武器――神々の力が込められた【神器】も【幻想】級の類ではあるが、神器は本来の能力が簡単に引き出せないように能力封印が施されている為、その多くは【伝説】級程度の能力しか発揮できない。
神器は困難な試練をクリアして封印を開放していけば最終的に【幻想】級の能力を発揮できるようになるが、完全開放できるのは自身の神器だけである事と、開放するには困難な試練を乗り越える必要がある為、例え【英勇】と言えども簡単にできる事ではない。
この場で最も強く、大陸でも有数の【勇者】であるルーメン十三世が持つ神器は【伝説】級の殻を破り、【幻想】級にまで到達しているが、詳細に区分していけばギリギリ【幻想】級になっただけで完全開放されてはいない。
つまり要するに、【英勇】の中でも更に上位に位置する存在であっても、【幻想】級のマジックアイテムを所持している者は、歴史を遡っても殆ど居ないという訳である。
それを考えれば、討伐する事で【幻想】級が得られる【世界の宿敵】という存在がどれ程桁外れなのか、少しでも実感できるのではないだろうか。
「なるほどなるほど、ならあたしゃ文句はないよ。所詮老骨で、後継も十分育っている。ここで聖王国の発展の為になるなら、この命は惜しくないさね」
「アルドラ婆に同じく、私も構わないさ。そんな極上の獲物を前にして逃げるのは、【狩猟の勇者】の名が腐っちまうよ」
「私も当然、賛成だ。しかしどうやら、私は焦りすぎていたようだな。恐怖し、混乱してしまっていたとは、実に情けない話だ。以後、気をつけさせてもらおう」
四人の【枢機卿】達の意見は決まり、ムテージ猊下は決定権の一つを有するルーメン十三世を見た。
ルーメン十三世は小さく頷く事で同意を示す。
この時に、聖王国は【飽く無き暴食】を討伐する為に動く事が決定されたのだった。
「ならばまず、残す【英勇】達は誰にすべきだろうか、アルドラ殿」
「そうさねぇ。守りが得意なのを、五人は残したいねぇ。
まず【支配の勇者】である聖王陛下は当然として、【軍象英雄】エレスフォン、【鉄輪英雄】シャイナード、【岩兵英雄】ロックヤード、【結界の勇者】スペクラン辺りかねぇ?」
「確かに、それが妥当だろう」
【飽く無き暴食】に挑むとするなら、戦力は少しでも多い方がいい。
しかし聖王国の防衛を考えればそちらにも戦力を割く必要があるのだが、そちらに重点を置くと【飽く無き暴食】戦は非常に厳しくなるのは想像できる。
その為残すのなら攻めに秀でた者よりも、守りに優れた者を残したほうが良い。最悪の場合でも、これならば帰還するだけの時間をひねり出せるだろう、という事で残す【英勇】達が決まった。
その他にも細々とした事を片付けていくと、ちょっとした問題が浮上した。
「大体の方針はこれでいいとして、アルドラ殿。【星読み】で【飽く無き暴食】を読んでみた結果はどうだ? 当然やっているのだろう?」
ムテージ猊下の確認を、しかしアルドラ猊下は苦笑する事で答えた。
アルドラ猊下は【星読英雄】である。
星を読み、未来を知る能力を秘めた【英雄】だ。
【占星術師】という稀少な職業と【星読の神の加護】による相乗効果によって能力を飛躍的に高めているアルドラ猊下の【星読み】の的中率は、驚異的な事に九割を越えている。
表や裏を問わず、実に様々な場面で聖王国を救ってきた実績を誇るそれには、絶大な信頼が寄せられていた。
「それがねぇ、ほとんど読めないんよねぇ。
濃い霧が立ち込めるような、無数の星光が生じては消えるような、大きすぎて全体が見えないような、とにかく読み難くて読み難くて、やっと読めても現在は【フレムス炎竜山】かその近辺に居る、ってのが分かっただけだねぇ。
一応、既に子飼いの【星叡部隊】を派遣してるから、もうしばらくすれば何かしらの報告が入るとは思うんだけど、そこまで期待はしないどくれよ。
いやはや全く、老骨に鞭打ってもこれだけしか読めないとなると、一気に数歳老け込んだみたいに気力が萎えちゃうよ、まったく」
いやはや困ったモノだ、とアルドラ猊下は言った。
飄々とした声音であり仕草であるが、しかしその双眸の奥には怪しい光が宿っている。
それは絶対に読んでやる、とやる気に満ちる輝きだ。老いたその姿も、やる気に満ちている今はむしろ若返ったようにも見えた。
「アルドラ婆が読めないって事は、それだけ難敵だって事さね。分かっていたけど厄介だ、非常に厄介だぞ、まったく。しかしだからこそ、最高じゃないかッ」
