ハリウッド版の呪怨「The Grudge 2」でインターナショナルスクールの女生徒が怨霊によって押し入れに閉じ込められて、必死で引き開けようとして虚しく暴れるところが出てくるが、ポップコーンを食べながらシネマコンプレックスの椅子にカップルで腰掛けて眼を見開いて怖がっている英語人はごまかせても諸事万能の精細な知識を持つ十全外人は誤魔化せない。
襖などは、ほんとうは紙と、か弱い細木で出来ているだけのものなので、女といえど、健康ですくすく育った現代高校生の「がたい」があれば体当たりをぶちかまして襖ごと倒してしまえばいいだけである。
あるいは風車の屋七が助さんや角さんと悪代官の行状を声を潜めて話しているが、よく見ると隣の旅人のあいだにあるのは「衝立」だけで、チョー面白いというべきか、衝立くらい興味をひくものはなくて、襖はドアのふりをしているが、衝立に至っては壁のふりさえしていなくて、いわば注連縄と同じで「結界」の役割を果たしているにすぎない。
ヘンケン博士的仮説に過ぎないかも知れないが、日本人が観念をもって現実となすことかくのごとし、と思うことが日本にいるときにはよくあった。
その最たるものは満員電車で、一定密度を超えて車内が稠密になってくると、まわりからべったりへばりついてくる人間は人間としては存在しなくなって生物とは認められない物体化する。
満員電車がさらに稠密になると否応なく手先やときには股間(←下品)までが物理的に痴漢をはたらくが、これはぼくの意志ではありません、という強い表明を表情や身体の傾きや、特に手のひらの位置を調整することによって「主観的に痴漢ではない」状態をつくる。
みなし正常人というか、ほんとうは物理的には身体が痴漢していても観念の力によってマジメな勤め人として目的駅にまで到達する。
そこの口元が下品なきみ、あ、出羽の守!というような退屈で凡庸な罵り言葉によって早まってはいけません。
21歳のアルベルト・アインシュタインにならって、ここで思考実験を行う。
きみはシカゴのアラトンホテルでリフトに乗り込むところ。
別にアラトンホテルでなくてもいいが、むかしわしガキの頃に朝のアラトンホテルでリフトを待っていたら、若い知的で上品なキャリアウーマン風のチョー美人が、かーちゃん+わしとリフトを待っていて、ところが当時のアラトンホテルは大改修前で、なにしろ1920年代だかなんだかのリフトのままなので、ものすごおおおく、のんびりで一向に上がってこない。
20分という時間がすぎたころ、この若い品(しな)上がるひとが、「このf***in‘エレベータめ!ふざけやがって!!なめとるのか、クソが」と述べたのをいまでもときどき思い出しては昔のシカゴを懐かしむので設定として借りているだけです。
ドアがびいいいっと開いて、中にひとり人間が乗っている場合、きみはにっこり笑って、乗り込み、アラトン速度でゆっくりゆっくりゆうううっくり地上に降りるあいだ、ま、年代もののエレベーターちゅうのも悪くはないですのい、人間の社交性を刺激するという点で功徳があるともいえる、というように会話するだろう。
5人になると、乗るときににっこり笑うところは同じで、かつてのアラトンホテルのリフトの茶目っ気で、どおおーんと、ちょっと揺れたりすると、「ひゃ」と言って、「ロープが切れたかと思った」と軽口をのべて笑ったりもする。
ところが12人でぎゅう詰めで、夏の盛りに隣の女の人の剥き出しの腕がべったり自分の腕につくような状態では、だまりこくるのではないかと思われる。
インドの映画を観ていてもインド都市の東京に数倍する満員電車のなかでは、やはりお互いに眼をあわさず、あっちやこっちを向いて、まるで辺りが無人であるかのごとくに振る舞うのが正しいマナーと見なされているもののようで、特に日本文明がうんねんかんぬん、日本人はうんかんぬんぬん、というものではないよーです。
日本が特異的に、ということではなくて、ひとつのコミュニティが現実に対する感覚を失って観念が認識のなかで優位になる、ということには、社会生活における人間の密度はおおきな役割をはたしているようにみえる。
習い、性になる、という。
毎日毎朝、まわりの人間を人間でない物質とみなしていると、ついに人間を人間とみなす回路が崩壊するらしい。
「マンハッタンはアメリカではない。アメリカ人の条件である現実感覚を彼らは不思議なほど持ち合わせていない」という趣旨の意見は、たとえば中西部の町に行けばいくらでも聞けるが、田舎に住む人間の都会人への嫌悪というふうにとらないと決めて検討してみると、案外、ほんとうなところがあるかな? ほんとうだとしたら密度がやはり問題なのだろうか?とむかしはよく考えたものだった。
日本では、もうずいぶん前に放送されたらしい、ドイツの公共放送ZDFのドキュメンタリのリンク
を送ってきた年長の友だち(日本人・40代)は、
「日本はやはり破滅すると思う」と悲観的な言葉でemailをしめくくっている。
経緯を述べると、自分で言っていても信頼性がないような気がしたが、あまりに福島事故のあとにばらまかれた放射性物質に関連して自分と家族の将来を悲観するのでチェルノブルと異なって大半の放射性物質が地下に潜ったことによって生じる「対策をする時間」が日本人にとって幸運として働く可能性はなくはない、と書いておくったことへの返答で、ガメは、もう日本の将来に興味をもっていないから、そういうテキトーな慰めを言う、現実はそれどころではない、ということを示すためにおくってきたもののよーでした。
