他人の犯罪立証に協力する見返りに、自らの罪を軽くしてもらう「司法取引」の導入を盛り込んだ法改正要綱を、法制審議会が答申した。
日本の司法制度を、大きく変えてしまう愚行だ。違法な取り調べや冤罪(えんざい)の助長につながりかねない。日本社会には到底なじまぬ法改正であり、強く再検討を求めたい。
司法取引は、取り調べの可視化や通信傍受の対象拡大などとともに盛り込まれた。2011年設置の「新時代の刑事司法制度特別部会」で、供述に代わる証拠を得る手法として議論に上り、可視化との交換条件として盛り込まれた不可解な経緯がある。
可視化は、殺人といった裁判員裁判の対象事件など全事件の2〜3%に限定される。通信傍受はプライバシーを危機にさらす。そんな状況下で司法取引を提案すること自体が国民軽視といえよう。
司法取引は、容疑者や被告が共犯者などの犯罪解明に協力すれば、検察が起訴を見送るか取り消す。また公判で、自らに不利な証言をした証人は刑事責任を追及されない。
確かに、犯罪が多発している米国などでは、効率的な事件処理のため司法取引が多用されている。しかし日本では事件の真相や背景の解明によって、いかに社会正義を実現するかに重きが置かれてきたはずだ。司法取引は「密告制度」につながりかねず、国民に疑心暗鬼の風潮が広がる恐れさえ否定できない。
そもそもわが国は、戦時中の隣組による相互監視や、治安維持法による密告制度を反省し、否定することで今日の社会を築いてきたはずだ。時代に逆行するかのように司法取引が浮上してきたことに、強い違和感を覚える。
司法取引で得た情報を、捜査当局が恣意(しい)的に運用する懸念もぬぐえない。関係のない第三者が犯人にされる可能性さえ否定できないのだ。被疑者が虚偽供述をすることで罪を軽くしようとするケースも出てこよう。それをチェックするのはほぼ不可能だ。
検察当局は「難航する捜査の打開策になる」というが、自らの捜査力を否定しているに等しい。「供述の裏は十分に取る。不安のないケースから試すことになるだろう」との姿勢に至っては、過去の供述偏重を認めた格好だ。
この程度の認識で司法取引を導入する危険性を国民全体で共有したい。完全な可視化のもとで取り調べれば冤罪の生まれる余地はない。供述だけに頼らず、証拠を積み上げることこそが犯罪を立件する正道だ。司法取引はそれを大きく踏み外すことになる。
舞台は来年の通常国会の場に移るが、徹底的な議論を望みたい。法改正案が、社会正義の実現を支える根拠となり得ないことは自明である。