Latest Entries

イーストウッドの新作『ジャージー・ボーイズ』が素晴らしすぎて腰が抜けそうです

 クリント・イーストウッドの新作映画、『ジャージー・ボーイズ』を見てきた。……な、なんじゃこりゃ~! これは凄いですよ。イーストウッドが今まで取ってきた全ての映画の中で、これこそが最高傑作ですよ! 84歳にもなって今更最高傑作を更新するなんて、どういうことなんだ……
 思えば、私としては、イーストウッドは大変敬愛する監督でありながら、一方で、作品との接し方に結構悩まされる存在でもあるのであった。いやもちろん、『ペイルライダー』は凄いし、『許されざる者』は凄まじいし、『パーフェクト・ワールド』には心打たれたし、『スペース・カウボーイズ』には大笑いし、『ミスティック・リヴァー』には寒気がし、『グラン・トリノ』には戦慄したのだが……しかし、イーストウッドの映画の中で最も愛着を持ち思い入れがある映画ということになると、ダントツで『ブロンコ・ビリー』になるのだ。
 とはいえ、監督としてのキャリアを積み上げていく中で、イーストウッドの演出能力は明らかに高まっていった。だから、80年代に製作された
『ブロンコ・ビリー』の映画としての完成度は、その後の作品に比べると、それほど高いとは言えないということは明らかなのである。
 80年代の頃のイーストウッドは、安定した興行収入が見込める映画を製作する一方で、その合間合間に、自分が本当に監督したい映画を低予算で製作してきた。そのようにして出来上がった成果が、『ブロンコ・ビリー』であり『ホンキートンク・マン(センチメンタル・アドベンチャー)』であったわけだ。
 ところが、90年代に入ったぐらいの頃……『許されざる者』のあたりからだろうか、イーストウッド作品において、商業性の追求と作家的野心は、うまく調和し始める。作家性を追求するときには商業性を度外視して両者のラインを別々に追求するようなことをせずとも、作りたい映画を作れば興行成績も自然とついてくるようになってきたわけだ。
 そうして現在に至るわけだが……今回、『ジャージー・ボーイズ』に関する評を色々なところで見ていて、非常に気になったことがある。イーストウッドがこのようなタイプの映画を撮ることを意外に思っている人々が大量にいるようなのだ。……いや……その……『ブロンコ・ビリー』や『ホンキートンク・マン』のような映画を撮った人が『ジャージー・ボーイズ』のような映画に到達するのって、極めて当たり前のことだと思うんだが……やっぱり、イーストウッド作品でも、このあたりの映画って、あんまり見られてないのね……。
 とはいえ、このことは、逆から考えることもできる。……すなわち、商業性と作家性の分裂を調和することに成功し演出能力も飛躍的に高まって最強の映画作家となったイーストウッドが、遂に『ブロンコ・ビリー』や『ホンキートンク・マン』の世界に帰還したのである。
 では、『ブロンコ・ビリー』や『ホンキートンク・マン』のような作品の魅力とはなんなのだろうか。
 ここでは、『ブロンコ・ビリー』の方を例にとろう。……『ブロンコ・ビリー』とは、一言で言えば、「メタ西部劇」と呼べるような作品なのである。……そこで扱われている映画の内容自体は、「西部劇」と呼べるものではない。しかし、なぜ人は西部劇を愛し西部劇を必要とするのかという事それ自体が、西部劇そのものを俯瞰するメタ的な視点から作品かされているのだと言うことができる。
 そして、『ジャージー・ボーイズ』は、そのような『ブロンコ・ビリー』のスタンスを踏襲している。……しかし、今回取り上げられているのは西部劇ではない。ミュージカル映画やギャング映画がアメリカ映画史の中で果たしてきたことそれ自体を対象化することによって、『ジャージー・ボーイズ』という作品は成立しているのである。