ニタリ、と歯を剥き出しにした肉食獣のような笑みを浮かべるラン・ベル猊下に、その感覚は絶対に理解できないだろうイムルスカ猊下は疲れたように答えた。
「最高ではない、最悪というのだこの状況は」
ラン・ベル猊下の愚痴に、イムルスカ猊下も疲れたように答えた。
それにムテージ猊下は苦笑しつつ、頭を抱えた。
「さて、アルドラ殿ですら読めないとなると、どう作戦をたてたものかな。後で調整するためにもここで大雑把に構築したいところだが、誰を主軸に置けばいいのかも悩ましいぞ、これは」
むーん、と唸る。
桁違いの能力を秘めた【英勇】とて、個々の力量には大きな差が存在する。
その為今回のような大物と戦う時はより上位の者達を主軸にして立ち回り、下位の者達は様々なサポートをするのが一般的である。
しかし他国と協力しての討伐戦になるだろう今回は、どういった布陣で進めるか非常に悩む部分であった。何処かの国だけが被害を受けるような布陣では到底協力など出来る筈はなく、また主軸として一番【飽く無き暴食】と戦い続ける事になるだろう存在も悩ましい。
もしアルドラ猊下の【星読み】による情報があれば決める為の助けになっただろうが、今回はそれがない。
その為ムテージ猊下は悩むのだ。もちろん、他の三人も考えを巡らせていた。
「主軸になる者は、既に居る」
そんな所に響いたルーメン十三世のその言葉に、四人は疑問符を浮かべながら顔を向けた。
主軸になる者が既にいるとは、一体どう言う事なのかと。
そしてそんな者が居るのなら、何故最初に言ってくれなかったのか、という感情が視線には込められている。
「……戦いを選択せず、皆が静観を選ぶのならばまだ言うつもりは無かった。
しかし、皆は戦う事を選んだ。ならば余も、身を斬る覚悟を決めなければならぬだろう。
……メルルナ、アルフォレス、リーフォンス、入って来なさい」
ルーメン十三世の顔には苦渋が浮かんでいた。
冷たく凍りついていたような表情が崩れる程の何かを我慢しているようで、その声音には沈殿した重液の底から這い出すようにネットリとした疲労が伺える。
それが何を意味するのか理解する前に、硬く閉ざされていた【神秘奥間】の扉が、ゆっくりと外から開かれていく。
軋んで音を立てることもなく、実に滑らかに開かれた扉に居たのは、異様な雰囲気を漂わせる三人の美女。
誰かは知らぬが、ゴクリ、と喉を鳴らす音が小さく響いた。
「お呼びでしょうか、お父様」
完全武装した二人の美女を背後に従え、先頭をまるで王者のように歩く十代後半の白い美女が【神秘奥間】に足を踏み入れた途端、【枢機卿】である四人は不可思議な感覚に襲われた。
身体の奥底から尽きる事のない力が滾滾と無尽蔵に湧いてくるような、自分という存在が急激に肥大化してしまったような。
あたかも自身が数段階上の存在に一瞬で変化したかの如き、心地よくも恐ろしい感覚だった。
そして、そんな驚愕の中でありながら、その原因だろう純白の美女の正体にいち早く気がついたのは、最高齢者であるアルドラ猊下だった。
「メルルナ? まさか聖尖塔で療養中だった、メルルナ姫様かい? そんなまさか、あそこから出られる筈が、いや、しかし、確かに本物のようだけどねぇ。こりゃ、どういうことだい?」
「……へぇ。あれが例のメルルナ姫ねぇ。初めて見るけど、かなりの美人じゃない」
かつて、ルーメン十三世とメレイナ王妃との間に、待望の第一子となる姫君が生まれた。しかしその姫君は生まれた時から不治の難病を患っていた事が全ての始まりだった。
両親が両親だけに姫君の生命力や魔力は桁外れに高かった為、運良く――あるいは運悪く――死産せずに誕生できたのだが、適切な手当が無ければ時を置かずして死んでしまう程弱っていた。
そこで父親であるルーメン十三世と母親であるメレイナ王妃――産後に病を発症し、それが原因で既に病没している――の命により、医療施設が充実していた聖尖塔に運ばれる事となる。
その後、懸命な治療と姫君の生命力の高さによって命を永らえさせる事はできたが、外に出る事が難しい身体となってしまった姫君は聖尖塔で暮らす事となった。
聖尖塔に運ばれてからただの一度も外に出る事は無かった為、時が経つにつれて周囲から存在を忘れられ、現在も覚えている者は少ないだろう。
例え覚えていたとしても、後継者として有力な第一王子が居る現在、姫君を気にする事など無かったに違いない。
