彼女が見せてくれた物語。
あるいは私が目にした幻想かもしれない物語。
あるいは私達が見たい幻想の中に、道重さゆみという人がいたのかもしれないということ。
私は、道重さんのモーニング娘。としての12年間をずっと見ていたわけではない。もちろん過去にもTVで何度か見たことあるし、検索すれば(真実ではないかもしれない)彼女の歴史はいくらでも見つけることは出来るけど。私がリアルタイムで見たのは、2013年以降の道重さんだけ。だけどこの2年間だけの私にも、彼女は様々なものを伝えてくれた。
モーニング娘。に何を捧げてきたのか、それによって彼女は何をすり減らしてきたのか。
彼女にとって何が支えになっていたのか。
どんな別の人生を想像してみたのか。
仕事を終え彼女が還る場所に何があるのか、それがどんなに大切なものであるのか。
あるいは、リーダーという立場に不安を隠さなかったこと。
それでもリーダーでありたいと思うこと。
どんなリーダーであるべきかをずっと考えてきたこと。
モーニング娘。が大好きであること。
それらを飾らずにありのままに語ってくれたこと。
彼女が語ってくれた全ては、一人のアイドルとしての物語に綻びを生むものではない。反対にそれは、物語世界にディテールを与える様に、この幻想をより強固してくれるものであった。なぜなら彼女が語るそれらは、モーニング娘。としてステージで輝きたいという想いに全て繋がっているから。これまでに注いできた全てを、あるいは全身全霊の今この瞬間を、その姿形だけじゃない人生そのものような美しさを、彼女はライブパフォーマンスを通じて体現してくれていたから。道重さんは美しい形を持った人だけど、その真髄はやはりモーニング娘。であることなんだと思う。留めておける美しさよりもずっと完全なものがステージにはあって、彼女のこれまでの全てはこの瞬間の為にあったんだと思える様な。己が立つべきだと思う場所で、人は最も輝けるんだということを彼女から教えてもらった。その為に何をしないといけないのかということも。
ラストシングル『シャバダバドゥ〜』
人はなぜ物語を求めるのだろう。たぶん人生そのままの重さを抱えることは誰も出来ないから、何かに替えて語ってくれるものを求めるからではないか。『シャバダバドゥ〜』には、圧縮された時間と、モーニング娘。としての彼女の物語の完結を感じる。だけどそこには年月の重さから解き放たれた様な軽さもある。そしてその軽さがあるからこそ、彼女の物語を語るものとして最も相応しい歌だと思えた。 アイドルという理想と、一人の人間が生きる現実はやはり違う。当然道重さんは人間であるから、いつかはマイクを置かないといけないし、大人だからこの物語の終わりをちゃんと告げなければいけない。だけどきっと理想のアイドルの終わりは、何も変わらず何も終わらせず、私達の前を軽快に走り去ってそのまま消えていくことなんだと思う。『シャバダバドゥ〜』とは多分その二つが重なる場所。彼女はこの長い道のりにおいて、「ありのままの自分」も「理想の中の自分」も何一つ見捨てずに、全部を引き連れてここまで来たのだ。ゆっくりとだけど、それ以外のやり方を知らないかの様な折れない強さで。その全ての結実がここにある。彼女の人生の中のひとつの物語が終わる。この完璧なラストと共に。
卒業とこれから。
大切な全ての過去を持ち寄ったって、どんな未来になるかわからない。振り返っても、過去が今だった頃の過去はない。ただ精一杯の今があるだけ。
道重さんよりも少しだけ多く生きてきた私が思うのは、あるいはあなたも感じているかもしれないが、自分を裏切るのはいつだって他ならぬ自分だったということ。好きなものがいつの間にか好きでなくなること。道重さんは色んな才能と幸運を持った人であるけど、一番は「好きなものを好きなまま」でいることの才能じゃないだろうか。そして「好きなまま」でずっと続けていく為には、何より自分を変えないといけないという事に最も自覚的な人だった。この世界に好きなものがあって、ずっと夢中になれて、苦労も厭わなくて、その為なら他のどんなことも我慢できて。そして同じ夢を見てくれる人達がたくさんいる。そんな当たり前のこと。道重さんの美しい生き方が教えてくれたのは、この世界は素晴らしいんだって当たり前のこと。
今はまだ寂しい。道重さんが見てきたものを同じように全部見ていたかった。「恩返ししたい」と言った彼女は今まで何を与えられてきたのか。「頼もしくなった」と言った彼女は後輩達のどんな姿を観てきたのか。それはきっとかけがえの無い素晴らしいもの。
今は悲しいけど、彼女を全てを知るには、これからのモーニング娘。を見続ければいい。きっとこれから見る光景に、道重さんの夢の続きがあると思うから。