 『ジャージー・ボーイズ』が語るストーリーの端緒となるのは、1950年代のニュージャージー州の貧しい街の片隅で生きる、チンピラのような若者たちの過ごす、取り立てて何の希望もない日々の出来事である。貧しいイタリア系の移民が暮らす街の中で、街の外に出て行こうとすれば、軍に入るか、マフィアに入るか、ショービジネスで成功するか、くらいの選択肢しかない。
 そんな日々の暮らしの中で……ことあるごとに刑務所に出入りし、ごくごく日常的な当たり前のこととしてマフィアの人間とつきあってそちらの世界に片足を突っ込んで生きている、そんな連中が、現状を脱し一旗上げるための唯一にして最後の手段として、音楽に賭けることになる……。
 以上のような題材が非常に興味深いのは、イーストウッドが、アメリカ映画が依って立ってきたところの基盤をあからさまな形で暴露してしまっているからだ。
 ハリウッドは、とりわけその全盛期には、きらびやかで絢爛豪華なミュージカル映画を量産してきた。それは夢と希望だけが純粋に抽出された、底抜けに明るい世界にしか見えなかった。しかしそれを製作するショービジネスの世界は、薄汚い連中がたむろす、どぎつい欲望の渦巻く場所でしかなかった。
 そして、ミュージカル映画の隆盛以前……1930年代にハリウッドを席巻したのは、過激な暴力描写を含むギャング映画なのであった。しかし、過度の暴力描写ゆえに世間一般の顰蹙を買い、自主検閲の体系としてプロダクション・コード(ヘイズ・コード)が制定されることになり、結果としてギャング映画というジャンル自体が衰退の方向に向かう。
 だから、30年代と40年代、プロダクション・コードの以前と以後の双方に渡って活動した映画人は、多くの場合、二つの顔を持っている。例えば、ギャング映画を代表する傑作の一つである『暗黒街の顔役』の監督であるハワード・ホークスは、プロダクション・コード成立後には『赤ちゃん教育』や『ヒズ・ガール・フライデー』のようなスクリューボール・コメディを撮影している。あるいは、『白熱』において冷酷非情なギャングの狂気を怪演したジェイムズ・キャグニーは、『いちごブロンド』のようなコメディや『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』のようなミュージカルにも主演している。
 『ジャージー・ボーイズ』が明らかにしてしまうのは、言ってみれば、キャグニーの二つの顔は根っこのところでは同じであるということだ。底抜けに明るい、ショービジネスの世界の夢の結晶は、ギャング映画の世界が題材としたようなマフィアの世界と絡み合い地続きになったところに存在している(そういう意味では……ジョン・ロイド・ヤングが演じるところのフランキー・ヴィリの、いかつい荒くれ者のイタリア系マフィアの男たちのただ中にまじることで、小柄でひ弱な姿を際立ててしまうその様子が、『ゴッドファーザー』の第一作におけるアル・パチーノの風貌を想起させたのだが、これは偶然ではないのかもしれない)。
 しかし、である。『ジャージー・ボーイズ』という作品は、華やかな夢の背後にある現実の浅ましさを、露悪的に暴露することによって否定しているのではない。むしろ、現実の醜さや浅ましさやどうしようもなさをあるがままの姿で念入りに描き出しながら……それでもなお、どういうわけだか、ふとしたもののはずみで、ただひたすらに美しく肯定的な夢の世界が、醜悪の現実の中から立ち上がってしまう奇跡的な瞬間がある。そんな瞬間がいかにして生まれてしまうのかに立ち会うということにこそ、『ジャージー・ボーイズ』の主眼はある。