正統な血統でありながら、国から忘れられた存在。
不治の難病という重りを生まれた時から背負い、安全な籠の中で十数年を生きてきた、外を知らない哀れな小鳥。
そんな不幸の姫君の名はメルルナと言った。
ルーメン十三世にメルルナと呼ばれて入室し、ルーメン十三世を父と呼んだ美女と同じ名前である。
目の前にいるのが本物のメルルナ姫かどうかは四人に判断できなかったが、しかしよく見ればその容姿などには、ルーメン十三世と似通った部分は多く見受けられた。
そしてメレイナ王妃を知るムテージ猊下、イムルスカ猊下、アルドラ猊下は、その面影も感じ取ったに違いない。
確信は持てずとも、両者と血の繋がりがあるのだろうな、と思うには充分だった。
ただルーメン十三世と違い冷たさは感じられず、陽だまりのような心地よい笑みを浮かべている。
腰まで伸びる純白の髪、優しげな白銀の瞳、傷一つ見当たらない白い肌と相まって、メルルナ姫は一度見れば目が離せなくなる程美しい女性だ。
華奢な体躯と相まって、全力で守りたくなるような姫君である。
しかしこの場に居る誰一人とて、そんなメルルナ姫が只者ではないと感じている。
なにせ、ルーメン十三世以上の重圧感を放っていたのだから、当然といえば当然だった。
「おいで、私の可愛いメルルナ」
「はい、お父様」
優しげな微笑を浮かべるルーメン十三世に手招きされ、嬉しそうに微笑みながらメルルナ姫がその横に立つ。
そこには溺愛する愛娘の前では優しい父親と、愛してくれる父親に懐く愛娘の姿があった。
「お前はずっと聖尖塔で暮らしていたから、この者達と直接会うのは初めてだ。軽く、自己紹介でもするといい」
「はい、お父様。
……初めまして、皆様。私の名はメルルナ。お父様の実の子でございます」
自身がこの国の忘れられた姫君本人である明言したメルルナは、常人ならば胃に穴が空きそうな程の重圧が宿る八の視線全てを微笑で薙ぎ払い、小さく頭を下げてから再度口を開いた。
「実は私、今から二百日以上前に【救世主・候補】という変わった【職業】を授かったのですが、その力によるものなのか、生まれた時から苦しめられてきた病気を克服できました。
その為、ゆっくりとですが、聖尖塔の外に出られるように準備を進めていたのです。私、初めての事でとってもドキドキしていたのですよ? 本当に、楽しみにしていたのです。
ですがつい先日、【救世主・候補】が【白き誕叡なる救世主】に変わりました。
最初は驚きましたが、【白き誕叡なる救世主】に目覚めて以来、これまでは絶対に出来なかった事が簡単に出来るようになったり、同時に様々な事を理解し知る事になりました。
そして、生まれた時から何を成す事も無く生きてきた私が、何を成す為に生まれてきたのか、その理由も分かったのです。
私がすべき事、それは皆さんと共に立ち上がって、そして――」
――この命と引き換えにしても【飽く無き暴食】を討つ事です、と聴く者全ての心を溶かしてしまいそうな美声に乗った言霊が、シンと静まり返った【神秘奥間】に響いた。
そう宣言したメルルナ姫が浮かべるのは、美しい微笑だった。見惚れて、魂まで抜かれてしまいそうな美がそこにあった。
そして今は絶対氷土を連想させる程鋭さを増した父親譲りの眼光が、嘘偽りを述べていない事を確信させる。
メルルナ姫は【飽く無き暴食】を殺すだろう。少なくとも自分という存在全てを賭けて、【世界の宿敵】に挑むだろう。
「そう、【飽く無き暴食】を討ち、私はそこで果てるのです。
その為に、その為だけに私は生きてきた。常にあったあの全身を貫かれるような痛みも、頭が破裂しそうな程の頭痛も、誰かがいなければ何も出来なかったこれまでの人生の全てが全て、【飽く無き暴食】と戦うが為にあったのです。
ああ、なんて甘美にして崇高な使命なのでしょうか。神が私に告げている、神が私に微笑んでくれている。
こんな私にも、意味があったのだと教えてくれている。ああ、ああ。なんて、なんて喜ばしいのでしょうか。こんな私にも意味はあったのです、生きていていい理由があったのです、私でなくばできない役割があったのです。
私はここに居る、私はこれから使命を果たす、何があろうとも、何が立ちふさがろうとも。
私は世界に、私はここに居るのだと示さねばならぬのですッ!」
それしかメルルナ姫には生きてきた意味が無かった。
少なくとも、本人はそう思っていた。
