ICRCの代表を銃殺した日本 [2007年08月15日(Wed)]
アフガニスタンで拉致された韓国人キリスト教徒の方々の安否が気にかかるところ、一昨日、健康を害している二人の女性が釈放され、赤新月(イスラム教国の赤十字機関)社に引き渡されたと報道されている。 残る人たちの速やかな解放を期待する。 ところで、第2次世界大戦の時、赤十字国際委員会(ICRC)が困惑したのが、日本側が捕らえた捕虜の取扱いだった。 1929(昭和4)年の「俘虜ノ待遇ニ関スルジュネーブ条約」に日本は加盟していなかったからだ。 @日本には捕虜になるものがいないからこの条約は一見双務的だが、実際は片務的である、 A敵側には捕虜になることを前提とした攻撃が可能である、 BICRCの代表が立会い人なしに捕虜と面会できるとなれば機密保持が心配、 Cわが国の俘虜関連法規の見直しが必要となる、 などが、この条約への調印すれども批准せずの原因であった。(詳しくは、拙著『捕虜の文明史』新潮選書) だから、いざ開戦となったとき、早速、アメリカなどからICRCを通じ、日本が捕虜をどう扱うか、俘(捕)虜条約をどう考えるか、問い合わせが来た。 日本は条約を「準用(apply mutatis mutandis)」して俘虜を取り扱うと回答した。 他方、ICRCは日本への代表任命を準備し、開戦1ヵ月後の1942年1月、日本から受入れ了承の返事が来た。 日本在住のスイス人医師パラヴィチニが任命された。 第1次大戦時にもICRCの駐日代表だった人で、「パラさん」の愛称で親しまれつつ活躍した。そんな「パラさん」の場合でさえ、視察許可証や旅行許可証の入手は困難だった。 視察時間は2時間に限られ、日本の将校の立会いで面会できるのは、日本側の指名した者だけだった。 同様に、ICRCはシンガポール、ジャワ、スマトラ、ボルネオ、上海、香港、シャム(タイ)、フィリピンといった日本の占領地にも代表の派遣を求めた。 日本が占領した地区では、ICRCが任命した現地滞在のスイス人(主に商社員)が日本の現地軍当局と交渉し、捕虜や文民抑留者の収容所視察と改善の要求という困難な仕事に無報酬で取り組んだ。 日本政府は作戦地域でなくなった占領地についてのみ、ごく限定して許可を与えた。 ところが、はなはだ遺憾なことであるが、ボルネオの駐在代表だったマチウス・ヴィッシャーは夫人とともに43年5月13日、日本軍に対する陰謀の罪を理由に、同年12月、処刑されたのであった。 ベルンの日本大使館は終戦から数日経ってから「ヴィッシャー博士及び同夫人は日本軍に対する陰謀の罪により逮捕され、処刑された」旨、ICRCに通報した。 終戦記念日、各地ですぐる戦争への反省や追悼の行事が行われているが、日本の捕虜観については、さらに議論がなされていい。 また、ジュネーブ条約の普及に、戦後の日本政府はほとんど何の努力もしていない。この条約は「普及義務」がついている珍しい条約だというのにである。8月15日は単に「平和」「平和」とお題目だけを唱えていればいい日ではないのだ。 |