 だから、『ジャージー・ボーイズ』という作品がメタフィクションの形式を備えていることは、必然的なことなのである。作中の主要な登場人物たちが観客に向けてことあるごとに語りかけ続けるという構成は、原作の舞台からそのまま踏襲されていることであるらしい。しかし、演劇の上演という形態においてはそれほどまでに違和感がないであろう「登場人物による観客への語りかけ」という構成は、映画においては、メタ的な視点の存在をより一層強調しているように思える。
 『ジャージー・ボーイズ』の観客は、ニュージャージーからやってきた若者たちが、いつしか「フォー・シーズンズ」と名乗るようになり、音楽の夢を築き上げていくその過程を、俯瞰する視点から見守ることになる。……そして、そこでなされる若者たちの悲喜こもごもは、ハリウッドが純粋な夢の結晶としてミュージカル映画を製作してきたその過程とも重なり合うものだ。
 メタ的な視点に追い込まれた観客は、夢の成果に、ただそれだけで独立したものとして接することを禁じられている。どのような醜悪な現実の中からそれらが生誕するに至ったのか、その全ての過程に立ち会うことしか、許されてはいないのだ。
 だから……『ジャージー・ボーイズ』の作中には、若き日にTVドラマの『ローハイド』に出演していた頃のイーストウッド自身の映像が、それとなくまぎれこんでいる。このこと自体は、イーストウッド以外のスタッフによって提案された軽いお遊び程度のことであったらしいのだが……しかし、結果として、このことはこの作品にとって非常に重要な要素の一つになっていると私は思う。
 と言うのも、50年代から60年代にかけてのアメリカのショービジネスの世界で起きた出来事を大きく扱う作品であるならば、そのとき、「俳優としてのクリント・イーストウッド」もまた、取り上げるべき対象の一つであることは疑いないからだ。……つまり、イーストウッド自身のセルフ・イメージすらも作中要素の一つとして取り込んだことによって、『ジャージー・ボーイズ』は、アメリカ映画史を俯瞰する視点を獲得したと言えると思うのだ。
 そんなことを考えていたのだが……この『ジャージー・ボーイズ』、エンドロールに当たる部分が、そこだけ独立した形で公開されている。これは本当に素晴らしいシーンだったなあと思いながら見返してみたのだが……改めて見ると、大変なことに気づいた。このエンドロールの最初のショットは、街の片隅で肩を寄せ合っているフォー・シーズンズの面々に、スポットライトがかかっているところだ。……が、よく見てみると、まさにそのスポットライトの光源の照明器具それ自体もまた、画面の中に写り込んでいるのである!
 なんてこった、このショット一つだけで、作品全体のテーマが凝縮されてるじゃないか……これにはまいった……。


 この上なく美しい夢の結晶に見えた音楽は、その実、どうしようもないろくでなしどもの醜悪な日々の中からひねり出されたものであるのかもしれない。それは、世に出て地位や富を獲得するための手段としてしか見なされていなかったのかもしれない。……にもかかわらず、フェイクでしかない夢の世界が、卑小であるがゆえにどこまでもリアルで圧倒的で動かしがたい現実世界を決定的に凌駕してしまう、奇跡のような瞬間がある。
 そんな瞬間を堂々と正面から描き出してしまえるということが、長年に渡ってその演出の技術を磨き続けてきたイーストウッドが到達しえた境地であった、ということなのだろう。
 それにしても、改めて考えてみると……メタ西部劇であった『ブロンコ・ビリー』に比べると、『許されざる者』の方は、西部劇がその神話性の背後に隠してきた醜く卑小な現実を暴き出した上で、改めて西部劇を再構築しようとする作品なのであった。
 ……と、いうことは、『ジャージー・ボーイズ』って、単に『ブロンコ・ビリー』のテーマが流れ込んでいるだけではなくて、『ブロンコ・ビリー』と『許されざる者』の双方のテーマが統合された上で、一つの作品の内部に昇華されている、ということになる。……どうしてくれるんだ、そんなの最高に決まってるじゃないか!
 以前に書いたエントリで、私は、「ドサ回り映画」というジャンルの区分を孤独に提唱してみたのだが……この『ジャージー・ボーイズ』、いきなり現れておいて、ドサ回り映画史上ナンバーワンの位置にいきなり収まりましたよ……。
 う~ん……それにしても、どうせここまできたなら、イーストウッドに「30年代のギャング映画」を題材とした映画を撮ってもらいたいなあ、と思うのであった。……もしそんなことが実現するのであれば、もちろん、主演はジェレミー・レナーでお願いします!








関連記事


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://howardhoax.blog.fc2.com/tb.php/144-9d77eac8

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

«  | ホーム |  »

このブログについて

 ・毎週土曜日に更新しています。それ以外にも不定期に更新していますので、月に5~6回程度の頻度で新しい記事を載せています。


 ・コメント欄は承認制です。管理者の直接の知人でもないのにタメ口で書き込まれたようなコメントは承認しませんのであしからず。


 ・なにか連絡事項のある方は、howardhoax(アットマーク)yahoo.co.jpまでどうぞ。

 

プロフィール

Author:Howard Hoax
 読んだ本、見た映画の感想をつづるブログ。基本的にネタバレありです。

 

全記事表示リンク

広告

 

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
104位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
小説・詩
3位
アクセスランキングを見る>>

 

最新コメント

カテゴリ

月別アーカイブ

広告

 

検索フォーム

 

 

RSSリンクの表示

リンク

QRコード

 

QR