福島第一事故のその後についての、多少とも科学的素養をもつ英語人の目下の反応は、要約すれば、当初恐れたような海洋を媒介しての放射性物質の急速な拡散は実際には起こらないようだ、という曖昧な安心がまず存在して、その現実認識を元に「仮に犠牲者がでるにしても日本に住む人間に限定されるのだから、案外だいじょうぶだったという将来から大量の不審死者がでる将来まで、いずれにしても日本人の勝手でほうっておけばよい」というものだと思う。
日本の政府が述べているように事態がコントロールされているとはまったく思っていないが、おもいがけず拡散しないことがわかって日本に限定された災害であると判定されたところで急速に関心を失っている。
汚染水の垂れ流しについても、「最悪の場合でも北太平洋の魚を食べなければいいだけだ」と述べてあったりして、日本人はどうしてこれほどの問題に安全とひとり決めして安閑としているのか、と訝る気持ちはあっても、もう自分達にとっては切迫した問題ではない、という気持ちがあって、話題にのぼることはほとんどなくなった。
2020年の東京オリンピックが近づいたときに、選手として派遣されるオーストラリア市民の健康が心配されるのでボイコット運動をする、といまから発表しているカルデコット博士たちのような「短期間でも東京にいくことは自殺行為だ」という意見は、あまり聞かれなくなって、たとえば一週間や二週間の滞在なら、内部被曝は避けられないにしても帰国したあとに排出されるので、それほど心配するほどではない、という気持ちが強くなっている。
「自分達の問題でなくなった」という意識が強くなるにつれて、リンクのZDFにしても、2011年や2012年のものとは、よく観るとトーンが異なっていて、日本政府と東京電力の人道性の欠如を問題にしている。
それに伴って「日本人の非人間性」ということがよく言われるようになって、パーティやなんかで聞いていると、なんだか、通常の日本人にとっては踏んだり蹴ったり、というか、なにしろ外国の人間にとっては政府も東京電力も、その辺の日本人も、政府の無責任に激しく反発して通りに出てくる反原発の日本人も一緒くたなので、
政府や大阪市長の堂々たる慰安婦問題否定や嫌韓デモ肯定発言の印象とごっちゃになって「日本人は、人間性に乏しくてこわい」になっていると言えなくもない。
言えなくもない、と糢糊糢糊(もこもこ)した言い方なのは、自分達と直接関係すること以外にはなんの関心ももてない英語人の悪いくせで、日本のことなど関心をもつ人は稀だからで、こう述べている本人も日本語でブログを書いているとき以外は日本のことなど欠片も考えていないので、到底、同胞を非難するわけにはいかない。
傍から見ていると、日本政府は福島の東半分を「励ましながら悟られないように 見捨てる」ことに成功しつつある。
ちょうど戦後の沖縄と同じで、「同情と憐憫をもちながら福島県民の犠牲に感謝する。でもなにもしないけどね」ということなのでしょう。
放射性物質の危険を説き、反原発を述べるほうの人たちのほうも、公平に述べて、福島人をいまの窮境から救い出す、という切羽詰まった気持ちよりも、観念の勝負所である「原発は是か非か」というほうに夢中なようで、遠くから無責任にゆってごみんx2と思うが、反原発より無茶苦茶に汚染された町で「こわい」というひとことも言うことを許されずに生活する福島人を救うほうがプライオリティとして普通なら先なんだけど、と思わせられる。
被災地帯の住民を仮設住宅から救いだせない運動は、実効的な意味をもちうるだろうか?
ひどい反原発人になると福島人をあしざまに言う人も存在して、読んでいて困った気持ちになる。
政府は激励ばかりで現実の援助はなにもしてくれない、と言った、例の南相馬村出身の女の人は、「日本人は冷たい。政府や東電はもちろん、いまでは普通の日本人も信用する気持ちはなくなりました」と書いてきた。
外国人に日本の悪口を書く、というものではなくて、どこにもやり場のないいつもは隠している「本音」を文字にしてぶつけている、という趣の激しい文面だった。
政府は、言うまでもない、論外で、たとえチェルノブルの強制避難区域に相当する放射能汚染地区が安全だと政府がマジメに思っているのだとしても、南相馬村の女の人が希望した「政府による全村民の強制移住」は出来なくても、移住を希望する住民は移住させるのが政府の最低限の役割ではなかろーか。
戦時中の日本政府ですら、そのくらいのことは出来た。
フクシマは、すでに観念の「衝立」の向こう側にある。
将来、汚染地区に住む人が死のうが生きようが障害のなかで苦しもうが、存在しなくなったのだから、日本の人も世界の人も、もう気に病みはしないだろう。
「原子力村の政治力」よりも、「関係がないものへの無関心」は遙かに強力で、太古のむかしから人間が不運に陥った人間を見殺しにする能力こそが、人間の社会を継続させるちからであったことの皮肉を思いおこさせる。
結界を築いて心の安寧を保ったつもりでも、自分が内側にいるはずの結界の外で孤独で荒涼とした死を迎えるのは、案外と観念をつくりだして安住したつもりの自分のほうなのかもしれません。