何があっても最高の治療を受け、死にたくても死ぬ事は許されず、身の回りの全ては従者が居らねば動く事すら困難を極めてきたその人生は、苦痛と諦観に彩られていた。
そんな人生の中で、明確に出来た目標/使命に、メルルナ姫は歓喜していた。
だから、例え死ぬ事になったとしても、メルルナ姫は笑うだろう。笑いながら、逝くに違いない。
そして、神に祈りを捧げ始めたメルルナ姫を見た四人は、とある事を確信した。
生物としての格からして違う、【英勇】さえも超えた怪物同士の戦いがもうすぐ側まで近づいている。
国という枠を超えるに違いない激戦が、地形を大きく変えてしまいそうな大戦が、誰も彼もが死んでいく地獄の釜が開く時が、もう少しで顕現する。
その事に嫌でも気がつかされた四人は、目が眩むほど鮮烈なその宣言に、しばし言葉を失った。
これまでに無い戦いの熱を感じ、背中にはジットリとした汗が流れ出た。
しかしもう、誰も止まる事は出来なかった。
■ ▲ ■
メルル姫が従者二名を引き連れて登場してから、数時間後。
闇が深くなった頃合にて、【四枢会議】は終了した。
「では此度の【四枢会議】を終了する」
ルーメン十三世によって終わりを告げられると、出席者達は足早に【神秘奥間】から去っていった。
皆、今日は早く寝室に戻って休む事になるだろう。
そして明日にはここで決定された事案を各部署に回し、帝国と王国との共闘関係を築く事に翻弄される事になる。
その他にもやる事は満載であり、聖王国はこれから騒がしくなっていくのは間違いない。
【救聖詩篇】という【英勇詩篇】などよりも上位に位置する詩篇に目覚め、自身だけでなく味方の能力を強化する事に秀でた【白き誕叡なる救世主】となったメルルナ姫と、メルルナ姫を幼少の頃から守り支えてきた友人にして守護騎士である双子が力を授かって成った【境界の聖人】と【割断の聖人】の三人を主軸とした、【英勇】連合軍による【世界の宿敵】討伐作戦が発動されるのである。
非常に難しい条件を多く抱えるこの作戦を成功させる為には、今は休息が必要だった。
その為短時間で人気の無くなった、静謐を保っていた【神秘奥間】。
そこに、異変はあった。
円卓の直上にある天井から、ポコリ、と小さな黒い粘液がにじみ出た。
それは奇妙な粘液である。
スライムとは似て非なる存在であるらしく、粘液の一部を伸ばして造った無数の触手を動かし、周囲を見回すように伺っている。
本能で生きるスライムでは、上位種でもない限り見られない特異な行動だった。
そしてよく見れば、触手の先端には無数の小さな眼球が形成されていた。
その眼球からは昆虫や魚のように感情を読み取る事はできないが、濃縮された高密度の吐き気を催す知性体の悪意だけを感じ取る事はできた。
周囲を見る行動の一つ一つがおぞましくすらあっただろう。
しかしそれを見る者はいない。それは幸いであったに違いない。
粘液を見れば誰だって叩き潰したくなるだろうから。
どんなに善良なモノでも殺さずにはいられないおぞましい何かがそれであったから。
やがて周囲を観察し終えた粘液は、危険は無いと判断したのか、湧き出した天井から円卓に向かって落下する。
ベチャリ、と衝撃で粘液の一部は飛散するが、それも時間が経てばウゾウゾと蠢き元に戻った。
そして粘液は、スライムのようだった形状を変化させた。
より動きやすく、より素早く、より情報を収集し易い形状へと。
そうして生まれたのは黒い異形だった。
中央に存在するのは巨大な眼球。
先ほどの昆虫や魚のように感情を読み取る事のできない眼球であり、それから伸びる八本の手足は、全て異形ではあるが人間の手と酷似していた。
カサカサと動くその様子は、最早吐き気しか感じられないだろう。
生理的嫌悪感を感じさせる、元粘液は新しく造った口のような器官から、ゆっくりと意味のある言葉を呪詛のように吐きだした。
『パラ・べ・ラム・パラ・ベ・ラム』
これまで無数に放たれ、独自で成長してきた個体の一つであり、群体の一部でもあるそれは、見聞きした情報を本体へ伝達する。
不可思議な理論でもって、ほぼ同時に伝達し終えたそれは超高速移動によって霞んで消えた。
誰にも気づかれる事なく深く深く浸透していくそれ等は、誰にでも這い寄る間者であり刺客であった。
誰も、這い寄る鬼災からは、逃げられない。

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